斉藤を知る手がかりがないかと、石内に記憶をたどってもらうと、こう言った。「そういえば、斉藤さんが親しくしていた俳優の高橋長英さんと一緒にお酒を飲んだことがあったわ。高橋さんに会えば、彼のことがわかるかもしれない」。
高橋長英は、斉藤と同じ一九四二年、横浜生まれ。上智大学法学部を中退し、六三年に俳優座養成所に入所。卒業後は、テレビドラマ、映画、舞台などで多彩な役柄を演じ、高い評価を得ている。彼が舞台で演じたなかに、石内が一度面会した荒畑寒村の役(宮本研作「ブルーストッキングの女たち」八七年、地人会公演)もある。高橋の所属事務所に連絡したところ、京都で時代劇の撮影中だが、合間に横浜の自宅に帰るので時間をとってくれることになり、ホテルニューグランドで石内とともに面会かなった。高橋と石内は約三十年ぶりの再会をよろこぶ。
高橋は「斉藤、懐かしいな」と言い、ほほ笑んだ。斉藤と出会ったのは、一九八三年ごろのことだという。高橋は関東学院(横浜市)中学・高校で学んだのだが、同級生に、横浜のモーターサイクルクラブ「ケンタウロス」(六四年結成)のボス飯田繁男がいた。ケンタウロスは能の公演など文化的な活動も熱心にやっていて、あるとき、飯田にギター演奏と詩を朗読するイベントをするので出演してほしいと頼まれたのだった。
「斉藤はケンタウロスのメンバーだったのです。だからいつも革ジャンにジーンズ、ブーツだった。身長百七十八センチの彼はそのファッションがよく似合った。彫りの深い顔立ちも魅力的で、ちょっと謎めいた雰囲気がありましたね。ケンタウロスのイベントの一回目は一九八五年ですが、のちに『詩とギターの夕べ』と題して全国各地を数年かけてまわりました。演奏はギターの斉藤、それからリコーダーの小俣達郎くんが加わることもあった。朗読は僕と、俳優座の中村たつさん。けれども僕と斉藤だけで公演することも多く、それで彼と親しくなっていったのです。斉藤の演奏は、とてもよいときと、そうでないときの落差がありました。調子のよいときはほんとうに涙が出てしまうようなすばらしい音色だった。公演の前には互楽荘で一緒に稽古したので、僕はよく行きましたよ」
「詩とギターの夕べ」公演のチラシを高橋が保管していた。その演目は、フェルナンド・ソル作曲「月光」と中原中也の「月夜の浜辺」、また「アルハンブラの思い出」で知られる作曲家フランシスコ・タレガの曲と金子光晴の「洗面器」を組み合わせるなど、意欲的な企画だったことがわかる。
詩を愛していたという斉藤は、昭和初期にアジアを放浪した金子の詩のなかでも「洗面器」が好きだったという。洗面器をまたいで放尿する広東(中国)の女、そのわびしい音が詩人の耳に残った。
洗面器のなかの/さびしい音よ。/くれてゆく岬(タンジョン)の/雨の碇泊(とまり)。/……/洗面器のなかの/音のさびしさを。
高橋が語る。
「斉藤は梅雨の季節が大好きだと言っていました。互楽荘の窓から、雨がしとしとと降るのを飽きずに眺めていたのです。なぜ雨が好きなのか尋ねると、自分は台湾の先住民の血を引いていると、ぽつりと言ったことがありました。台湾でも雨の多い山岳地帯に暮らしてきた先住民の末裔だったのかもしれませんね。彼は台湾で生まれ、育ったのか、それを話すことはありませんでした。いつから横浜に住んでいたのか、五十歳で他界したという父親がどんな仕事をしていたのかも、僕は知りません。彼は過去をほとんど話しませんでしたから。でも、互楽荘の建物、古いランプやストーヴなどを愛したのは、彼の記憶とつながっていたのかもしれませんね」
この話を聞いていた石内は「まったく知らないことばかり……」とつぶやく。彼女がカメラにおさめた斉藤の室内にあるトンボの形の凧が気になっていた私は、これと同じ凧を台湾の町角で見たことがあるのを思い出した。このトンボの凧は、斉藤の転居先の本牧のマンションにもあったと石内は言う。
高橋はこう話す。
「斉藤は石内さんが互楽荘を撮るのをよろこんだと思いますよ。彼にとっても愛着のある建物が壊されていくのは辛かったでしょう。僕が互楽荘に行くと、斉藤は立ち退きを迫る管理会社の人とやり合っていることがありました。互楽荘にぎりぎりまで残った彼は、石内さんを歓迎したんじゃないかな。斉藤は人の好き嫌いがはっきりしていて、誰とでも親しくしたわけではなかったけれど、石内さんとは通じるものがあったのでしょうね」
石内は「斉藤さんのことを教えていただいて、ほんとうにうれしい。写真とは、人との出会い。それをあらためて思った。斉藤さんは、解体直前の『ベイサイドコート』に私を案内して、警備員と話をつけてくれたのよ。そのあと私はひとりで通って撮影した。一九八九年に解体され、いまはないけれど。ベイサイドコートを撮ったのも互楽荘で聞こえたギターの音色がきっかけだった。あのときドアをノックして、斉藤さんに出会えてよかった」と言った。
私は、何度か旅したことがある台湾の緑濃い山岳地帯の風景を思い起こし、高い青空に舞うトンボの凧を想像した。哀愁を帯びたスペインのギター曲と重ね合わせながら。
※ご愛読ありがとうございました。本連載をまとめた本を、新潮社から刊行予定です。
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与那原恵
ノンフィクション作家。1958年東京都生まれ。『まれびとたちの沖縄』『美麗島まで 沖縄、台湾 家族をめぐる物語』など著書多数。『首里城への坂道 鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』で河合隼雄学芸賞、石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞(文化貢献部門)受賞。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
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