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以前から知り合いのお二人ならではの、当意即妙なやりとりが続く。トークイベント開催日は衆議院解散直後だったこともあり、おのずと政治の話に熱が入った。
 

ブレイディ 國分さんは今回の安倍政権の解散総選挙の仕方に怒っていらっしゃいますが、イギリスでコービンの労働党が躍進した理由の分析として、あるジャーナリストが「ガーディアン」に興味深いことを書いていました。イギリスの場合、昨年はEU離脱の国民投票があり、一昨年は総選挙があり、さらにその前の年はEU議会選があってと、毎年何かしら大きな投票が行われています。そして、多くの人はこのように頻繁に投票させられるのが嫌いだから、時の為政者が「今だったら勝てる」という理由で解散総選挙を仕掛けたのが透けて見えると、反発する傾向があるというんですね。だから今年のイギリスの総選挙では、野党である労働党の躍進に繋がったのだと。はっきり言って、それは性格が悪いことかもしれません。でも、主権者としてそれくらいの性格の悪さは必要だと思うんです。

國分    主権者なら当然それぐらいの厳しい目が必要です。でも日本ではそうならない。イギリスの総選挙って投票日が木曜日なんですよね。仕事に行く前、あるいは仕事から帰ってきた後に投票に行くだけの時間がある、そのような仕事のリズムになっていることは民主主義にとって非常に大切です。要するに考える時間がある。日本の労働者は忙しすぎて、考える時間がない。
 そもそも日本の場合は選挙期間が短すぎるんです。衆議院の場合、公示されて2週間後の日曜日が投票日だと、その間に日曜日が一度しか来ないでしょう。日曜日くらいしか政治のことを考える余裕がないのに、これでは選挙公報をじっくり読むことすらできない。民主主義に必要なだけの時間がない。イギリスだと1ヶ月かけて選挙戦をやっていますから、その間に候補者同士の熾烈なレースがある。相手がちょっと失言して人気が落ち、しめしめと思っていたらもう一度巻き返してきた、ということが頻繁に起きるわけです。
 日本も昔は1ヶ月の選挙期間があったんですが、結局お金がかかるということに対する批判が強く、短くなってしまった。中選挙区制をやめたのも第一にはお金の問題でした。小選挙区制にすれば派閥間で争わなくて済む、と。もちろん、有権者は政権選択ができるというのも利点だと考えられていた。
 いま小選挙区が諸悪の根源のように言われていて、確かに僕もそういう面はあると思います。でも、だったらなぜそれが望まれたのだろうか? 改革の当時はよかれと思ってそのように改革したわけです。ならば今こそ、どうしてそれが望まれたのか、それが望まれた時の論点は何だったのか、有権者たちの気持ちはどうだったのか、それが検証されねばならない。現在の制度を糾弾するだけでなく、改革当時のことを思い出して、反省して、それを現状とすりあわせないといけない。ところがそうしたことは全くなされない。
 いま小選挙区制が叩かれているけれども、小選挙区制はダメだからやっぱり昔のシステムに、というのでは、それこそ砂のような行動になってしまいます。僕はちょうど90年代初頭の政治改革の時代に政治学科の学生だったからよく覚えていますが、あの頃はとにかく熱気がすごかった。至るところに、この停滞した空気を何とかしたいという凄まじいエネルギーがあった。だから、そのことを忘れて批判だけをしちゃいけないはずなんです。当時の雰囲気を思い出し、今の気持ちと総合した上で、もう一度政治改革や選挙改革について考えていかなくては。

ブレイディ 今の話を聞いて思い出したんですが、イギリスのメイ首相が解散総選挙を発表したのは今年4月のことでした。なので、実際には6月の選挙当日まで有権者はたっぷり時間をかけて投票先を考えることができた。当初は労働党が保守党に25パーセントも負けていたわけですから、ここまで追い上げることができたのはやはり十分な時間があったことも大きいでしょう。1ヶ月じゃ、とても無理だったと思います。

國分    その労働党を率いた、先ほどから名前を挙げているジェレミー・コービンという政治家について、少しだけ語らせてください。彼は2015年の夏に労働党の党首選に出馬したんですが、当初は昔気質のハードレフトな「電波おじさん」だと思われていたんですよね(笑)。
 それが若者の票をかっさらって党首になり、労働党の人気をグッと回復させた。今年の総選挙のあと、哲学者のスラヴォイ・ジジェクが面白い分析をしています。「コービンは左派と右派が繰り広げているダーティゲームには参加しなかった。だから多くの票を獲得することができたんだ」と。
 60年代、左派が強かった頃、口汚く発言していたのは左派でした。日本でも昔の左翼セクトのビラには目を覆うばかりの罵詈雑言が書かれていた。だが現在は逆です。右派こそ口汚い。それはネトウヨのことを思い起こせば一目瞭然です。では左派は上品に批判するようになったのかというと、こちらはポリティカリー・コレクトを持ち出して言葉狩りばかりをやっている。ジジェクの言うところの「ツイート・カルチャー」です。そんなところでは議論が積み重なるはずがない。日本でも、というか日本でこそ、これはよく理解できることでしょう。
 コービンはそんな状況下で、この両者の間のダーティゲームから距離をとり、ただただディーセントに自らの主張を訴えていった。それが人びとの心に響いたのだ──ジジェクはそう分析しています。コービン自身も「きちんとした」「まともな」「上品な」などを意味するこの言葉をよく使いますが、彼自身の振る舞いがディーセントであるわけですね。それが力を持った。

ブレイディ 我々の合言葉である「薔薇」とも繋がりますね。

國分    そうですね。薔薇のある生活、尊厳のある生き方、誰もがディーセントな暮らしをできるようになること。彼はそれを社会における正義と平等の実現と捉えているように思います。彼は政治家としてのあり方も、さらに言うなら顔立ちもちょっとディーセントな感じで(笑)、決して誰かを人格攻撃したりしない。話し方も非常に落ち着いていますが、実際にはすごくスティッキーな政治家ですよね。

ブレイディ スティッキー過ぎるくらいですよ。初めて庶民院議員になった1983年から同じことを延々と主張してきて、一切変わっていません。だから、こうして人気が出たあとで彼のキャリアを振り返っても、その言動にまったく矛盾が見当たらないわけです。いろいろなことがコロコロ変わりがちな時代だからこそ、コービンの一貫性にみんなが安心感を抱くんでしょうね。この人にだったら任せられるんじゃないかという。なにせ今年の総選挙では労働党の、あの社会主義的な反緊縮マニフェストが受けたわけですから。
 加えて、彼の人物に対する人気もすごく大きいと思います。ジェレミー・コービンのイニシャルはJ.C.じゃないですか。だから冗談込みで、「ジーザス・クライスト」という愛称で持て囃す人もいる。コービンが十字架にかかっている絵が描かれたTシャツがストリート・マーケットで売られていたりするんですよ(笑)。もちろん政治を宗教化されたら困るわけですけど、まあ、それくらい人気のある政治家なわけです。
 ちょうど先週(9月24日~27日)、私の住むブライトンで労働党の党大会が開かれていましたが、まるでフェスティバルみたいな大盛り上がりでした。面白かったのは、コービン派の支持者たちが作ったテントの中へ現職の議員や、影の内閣のメンバーが招かれ、そこでソファーに座りながら喋っている様子をネットで中継していたりするんですね。言ってみれば、街全体が議会になったような感じで。一般の人たちをここまで党大会に参加させようとする政党は、昔はなかったんじゃないでしょうか。
 コービン人気にあやかろうとして、今になってすり寄っている議員もいるようですけど、どちらかといえば彼は、地べたの党員の方に人気がある政治家です。彼が党首に就任してから、労働党の党員は2倍にまで膨れ上がっていますからね。コービンはブレアが一度壊した昔ながらの労働党を、今の時代に合わせて立て直そうとしている。日本の政治家も権力を取りに行くのはいいんですけど、そのことばかりを考えて砂のように動くのは止めて、過去があって今があるという意識を、もっと強く持って欲しい。それこそ中動態的、スティッキーな姿勢で政治と向き合う必要があると思います。

國分    日本の政治家は未来志向になりがちで、何かあるとすぐ、意志を持って過去を断ち切ろうという方向に陥る。でも、過去は簡単には断ち切れない。僕らは必ず、地層のように積み重なった歴史の上に立っているわけですから。
 それと、僕がイギリスの政治を見ていてもうひとつ思ったのは、言葉が生きているということです。最近よく読んでいる哲学者のハンナ・アーレントの言葉を借りれば、政治は暴力が出てくると消えてしまう。つまり暴力ではなくて、言葉で争うのが政治だというわけです。言葉で説得したり、説得されたりということの繰り返しにこそ、政治の本質が宿る。
 現在では選挙の主役はイメージで、政治における言葉の力は著しく低下している。けれどもイギリスで面白かったのは、言葉による闘いが盛んに行われているし、そのための場所が設けられているということです。イギリスの議会では毎週水曜日の昼に「プライムミニスター・クエスチョン・タイム」という時間があって、首相が質問攻めにあう。しかも野党だけではなく与党の側からもです。与党議員も「おまえ、あの件はどうなってるんだよ」と言って、後ろから撃つ。それに対し首相は、「我が友人の○○議員がご指摘くださったとおり云々」とこれに返す。それを毎週見られるのはすごいことだと思いました。
 日本でだって同じことはできるはずなんです。そしてこれは、政治家が言葉を使って闘い、目立ち、人びとの支持を獲得するという政治にとっての当たり前の光景です。でもそれがない。僕はこのところ、言葉への信頼、言葉の力をいかにして復活させられるかということを、ずっと考えているんです。この問題は社会における言葉の失墜とも結びついていて、哲学をやっている身としては非常に悩ましいことなんですが。

つづく

書籍紹介

 

中動態の世界 意志と責任の考古学

國分功一郎/著

2017/3/27発売