これまで鎌倉時代のマルコ・ポーロ、室町時代のイブン・バットゥータの見聞きしたソマリ世界を紹介してきたが、今度はずっと時代が下って明治時代にソマリ世界を旅した有名人にご登場願おう。
その人の名はアルチュール・ランボー。フランスの詩人である。1854年生まれだから、森鴎外より8歳年上だ。早熟の天才であり、1871年(明治3年)、パリ詩壇に彗星のごとく登場するも、1874年(明治6年)に最後の詩集『イリュミナシオン』を出して、詩作を放棄してしまった。つまり、17歳くらいでデビューし20歳そこそこで引退したわけだ。
その後は、世界各地を転々とする。以下、ランボー研究者である鈴村和成先生の『書簡で読むアフリカのランボー』(未来社)を頼りに彼の足跡をたどってみよう。
75年にはドイツ、イタリア、76年にはウィーンを旅し、ついでブリュッセルでオランダの植民地部隊に入隊、現エジプトのスエズ、現イエメンの港町アデン経由でインドネシアへ行くも脱走兵となり、南アフリカのケープタウンを回ってアイルランドに帰港。
77年、今度はオランダ植民地部隊の志願兵募集係になり、ドイツではアメリカの海兵隊に志願するも不許可、スウェーデンに行ってサーカス団で働き……と書くだけでも疲れてくる。行き先もやることも、あまりにとりとめがない。
ところが、81年(明治14年)にイエメンのアデンに着き商人になると、突然ピタッと放浪癖がやんだ。それから91年(明治24年)に死ぬまで、10年間、ほとんどアデンと現エチオピアのハラルを往復するだけの生活に落ち着いた。
アデンは海を挟んでソマリランドの対岸である。今でもソマリ人の難民が数多く住むことで知られるが、当時も大勢いたらしい。鈴村先生は、ランボーがアデンに到着したときの様子を小説仕立てで描写しているが、それによるとランボーは「ソマリア人の御者」が操る馬車に乗ったことになっている。説明がないので詳細は不明だが、おそらく当時の資料や文献から馬車の御者にはソマリ人が多かったのだろう。今でもソマリ人は外国へ行くとタクシーの運転手になる人が比較的多い。
(※民族としては「ソマリ人」が正しい。「ソマリア人」は「ソマリア連邦共和国の国民/国籍保持者」の意味となる。ソマリランド共和国の国民/国籍保持者は当然「ソマリランド人」である。)
さて、ランボーはアデンとハラルの間をまるで二人の愛人を囲う男のように、数ヶ月か1年数ヶ月ごとに行ったり来たりを繰り返す。アデン=ハラル時代にランボーが本国へ送った手紙は約160通あるという。ほとんどが事務的な連絡や報告で具体的な生活ぶりはいくらもわからないが、彼の足取りを追うことはできる。
それによれば、アデンとハラルを往復する際、ランボーは何度もソマリランドを通っている。アデンから行く際は船でアデン湾を渡り、ソマリランド西部の古い港町ゼイラー(ゼイラ)に上陸する。鈴村先生によれば、ここは「ハラルとならぶランボー鍾愛の土地」であり、後には「あなたの愛するゼイラー」と同業者にからかわれるほどだったという。
当時、ゼイラは海辺の寒村で、ランボーはここでキャラバンを編成した。沿岸の奴隷売買を一手に取り仕切る「モハメッド・アブ・ベケル」という地元の有力者がおり、その一族を頼って、ラクダや食糧、水、ラクダ使い、ガイドを調達した。この一族は間違いなくソマリ人だろう。
“氏族フェチ”である私はそれがどの氏族かも考えずにはいられない。有力者の名前だけではわからないが、ガダブルシ氏族の分家である可能性が高い。今現在、ゼイラに住んでいるのは彼らだからだ。100年くらいでは氏族の領域はそう大きく変わっているとは思えない。今度ソマリランドに行ったとき、ガダブルシ氏族の知り合いに訊いてみたい。「100年前の祖先は奴隷交易に手を出していたんですね?」とは言いづらいが……。
ゼイラを出発すると、ランボーのキャラバンは350キロの道のりを20日間かけてハラルにたどり着いたという。
この辺は私も車で走ったことがある。ジブチからソマリランドの首都ハルゲイサまでの道のりがちょうどこのランボールートとクロスするのだ。大半が沙漠であり、4WDで走っても、あまりに揺れが激しく死ぬほど疲れる。地元の人たちさえ、このルートでの旅を「非情」というソマリ語で呼んでいるほどだ。あそこをラクダで縦断するのは相当に難儀なことだったと思う。
百年前は今以上に過酷な辺境だったのだ。
ランボーは、マルコ・ポーロもイブン・バットゥータも訪れている、ソマリランド第一の港町ベルベラにも行っているらしい。少なくとも、ベルベラが全焼したというニュースを手紙で伝えている。
「人口六千人のこの街は、すべて藁小屋の家で、互いにくっつきあっているか、狭い曲がりくねった通路があるのみです。大勢の人が焼死したようです」
当時、ソマリ人は建物の建造に石を絶対に使わなかったという。石材が入手しにくかったせいもあるが、「彼ら(ソマリ人)の無頓着さ、快適さへの侮蔑、それに遊牧民の習慣が、石造りの建物を受けつけないのです」とランボーは記している。
ゼイラも同様だと言っており、どうやらソマリ世界にはまだ都市民がいなかったようである。
いっぽう、ベルベラには「沖合で捕れたイシサンゴやサンゴで建てられた家が若干あり、アラブ人やインド人、ユダヤ人の家ですが、これは焼け残りました」と興味深いことを述べている。サンゴで家を作るとはよくわからないが、石材と混ぜるのだろうか、それとも四角くレンガのように固めるのだろうか。今でもこのような習慣が現地のどこかに残ってないだろうか。
アラブ人やインド人が住んでいたというのは「やっぱり」という感想。ソマリランドが内戦に陥る前にはインド人やアラブ人(特にイエメン人)が数多く暮らしていたと聞くからだ。でも、ユダヤ人もいたとは知らなかった。たいへんおもしろい。
もっともベルベラにはエジプト人が建造した行政区があり、イギリス人が住んでいたという。当時ソマリランドはすでにイギリスの植民地だったわけで、そこにユダヤ人も商売のためにやってきたのかもしれない。
この時代のソマリランド、実に興味深い。ランボーでなくても大変にそそられる。
ソマリ世界の他の地域はどうか。
エチオピアのソマリ人居住区オガデンについて、わりと詳細な報告を書簡でしたためている。前述したように、ランボーはソマリ世界周辺にやってきてから突然、腰の重い人になってしまったため、これもランボー本人ではなく、部下が行った商業探検の報告である。
その書簡によれば、オガデンの住民は「オガディン族」とされている。実際にはソマリ人のオガデン氏族のことだろう。
「背が高く、肌は概して黒というより赤い色をしています。彼らは頭には何もかぶらず、髪は短く、かなり清潔な服をゆったりまとい、肩にはシガタ(祈りに用いる敷物)を担い、腰には剣と沐浴のための瓢(ひさご)を下げ、手には杖と大小の槍を持ち、サンダルをはいて歩きます」
現在のソマリの遊牧民とほとんど同じ格好である。
ランボーの報告によれば、彼らの日々の仕事はキャンプからいくらか離れた木の下にしゃがみこんでひたすらお喋りをし、ときどき馬に乗って偵察しては近隣を急襲するぐらいだという。
うーん、容易に想像がつく。今でも「近隣を急襲」する人たちはソマリランド、プントランド、南部ソマリアを問わず存在する。そしてそれ以外の時間はお喋りや討論に費やされるというのも同様。昔からの伝統なのである。ちなみに「海賊」は「近隣を急襲」の拡大バージョンだと思えばよい。
いっぽうで、驚かされるのはオガディンには象がたくさん棲んでいたこと。
「象たちがおちあう本当の場所、彼らが死ににゆくところは、ワビ河の全流域にわたってあります」
ワビ河とはシャベル河のことである。「ワビ(もしくはウェビ)」はソマリ語で「河」を意味するのだが、現地の人たちがシャベル河のことを「河、河」と言うので、ヨーロッパ人たちは固有名詞だと思い込んだのだろう。かつてタイのチャオプラヤ川のことを「メナム河」と呼んだのと同じ経緯だ(「メナム」はタイ語で「河」の意味)。
シャベル河の至るところに象の住処があったようだ。
象狩りの様子も面白い。氏族によって、狩りの方法が異なる。
オガディン族は騎馬で狩りをする。後者は15人ほどの騎馬隊が獲物の正面と両脇を攻め、その間、練達の狩人が、剣の一撃で、象の後ろ脚の「ひかがみ」(膝の裏)を斬るという。
もう一つ、「ドーヌ族」という人々もいて、こちらは徒歩で狩りをする。武器は槍である。槍だけで象を狩るとはなかなか凄い。
このドーヌ族、一体どの氏族を指しているのか。氏族フェチの私はそれがすごく気になる。幸い、ランボーはなかなか有益なヒントを残してくれていた。
「ガラ(オロモ)族とスワヒリ族の血の混じったソマリの小部族で川沿いに住み、農耕をしている」
オロモ族はエチオピアに住む農耕民、スワヒリ族はケニアからソマリアにかけての沿岸に多く住むバンツー系の民族である。徒歩で象狩りをするのも、遊牧民でないため、馬やラクダを持たないからだろう。
これは!と思わず顔がほころんでしまった。早大大学院生のアブディラフマンの氏族かそれにごく近い氏族と推測されるのだ。
彼の氏族は「レール・シャベル(シャベル河の一族)」といい、バンツー系の血が入っており、オガディン氏族と隣合って、シャベル河沿いで農業を営んでいる。
「ドーヌ」の特徴はレール・シャベルのそれと大筋で一致する。可能性はかなり高い。
アブディラフマンはあまりに真面目すぎて一般世間のことに疎いので、数日前会ったとき「勉強ばかりしてないで、もう少し外に出て遊ぶとか運動するとか何かやったらどうだ?」と言ったばかりだ。今度会ったら、「明治時代、君のひいおじいさんかひいひいおじいさんは槍で象狩りをしてたんだぞ。少し見習え!」と言ってやりたい。
それにしても、ランボーのおかげで、アブディラフマンの祖先(推定)が明治期にどんなだったかがわかるとは思わなかった。
ランボー書簡、貴重である。
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高野秀行
1966年東京都生まれ。早稲田大学探検部在籍時に執筆した『幻獣ムベンベを追え』でデビュー。辺境探検をテーマにしたノンフィクションを中心に『西南シルクロードは密林に消える』『ミャンマーの柳生一族』『アヘン王国潜入記』『謎のアジア納豆 そして帰ってきた〈日本納豆〉』『幻のアフリカ納豆を追え! そして現れた〈サピエンス納豆〉』など著書多数。『謎の独立国家ソマリランド』で第35回講談社ノンフィクション賞、第3回梅棹忠夫・山と探検文学賞受賞。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 高野秀行
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1966年東京都生まれ。早稲田大学探検部在籍時に執筆した『幻獣ムベンベを追え』でデビュー。辺境探検をテーマにしたノンフィクションを中心に『西南シルクロードは密林に消える』『ミャンマーの柳生一族』『アヘン王国潜入記』『謎のアジア納豆 そして帰ってきた〈日本納豆〉』『幻のアフリカ納豆を追え! そして現れた〈サピエンス納豆〉』など著書多数。『謎の独立国家ソマリランド』で第35回講談社ノンフィクション賞、第3回梅棹忠夫・山と探検文学賞受賞。
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