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人間を変えるメディア、「能」

2017年10月31日

人間を変えるメディア、「能」

人間を変えるメディア、「能」<後編>

著者: 下西風澄

能 650年続いた仕掛けとは』(新潮新書)の刊行記念イベントとして、著者である能楽師、安田登さんと、『数学する身体』(新潮社)の森田真生さんの対談が、東京のカメリアホールで開催された。「能を数学で、聞く」という顔合わせも内容も異色の対談だが、ふたりは奇妙にも根底で繋がってゆく。200人近い参加者の熱気にあふれた会場の様子を、ふたりを知る哲学者・下西風澄(しもにしかぜと)さんにレポートしてもらった。前編に続いて、後編をお届けしたい。

能舞台の不可思議な空間

 在原業平が日本中を旅する『伊勢物語』にちなんだ能の演目『雲林院』が演じられるとき、旅中の様々な情景が、三間四方の小さな能舞台の空間に現れる。松の絵が描かれただけの簡素な舞台空間は、演じる能楽師の姿勢、歩き、舞いによって、めくるめく変化する。またそれを観る者の参加によって、空間の広がりだけでなく、色彩や情景さえそこに生まれてくる。

『雲林院』の最初は「藤咲く松も紫の、雲の林を尋ねん」。これは「藤咲く」で、美しい藤の花がイメージされ、次いで「藤咲く松も紫」ですから、藤がからまる松すらも藤の色である紫に変容しているさまが謡われ、さらに「紫の雲」と空の雲までもが藤の色が映って紫の色になっている。そんな「雲の林」、すなわち「雲林院を尋ねよう」と謡うのです。
             —安田登『能 650年続いた仕掛けとは』,51頁

 安田登は舞台上で腕を(ひら)いて動きまわり、「この動きには特に意味はないんです」と言う。多くの踊りやダンスには、ひとつひとつの動きに意味があるが、能には「型」があっても「意味」はないと語る。しかし、意味がないからこそ、その動きに観客が意味を自ら見出して、舞台空間が能楽師の動きとともに自在に変化するのだ。

数学的空間と身体

「空間というのが、実は様々な仮説を主体的に設定することで能動的に構成できるものだというのは19世紀の数学の偉大な発見でした」と森田真生は語る。たとえば、私たちは「三角形の内角の和は180度」ということを常識のように考えているが、19世紀に数学者ガウスが証明したのは、数学的には「三角形の内角の和は180度であることを証明できない」、という驚くべき事実だった。
 私たちがそれまで「三角形」と考えていたのは、あくまで平らな空間の中にある三角形で、空間そのものが曲がっていると、そこでは三角形の内角の和は180度にならない。そして実際、私たちの宇宙はあらゆる場所で曲率を持っていることがいまでは物理学の常識になっている。
 空間に私たちが見出す「角度」や「距離」などの計量的な構造は、本当は私たち人間の身体や視覚など、偶然的な条件によって導き出されるひとつの仮説にすぎない。別の身体をもった生物や、赤ちゃんは、別の仮説の下で空間を経験しているはずなのだ。

 数学者たちでさえ、こうした「常識」や「仮説」に長らく捕らわれてきた。それは、私たち人間の、眼が見えたり手を動かせたりする、という身体的条件がいかに強力だったかを示しているだろう。
 そういう意味では、舞台空間を装飾することによってではなく、身体的な動作を通して空間を変容させていく能の技法に森田は「興味津々です」と感想を語った。

芭蕉の見た「異界」の風景

 安田は、能の不可思議な舞台空間を考える好例として、「芭蕉の『おくのほそ道』は、実は能の旅路だったのではないか」という仮説を話した。
 芭蕉は、那須の黒羽に向かって旅をするが、そこで「直道(まっすぐな道)」を歩こうとする。那須を舞台にした能の『遊行柳』では、旅の僧のもとに老人が現れて、その道を行くなと警告する。芭蕉はまさに同じような道程を辿り、突如として雨に見舞われたり、昼なのに闇夜が訪れたりする不可思議な出来事に遭遇してしまう。
 能では、舞台上で急に大雨や大雪が降ったり、霊と出会ったり、演者は「異界」の空間へと導かれる。これと同じように、芭蕉が能の旅をしていたと考えれば納得がいく、と安田は考えるのだ。芭蕉の解釈は一例だが、実際に古典能のなかには『平家物語』や『源氏物語』など、日本の古典文学が詰まっているし、逆に能が浸透して以来の文学のなかには能が詰まっている。その最たるものが芭蕉だというのだ。
 能によって異空間を体験していたのは、芭蕉のような知識人だけではない。江戸では能の「謡本」が大ブームの売れ行きをみせ、魚屋から八百屋まで、ふつうの人々が婚礼や宴会の場で謡っていたのだという。彼らも、謡えば霊に出会ったり、紫の藤が照らす雲を頭に浮かべたりしたに違いない。
 安田は新著で、世阿弥の「花と面白きと珍しきと、これ三つは同じ心なり」という言葉を紹介している。「珍し」は「愛ず」であり「目連らし」(自然と目が向かう)でもある。「誰でもが見慣れているはずのものなのに、そこにまったく斬新な切り口、新しい視点を導入して「あはれ」を感じさせる」(前掲書,117頁)。それこそが能の「花」なのかもしれない。いま目の前の景色が、突如として別物に見える。しかも、能の謡によって現れる風景は、ある種の「極楽」の風景である、と高浜虚子の言葉を引用して伝える。

いかに窮乏の生活にいても、いかに病苦に悩んでいても、ひとたび心を花鳥風月に寄せる事によってその生活苦を忘れ病苦を忘れ、たとえ一瞬時といえども極楽の境に心を置くことができる
                          —前掲書,156頁

 能を観る者は舞台の上に景色を浮かべ、能を謡い能と共に生きる者は、極楽の風景にあわれを感じる。そんな人間を身体ごと変えてしまう力こそ、能の永く続いてきた秘密かもしれないと、安田は締めくくった。

心が降り立つメディア

 能は観客が「参加」することで、何もないはずの舞台には雨が降り、表情のないはずの能面には感情が上演される。能楽師は、かつてあった人々の心を舞台に舞い戻らせるのだ。
 森田は、能を「メディア」として捉えることができると前半で話したが、その能独特の方法論を現代の人工知能や人工生命のアプローチとして対比して次のように語る。人工知能/人工生命は、心や生命のない物質をうまく制御して、心や生命に見えるものを創ろうとする。
 しかし、能が始まった650年前の日本では、ありとあらゆるものに心があると考えられていたはずだ。そこに「心を創る」という発想はそもそもない。心はそもそも至るところに存在する。だから、彼らが霊を憑依させて上演しようとしたのは、「心を創ること」ではなく、「(誰かの)心を降り立たせること」だったのではないか。
 西洋数学の延長線上には人工知能が登場したが、これは「物質には心がない」という強力な思想のもとに生み出されたものだ。あらゆるものに心があって、それを身体の動きや謡によって呼び出す能は、私たち日本の思想が生んだ、独自のメディアとしての方法だ。
 様々なメディアが世界を覆っていく現代において、能には多くのアイディアが詰まっている。「人間に寄り添うメディア」という考え方の究極の行き先は、人間がいらない世界になるだろう。「しかし私たちが今手にしなければならないのは、人間に高い要求をつきつけるが、人間を新たなものへと変質させてしまうようなメディアではないだろうか。そんな未来のメディアのために、能の伝統から私たちは多くを学ぶことができる」。そう森田は言葉を残した。

経験の生む思想

 能という芸能が、650年も続いてきたというのは驚嘆の事実である。森田は近代数学がたった150年前に日本へ到来したと語っていたが、実際、今の我々の生活や思想、あるいは社会システムの多くは、明治期に西洋から不可避的に急遽輸入したものだ。
 私が学び、研究している「哲学」も数学と似たような状況にある。日本の過去の思想は仏教の強い影響の下にあり、そして、仏教思想は中国から輸入したものだ。中国を受け入れ、西洋を受け入れた日本。その特異な変貌と忘却のなかに、いったいどのような思想があるのだろうか。私もそのヒントを安田登の著作から学べるような気がしている。新著『』では、能も中国の「散楽」に起源があるという説が紹介されているが、その後に日本で世阿弥が大成した能は散楽とはまったく別物であるという。また、そこには『源氏物語』など日本文学との複雑な絡み合いもある。

 三木清という京都学派の哲学者は「概念の与えられているところではそれの基礎経験を、基礎経験の与えられているところではその概念を明らかにするのが解釈の仕事である」という言葉を残している。
 日本は西洋から「哲学」や「概念」というものを学んだ。哲学や思想は、高度に抽象的な概念の体系であるため、あらゆる時代や風土においても再利用することができるという素晴らしさがある。しかし、どのような思想であっても、その根本には、それを考え、育む、身体を持った人間の経験が存在する。およそ150年前に突如として私たちが獲得した概念や思想は、まったく別の歴史の渦の中からゆっくりと創りあげられてきたものであり、私たちの歴史に蓄積されている経験との折り合いは、いまだつけられてないと言っていい。私たちがこれからなさなければならないのは、近代化という巨大な波の中で急速に誂えた思想に、基礎経験による肉付けを与え、またそれを更新していく作業ではないだろうか。その作業には、歴史という過去の経験の貯蔵庫と、新しい経験を呼び起こす現代のテクノロジーやメディア環境を、同時に考えていく柔軟で強靭な思考が求められるだろう。
 私は、安田の新著を読んで、能という芸能の中に、日本の哲学、思想、文化を考えるための、日本の「基礎経験」が詰まっているのではないかと思えた。

 私たちの基礎経験とはいったい何なのか、という問いを明らかにするには、長き研究と観察が必要だ。対談でも触れられていた夏目漱石は、西洋の文明開化は「内発的」だが、日本では「外発的」に開化が起こったと書いている。漱石の言う内発的とは、ある波が次の波を揺らし、またその波が次の波を揺らして大きな波が引き起こされるということだ。性急に波を起こそうとするのは危険である。西洋には西洋の長い歴史があり、それを日本が短期間で起こそうとしても、「空虚の譏りを免れない」(夏目漱石『現代日本の開化』)。
 ひとつの思想や芸能を育むのは、途方も無く時間がかかる。私たちはこれから、何十年、何百年とかけて、自らの伝統を自覚し、また壊し、日本の風土と歴史に適した思想を創り出し、生活や制度を再設計していかなければならないだろう。そのとき、650年という能が培ってきた経験の深い時間は、きっと導きの糸になるだろうと思う。

(おわり)

(撮影・新潮社写真部 佐藤慎吾)

能―650年続いた仕掛けとは―

安田登/著

2017/9/15発売

 

数学する身体

森田真生/著

2015/10/19発売

 

下西風澄

下西風澄

しもにし・かぜと 1986年生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得退学。哲学や文学を中心に、研究と文筆活動を行う。主な論文・執筆に「生命と意識の行為論」(『情報学研究:学環』,2015)、「色彩のゲーテ」(『ちくま』2014年8-10月号)、「文学のなかの生命」(『みんなのミシマガジン』連載中)、「詩編:風さえ私をよけるのに」(『GATEWAY 2016 01』)など。kazeto.jp

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
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それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

下西風澄
下西風澄

しもにし・かぜと 1986年生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得退学。哲学や文学を中心に、研究と文筆活動を行う。主な論文・執筆に「生命と意識の行為論」(『情報学研究:学環』,2015)、「色彩のゲーテ」(『ちくま』2014年8-10月号)、「文学のなかの生命」(『みんなのミシマガジン』連載中)、「詩編:風さえ私をよけるのに」(『GATEWAY 2016 01』)など。kazeto.jp

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