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五木寛之×中島岳志特別対談 親鸞思想の危うさをめぐって

五木 はじめまして。今日は私の方が色々とお伺いする側です。私は一人の小説家ですが、中島さんは学問の世界で仕事をされている。立場は違いますが、忌憚のないお話をできればと思います。

中島 こちらこそ、よろしくお願いいたします。

五木 さっそくですが、中島さんが8月に刊行される『親鸞と日本主義』(新潮選書)。これは明治以来の大きなテーマですね。「考える人」での連載中から、ひょっとすると本願寺をはじめ親鸞を祖師として戴く浄土真宗の関係者は驚天動地の騒ぎになるのでは、と思いましたが、意外なほど周囲の反応が聴こえてこなかった。そこが私にとっては疑問であり、不満でもありました。

中島 連載中から読んでくださったとは、ありがとうございます。開始が2010年でしたから、本になるまで7年もかかってしまいました。

五木 中島さんの一つのライフワークですね。最近出された島薗進さんとの対談『愛国と信仰の構造』でも、親鸞思想がはらむ危うさを論理的に鋭く指摘されていました。私自身、何か得体の知れない危うさを感じてはいたんですが、そうか、これだったのか、という知的なショックを受けた。
 戦国時代や一向一揆を別とすれば、一般に、真宗の門徒さんは社会に対して従順で温厚、波風立てずに体制に順応するイメージがある。それが、親鸞の思想に昭和戦前・戦中の全体主義、ファシズムに通じるところがあるという指摘は新鮮な驚きでした。

中島 もともとの学問的関心は、なぜ超国家主義が戦前期に急速に大きくなったのか、ということで、最初は大川周明や北一輝、石原莞爾などの著作をむさぼり読みました。

五木 それは、いつごろのことですか。

中島 20歳の頃、1995年ですね。

五木 驚きですね。そういう青年がいたこと自体が。

中島 でも、私にとっては同時代の問題だったんです。95年は1月に阪神淡路大震災があって、周囲が一変してしまった。当時は大阪に住んでいて、心の空白というか、この先、何に依拠して生きればいいのか、みたいな宗教的なことを考えるようになりました。その矢先の3月、今度はオウム真理教が地下鉄サリン事件を起こします。

五木 そうでした。

中島 すると世間は、宗教はアブない、なぜ今の若者は宗教にはまり込むのか、という問題設定をしますね。もちろん、私自身オウムに違和感がありましたが、そういう世間に対しても違和感がぬぐえなかったんです。
 そしてもう一つ、8月の戦後50周年にあたって村山談話が出されました。これに右派の人たちはいっせいに噛みつきました。先の戦争をめぐって聖戦史観、東京裁判史観、自虐史観といった言葉が一気に広がりました。つまり宗教と愛国という、戦後ずっとパブリックなところでは触れられずにきた二つの問題が、同じ年に大きく露出してきた。当時私はそう感じたんですね。

五木 なるほど。

中島 では、私自身はこの二つにいかに向き合い、どう決着をつければいいのか。あれこれ考えるうち、この二つが一体化し肥大化した昭和戦前期、超国家主義やファシズムという現象に突き当たりました。そこで大川や北のような、現代では読まれなくなっている人たちの書いたものに、ナマで触れる必要があると思ったんです。

五木 50年と一口に言うけど、ずいぶんと隔たりがありますね。
 私の学生時代といえば1950年代ですから、スターリン批判があり、学内でも全学連とか民青とか左派が幅を利かせていて、それが時代のムードと一体化してもいました。学生も、野間宏は読んでも、大川周明なんて特殊な関心がある人でないと手にとらなかったし、そもそも愛国という観念さえなかった気がします。

中島 そうでしょうね。

五木 最近になって、若い研究者たちが昭和史や昭和戦前にいろいろ興味を持ち始めていますが、ただ中島さんは非常に早熟というか、関わるのが早かった。

中島 いえいえ、学問的な興味というより、自分にとって切実なアクチュアリティ、戸惑いを感じたまでのことで、それを解決するために大川や北を読む必要があったんです。

五木 それはなぜでしょう。

中島 もともと日本のファシズムと仏教の接点は、アカデミズムにおいても、基本的に日蓮宗の問題として片づけられてきました。
 田中智学の国柱会があり、八紘一宇という概念がつくられ、そこに石原莞爾や宮沢賢治らが加わり、あるいは北一輝や井上日召など昭和維新運動を彩る人たちにも日蓮の信奉者が多くいた。だから、仏教と国体あるいは国粋主義との関わりは、日蓮宗の問題として語られることがほとんどだったんです。

五木 最近まではそうでしたね。

中島 日蓮思想の特殊な例としてファシズムと仏教の合流があった、私も最初はそう理解していました。逆に、親鸞の思想はそういうところからは距離がある、安全地帯だと思っていた。私なりの安心の仕方をしていたわけですね。

五木 安全地帯とは言いえて妙ですが、確かにそういう風潮がありました。親鸞の思想はファシズムとはつながらない、という。

中島 そうなんです。ところがあるとき、大阪の古本屋で三井甲之の『親鸞研究』という本を見つけて驚いたんです。1930年代、蓑田胸喜と組んで雑誌「原理日本」をつくり、天皇機関説事件や滝川事件のような言論弾圧を主導した、いわば日本ファシズムの最も危ないグループの首謀者の三井と親鸞が、どうして結びつくのか、と。

五木 そのあたりの話には私も驚きました。

中島 で、親鸞を批判しているのかと思いながらページをめくると、これが大絶賛でした。まいったなあ、と思いながら買って帰ったのを憶えています。戦前日本の最右翼だった三井も蓑田も、同じように親鸞の信奉者だった。しかも、親鸞の論理にもとづいて言論弾圧事件を起こしている。一体、どういうことなのか。そこから私の問いがスタートしているんです。

五木 つまり、親鸞への傾倒から転向してファシズムへ行ったのではなく、親鸞を抱え込んだそのまま、全体主義のほうへ傾斜していったと。それは興味深い着眼です。
 少し私自身の話をしますと、1960年代の後半、しばらく金沢に住んでいました。小説を書きはじめる前で、古本屋かジャズ喫茶でもやろうか、なんて考えながら無為の日々を送る中、金沢大学の図書館に時々足を向けていました。そこに暁烏(あけがらす)(はや)文庫というのがあって、ドストエフスキーやロシア語の本も含めて約6万冊が所蔵されていました。
 それまで私は暁烏について何も知りませんでしたが、地元では家に全集があるという人からタクシーの運転手さんまでが、「暁烏さんはね―」とまるで近所のおじさんのことみたいに気安く話すんです。その一方で暁烏は、戦争中は戦時教学という非常にファナティックな言動をしていた。いったいこの人は何なんだろう、という得体の知れないヌエみたいな印象を持っていました。

中島 暁烏はまさに大谷派の主軸であり、戦時教学の中核であり、戦後も教団の中心的存在でした。その他には、金子大栄、曽我量深(りょうじん)ですね。この三人ことごとくが、戦時教学の中で危うい言論を繰り返していました。
暁烏がその頃、自分のお寺でやった講演や講話の記録がブックレットとして多数残されていて、当時の考えが非常に率直に述べられていますが、全集からはすべて抜け落ちています。実際に読んで分析してみると、相当に危ない内容なんです。この辺は教団を含めてどういう扱いをしているのか、というのもテーマの一つでした。

五木 なるほど。熱心な真宗門徒の多い北陸では、暁烏・金子・曽我の清沢満之(きよざわまんし)門下の三羽烏の他、地元で深い影響力を持つ三人衆がいましたね。暁烏敏と藤原鉄乗、高光大船かな。その高光さんも戦争中は、ある門徒の青年が出征前に「行ってきます」とあいさつしたら、「行ってきますとは、帰ってくるということか? なぜ行きますと言わないか」と叱咤か激励か、そんなことを言ったというエピソードがあります。
それにしても、戦争中は真宗の幹部たちもほとんどがそうなってしまった、そこが大きな謎なんですよ。

中島 そうですね。特に暁烏はどうして当時もそして戦後も、あれほど多くの人に慕われ続けたのか。私が思うに、彼のスキャンダルと無縁ではないと思いますね。つまり、近づきがたい高僧みたいな人ではなくて、自分たちと同じ悩みの地平に立っている人。そういう感覚が、法話を聞く人たちの中でも大きかったようです。

五木 おそらく、そうなんでしょうね。

中島 妻が病床にあるにもかかわらず、妻の看護をしている別の女性に想いを抱いてしまう。しかも、それを自ら赤裸々に語るんです。ただ、私たちはそういう煩悩を持った人間であり、自分もその一人なのだ。しかし、そういう人間のためにこそ弥陀の本願はある―こういう話は、文字の読み書きさえ満足にできない人たちの日常と、暁烏の日常が同じ延長線上にあるように思わせたんでしょうね。
 もともと話は非常に上手ですし、戦争に行って死ぬことさえ、彼の言葉によって意味づけられたかもしれない。暁烏さんがおっしゃるようにすれば大丈夫だ、浄土へ往生できるんだ、とあたかもスポンジに水が浸みこむように、グラスルーツの人々の心の中にひたひたと入っていく素地があったんだと思います。

五木 確かにそういう信頼感というか、親密感があったと思う。ですから、国民全体が間違ったほうに流れていくなら、敢然とただ一人逆流を遡ろうとするより、自分も一緒に流れていくぞ、みたいな感覚があったのではないか。そこに、ファシズムとの親和性を強めていく理由があったのかもしれません。
 今日ここに持ってきた雑誌の中の暁烏の師ともいうべき清沢満之に、こんな文章があります。ちょっと長いですが、読んでみますね(『精神講話』浩々洞、1902年)。

「君の為国の為にせんとする時は、吾人は吾人の思慮分別を放棄せねばいかぬ。こうすれば君の為になるか国の為になるか、ああすれば君の為になるか国の為になるか、と君の為国の為を自分で思案して居ては、常に之を決し難きのみならず、時には其為と思うたことが為にならぬ場合がある、又時には反て不為になる場合がある」

「然ればどうすれば可いか。外に仕様はない、自分の思案分別を全く放擲して、直に命令を聞くべきである。君上の聖勅に服し国家の命令に従ひて、疑慮なく一心不乱に勇猛邁進するが、忠臣義士の操行である。親に対する孝も、友に対する信も、本当に之を行うには、自分で彼れ此れ思案すべきでない。親の命に聞き友の言に聞き、寸毫も自意を交えずして、驀直進前するが、即ち孝と信との実行である」

 日清から日露戦争前とはいえ、まるで軍人勅諭みたいですね。これが、西洋近代哲学を学び、親鸞の思想性を確立したと言われる人の文章なのか、そう思ってしまいます。

中島 それは、場合によっては暁烏の手が入っているかもしれませんね。

五木 ええ。清沢は自分の名前で発表するものでも、暁烏や多田鼎などに任せきりで、少しも不平不満を言わなかったといいます。すごく不思議ですが、自分は自力で文章を書いているんじゃない、君民一体ではないけど、弟子も自分も一体なんだという考え方があったのではないか。そんな気がする。

親鸞と日本主義
中島岳志/著
2017/08/25発売

五木寛之

1932(昭和7)年、福岡県生まれ。1947年に北朝鮮より引き揚げ。早稲田大学文学部ロシア文学科に学ぶ。1966年「さらばモスクワ愚連隊」で小説現代新人賞、1967年「蒼ざめた馬を見よ」で直木賞、1976年『青春の門』で吉川英治文学賞を受賞。著書は『朱鷺の墓』『戒厳令の夜』『風の王国』『風に吹かれて』『親鸞』『大河の一滴』『他力』『孤独のすすめ』『はじめての親鸞』など多数。バック『かもめのジョナサン』など訳書もある。

中島岳志

なかじま・たけし 政治学者、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。1975年、大阪府生れ。大阪外国語大学外国語学部ヒンディー語学科卒業、京都大学大学院博士課程修了。2005年、『中村屋のボース インド独立運動と近代日本のアジア主義』で、大佛次郎論壇賞とアジア・太平洋賞大賞を受賞。京都大学人文科学研究所研修員、ハーバード大学南アジア研究所客員研究員、北海道大学公共政策大学院准教授を経て、現職。主な著書に、『「リベラル保守」宣言』(新潮文庫)、『血盟団事件』(文春文庫)、『親鸞と日本主義』(新潮選書)、『超国家主義 煩悶する青年とナショナリズム』(筑摩書房)、『思いがけず利他』(ミシマ社)、『テロルの原点―安田善次郎暗殺事件―』(新潮文庫)、共著に『料理と利他』(ミシマ社)、『いのちの政治学』(集英社クリエイティブ)など。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
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手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

五木寛之

1932(昭和7)年、福岡県生まれ。1947年に北朝鮮より引き揚げ。早稲田大学文学部ロシア文学科に学ぶ。1966年「さらばモスクワ愚連隊」で小説現代新人賞、1967年「蒼ざめた馬を見よ」で直木賞、1976年『青春の門』で吉川英治文学賞を受賞。著書は『朱鷺の墓』『戒厳令の夜』『風の王国』『風に吹かれて』『親鸞』『大河の一滴』『他力』『孤独のすすめ』『はじめての親鸞』など多数。バック『かもめのジョナサン』など訳書もある。

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中島岳志

なかじま・たけし 政治学者、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。1975年、大阪府生れ。大阪外国語大学外国語学部ヒンディー語学科卒業、京都大学大学院博士課程修了。2005年、『中村屋のボース インド独立運動と近代日本のアジア主義』で、大佛次郎論壇賞とアジア・太平洋賞大賞を受賞。京都大学人文科学研究所研修員、ハーバード大学南アジア研究所客員研究員、北海道大学公共政策大学院准教授を経て、現職。主な著書に、『「リベラル保守」宣言』(新潮文庫)、『血盟団事件』(文春文庫)、『親鸞と日本主義』(新潮選書)、『超国家主義 煩悶する青年とナショナリズム』(筑摩書房)、『思いがけず利他』(ミシマ社)、『テロルの原点―安田善次郎暗殺事件―』(新潮文庫)、共著に『料理と利他』(ミシマ社)、『いのちの政治学』(集英社クリエイティブ)など。

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