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石内都と、写真の旅へ

 一九五二年四月、「サンフランシスコ講和条約」が発効した。これ以降、横浜市内で接収されていた地域・建物が徐々に返還されていく。その一方、約七〇ヘクタール(約二十一万二千坪)におよぶ米軍人・軍属家族の住宅群「横浜海浜住宅地区」(本牧町など)は返還されず、さらに、五六年五月には米軍独身将校宿舎「ベイサイドコート」(新山下)があらたに建設され、市内各所の駐留部隊がこの宿舎に移転した。これらの地区が返還されるのは八二年になってからである。

 互楽荘は先に触れたように一九五六年十月、接収解除となり、建築主の宮崎庄太郎の娘、愛子が経営を引き継いだ。米軍文官宿舎として使われた十一年の間に、互楽荘は荒れてしまった箇所もあり、愛子は建物の大改修を行っている。電気やガスの設備を整え、各室に水洗トイレを設置、建具なども一新して居住者を迎え、一階にはレストランなどの店舗が入った。

 それから約三十年後、石内都が互楽荘を訪れ、クラシックギターの音色に引き寄せられて、ギタリスト斉藤敏雄に出会ったのだ。石内は振り返る。

「斉藤さんは独特の魅力のある人だった。互楽荘を撮らせてもらいたいという私の申し出をすぐに了承してくれたのは、なぜなのかわからないけれど、彼と話すのが楽しくて、取り壊すまでの一年間通ったのよ。斉藤さんは当時四十代前半ね。いつも細身のジーンズにブーツというスタイルで、かっこよかった。すでに互楽荘は取り壊し工事の音が響いていたけれど、彼の室内がとてもすてきだった。古いランプがいくつもあって、木製のさまざまな椅子が置いてあり、それから炎が見える古いストーヴもあった。窓辺にはトンボの形をした凧があった。古いモノにとても愛着を持っている人だった」

石内都「yokohama 互楽荘#62」 ©️Ishiuchi Miyako

  この室内を石内は撮影しており、写真集『yokohama 互楽荘』に、彼への感謝の言葉とともにおさめている。そのページを見ると、斉藤の室内は互楽荘建設当時のパンフレットに掲載された写真とほとんど変わらず、床の間などもきれいなまま残っていて、そこには本が積み重なっている。彼が互楽荘の一室をいつから借りていたのか、石内はわからないという。

「元町で美容室を営む奥さんがいて、お嬢さんもいると聞いていた。でもプライベートはそれぐらいしか知らない。互楽荘の部屋のドアにギター教室の看板を掲げていたけれど、生徒を見かけたことはなかった。でも斉藤さんは演奏活動をしていて、神奈川県立音楽堂で行われた彼のリサイタルの案内をいただいて聴きに行ったことがあったわ。十七、八世紀のスペインの楽曲を中心に演奏していた。そのリサイタルは互楽荘が取り壊されてから数年後だったと思う。彼が転居した本牧のマンションに遊びに行ったこともあるけれど、しだいに連絡が途絶えてしまい、いまから十年ぐらい前に、斉藤さんの知り合いだという女の人から電話をもらって、斉藤さんが亡くなったと知らされたのよ」

 互楽荘最後の日々を過ごし、スペインの古典曲を奏でていたという斉藤。私のなかで彼のイメージがふくらんでいく。

 インターネットで調べると、斉藤の友人がブログで彼について書き残していた。それらによれば、斉藤は一九四二年横浜生まれ。若いころから自転車で日本一周するなど、旅好きだったようだ。複数のギタリストに師事し、七七年からリサイタルを行っている。また、九〇年代半ばには能楽師や琵琶奏者とともに、チェコ、ハンガリー、ドイツ、スペインでも公演したという。ただ、CDなどを残すことはなく、二〇〇七年の秋、がんのため死去。六十四歳だった。

 そのころ石内は、「ひろしま」シリーズの撮影のため広島へ通っていた時期でもあり、弔問はかなわなかった。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

与那原恵

ノンフィクション作家。1958年東京都生まれ。『まれびとたちの沖縄』『美麗島まで 沖縄、台湾 家族をめぐる物語』など著書多数。『首里城への坂道 鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』で河合隼雄学芸賞、石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞(文化貢献部門)受賞。

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