前回まで足利尊氏の一歳年上であるイブン・バットゥータが訪れたソマリ世界を紹介してみたが、今回はさらに時代を五十年ほど遡り、かの有名なマルコ・ポーロ(以下、マルコ)に登場いただこう。
マルコの生涯は不明な点が多い。なにしろ、本当に中国(元)へ行ったのかどうかも疑問視する人がいるくらいだから仕方がない。とりあえず一般に流布している説に従うと1254年生まれで、元寇の際、執権として対処した北条時宗の3歳年下である。
マルコは『東方見聞録』によると、中国でフビライに仕えたとされている。モンゴル軍と北条時宗率いる幕府軍が戦っていたときも中国にいたかもしれない。超ローカルな日本史が世界史とダイレクトにリンクする稀な一時期だった。
『東方見聞録』は、マルコが戦争に敗れて牢獄につながれていたとき口述した話を、同室の囚人であった物語作家ルスチケルロが書きとめてまとめたものである。今でも物語作家の言うことはどこまで真実かわからず、私などもしょっちゅう「高野は話を盛っている」とか、時には面と向かって「高野さんの話はどこまで本当なんですか?」などと問い詰められる有様である(私は事実を書いています、念のため)。
そんな私が言うのも何だが、鎌倉時代のイタリア人物語作家の著作など推して知るべしであろう。おそらくは当時、彼が見聞した他の旅行者の話やその他の噂話もふんだんに盛り込まれているにちがいない。さらに多くの異なった写本が残されているようで、混乱が激しい。
マルコがソマリへ行ったのがいつなのかもわからない。そもそも記録されていないのだ。というより、本当に行ったのだろうか。でも、「物語」としてはなかなか面白い。
まずはソマリ世界の入口アデン湾の話。
現在のソマリランド沖合のアデン湾に浮かぶスコトラ島(現イエメン領。ソコトラ島とも書く)の「発酵マグロによる鯨漁」に私のハートは鷲づかみされた。
同湾は今でもマグロの良好な漁場とされている。数年前、まだソマリの海賊がひじょうに活発だった頃、国際的な漁業研究所のレポートに「海賊がいるおかげでマグロの乱獲が防がれている」と書かれていたほどだ。
さて、その漁法とは、まずマグロを捕り、細かく刻んだ魚肉を塩水に浸けて発酵させる。この発酵肉をロープにつけて舟で引っ張ると、匂いにつられて鯨が集まってくる。漁師たちが船から発酵肉をボンボン投げてやる。すると面白いことにこれを食べた鯨は酒に酔ったようになり、簡単に捕まえられてしまうというのだ。
この発酵マグロ肉とは一体何だろうか。熟れ鮨みたいなものだろうか。すごく美味そうだ。ぜひ一度食べてみたいものだが、今のスコトラ島にはないのだろうか。
スコトラ島の様子は今とは相当ちがっていたようだ。今は住民全員がムスリムだが、当時はクリスチャン。しかも、当時、この島は海賊の人気スポットだったという。
仕事を終えた海賊たちが多数来航し、略奪した品物を売りさばいていた。クリスチャンである島民は、これらの盗品が同じクリスチャンから奪われてきたものでないことを知っていたため、安心して買うことができたと書かれている。海賊も被害者も、ムスリムか他の宗教の信者だったということである。地理的に考えても、海賊にソマリ人が含まれていたにちがいない。
マグロも海賊も昔からずっとソマリ沖にいたのである。
ソコトラ島の次にいよいよソマリ本土に話は移る。が、小見出しには「モグダシオ島」と書かれている。モグダシオはモガディショのこととしか思えないが、島とは?
訳注によれば、どうやらマルコは(あるいは『東方見聞録』の著者は)現ソマリアのモガディショとマダガスカル島を混同していたらしい。
たしかに本文を見ると、「この島では駱駝の肉以外はほとんど食用に供されないから、日々屠殺(引用ママ)されている駱駝の頭数はそれこそ莫大なもので、実地にそれを見た者でなければ信じられないほどの数にのぼっている」とあり、これはイブン・バットゥータ『大旅行記』の記述と一致するし、いかにもソマリ世界という描写だ。
いっぽう、「モグダシオ島はスコトラ島の南方約千マイル(約1600キロ)にある島である」とか「世界で最も広大な島」という記述は明らかにマダガスカル島を指しているように思える。
なんと、この時代、ソマリアはマダガスカル島だった。少なくともヨーロッパ人の間ではそう認識されていた節がある。そして、本書のおかげでその誤解はいっそう深まったとも思われる。
イブン・バットゥータより五十年古いだけでこの不正確さは一体どうしたことだろう。ヨーロッパ人キリスト教徒とイスラム教徒の教養のちがいを感じずにはいられない。実際のところ、イブン・バットゥータ『大旅行記』と本書では、文章といい記述の正確さ、詳しさといい、あまりにレベルがちがう。前者が学者の調査報告レポートとしたら、後者は素人の旅ブログ程度である。まあ、前者は王の命令で編纂された書なのに、後者は囚人が牢屋で暇つぶしに語っていたものを物語作家がまとめた本だから、比べるのが酷なのかもしれないが。
などと、『東方見聞録』をくさしていたら、ネットで思いがけない情報に出くわした。
「マダガスカルでは覚醒植物のカートが大人気を博している」というのだ。
なぜ?!と言いたい。
カートはイエメンが原産地で、今主に食べられているのはエチオピア、ソマリランド、ソマリア、ジブチ、ケニア。その南のタンザニアでは聞いたことがない。存在しないと断言はできないが、少なくとも流行ってはいないはずだ。
そして、マダガスカルはタンザニアのずっと南に位置する。
うーん、なんということだろう。
マルコがモガディショとマダガスカルを混同したのは故ないことではなかったのだ。海流や海上交易路でいえば、ソマリとマダガスカルは昔から今まで、私たちが想像する以上に深く長い関係があったのだろう。ちょっと風か潮に乗ってしまえば、ソマリからマダガスカルまですぐだったのかもしれない。海は陸よりずっと近い。当然、流通的にもつながりが深いのだろう。そうでなければ、カートがタンザニアやマラウイなど陸の諸国を飛び越えて、いきなりマダガスカルに普及するはずがない。
教養が足りなくてレベルが低かったのは私の方だった。すまん、マルコ。
それにしても、マダガスカルが俄然魅力的に思えてきた。バオバブの並木の下でカートを食べたらさぞかし楽しいことだろう。酒も飲めるし、この世の楽園ではないのか。
かくして、毎回カートのことばかり書いて知性に乏しい人間だと思われたら困るという趣旨で始めたソマリ歴史文化の旅だったが、最後にはやっぱりカートに戻ってきてしまった。
やはり「カートがあってこそのソマリ世界」というのが私の正直な"きもち"なのである。
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高野秀行
1966年東京都生まれ。早稲田大学探検部在籍時に執筆した『幻獣ムベンベを追え』でデビュー。辺境探検をテーマにしたノンフィクションを中心に『西南シルクロードは密林に消える』『ミャンマーの柳生一族』『アヘン王国潜入記』『謎のアジア納豆 そして帰ってきた〈日本納豆〉』『幻のアフリカ納豆を追え! そして現れた〈サピエンス納豆〉』など著書多数。『謎の独立国家ソマリランド』で第35回講談社ノンフィクション賞、第3回梅棹忠夫・山と探検文学賞受賞。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
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それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
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- 高野秀行
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1966年東京都生まれ。早稲田大学探検部在籍時に執筆した『幻獣ムベンベを追え』でデビュー。辺境探検をテーマにしたノンフィクションを中心に『西南シルクロードは密林に消える』『ミャンマーの柳生一族』『アヘン王国潜入記』『謎のアジア納豆 そして帰ってきた〈日本納豆〉』『幻のアフリカ納豆を追え! そして現れた〈サピエンス納豆〉』など著書多数。『謎の独立国家ソマリランド』で第35回講談社ノンフィクション賞、第3回梅棹忠夫・山と探検文学賞受賞。
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