新年度の始まりである。私は今年、七十一歳になっていて、もう新年度も旧年度もないようなものだが、それでも四月は気が引き締まる。学生時代、今年はこれだけ読むぞと本の題を書き並べ、武者震いしたことなども思い出す。
 先日、國學院大學が、「みちのきち 私の一冊」という本をつくって弘文堂から出したという記事を新聞で読んだ。大学生の本離れが言われて久しいが、それがますます深刻になっているようで、ここでなんとか食い止めようと同大学の若手職員たちが立ち上がり、多くの著名人に頼んで「私の一冊」を推薦してもらった。すると、ジャーナリストの池上彰さんや横綱白鵬関ら、一〇九人の著名人が無償で文章を寄せてくれた。書名の「みちのきち」には、「未知」を「既知」に変えてほしいという願いのほか、「道」「基地」「機知」などの意も込められているという。
 若者の本離れは、深刻どころかいよいよ来るところまできているようだ。全国大学生協連合会の調査では、二〇一七年、読書時間は「ゼロ」という学生がついに五割を超え、國學院大學の二年前の調査でも、同大学の学生が一年間に読む本は平均七冊だったそうである。
 本離れの要因は、そのつどいくつか挙げられてきた。ひと昔前には、音楽やスポーツといった、本以外の楽しみの幅が広がり、本に費やす時間が減ったからだと言われた。それが今では、友だちづきあいに欠かせない情報はもちろん、大学の講義やレポートに必要な知識もスマホで得られる、本を読んでいないからと言って肩身が狭い思いをするような時代ではなくなっている、とまで言われるが、小林先生が生きていて、今回の話を聞いたとしたら、どう言うだろう、だから言わぬことではない、若者が本から遠ざかるのは、ますます本が多過ぎるからだと、なおさら強い口調で言うだろうと思う。

 先生は、昭和二十九年(一九五四)の一月、雑誌『新潮』に前年秋の講演を基にした「読書週間」という文章(新潮社刊「小林秀雄全作品」第21集所収)を書いて、大意、こう言った。
 ――今日から読書週間ということですが、読書週間とは大いに読書しようということなのでしょう、しかしいま、なんと言っても、本が多過ぎます。……
 昭和二十九年といえば、六十年以上も前である、本が多いといっても今日に比べれば些々たるものだっただろうが、それでも先生は多過ぎると断じた。過剰な本の量がダイジェスト版などという抜け道を生み、
 ――読書百遍というような言葉が、もう死語と化してしまっているなら、読書という言葉も瀕死の状態にあると言っていいでしょう。無論、読書百遍という言葉は、正確に表現することが全く不可能な、またそれゆえに価値ある人間的な真実が、工夫をこらした言葉で書かれている書物に関する言葉です。そういう場合、一遍かぎりの読書はほとんど意味をなさない。文学上の著作は、勿論、そういう種類のものだから、読者の忍耐ある協力を希っている。愛読者を求めている。生命の刻印を愛してくれる人を期待している。忍耐力のない愛などというものを私は考える事ができません。……
 そしてさらに、
 ――文学書というようなものは、厄介な性質のものですが、ただ知識を伝達すれば事が済む学術書の場合は、問題は簡単でしょうか。簡単であって欲しいものだが、これも本が多過ぎるという事情に巻き込まれて、妙なことになっています。過去の学者は、学問の全領域にわたった知識を持っていた、また持とうと努めていた、それでなくては学者ではなかった。ところが今日では、もうさようなことは学者に全く不可能なことになりました。学問の進歩が、研究者に専門化の道を強制するのは当り前のことではないかと言うでしょうが、これを裏返してみれば、あんまり本が多過ぎるので、学者たちは専門化の窮地に追い込まれてしまった、ということになるでしょう。物理学者は、心理学には無知でしょうし、生物学者は経済学には無知でしょう。研究の方法なり対象なりが正確で共通な自然科学の領域だけでも、その総合的な知識が、一人の人間に集中するというようなことは不可能になっているでしょう。……
 私たちがよりよく生きようとすれば、本を読むということは欠かせないのだが、皮肉なことに本が多過ぎるがゆえの読書の簡便化、学問の専門化が、本を読んで一言では尽くせない人間の真実にふれたり、豊潤な知識を得たりということを妨げるようになっている、世に出ている以上は無視できない、それで次々やむなくとはいえ手を出す、こうして今や、本の過剰がこれこそが本だという本に十分な時間をかけられなくし、本のコクを味わうということなどはできなくしてしまいつつある、と先生は言ったのである。

 私は、新潮社に勤めて、本を造って売るという仕事をしてきたが、本が多過ぎるということは、造って売る側の立場からも感じていた。私が新潮社に入った頃は、まだ活版印刷の時代だったが、十年経つか経たぬかでコンピューター製版の時代となり、本を造るに要する手間は格段に減ってスピードは格段に上がった。これに伴い、刊行される本の数も格段にふえ、書店の平台や書棚に並ぶ本は目まぐるしくとっかえひっかえされるようになった。
 そのうち、本が売れなくなった。書店の店頭は盛況である、ありとあらゆる本が並んでいる、大型書店であれば客は押すな押すなでさえある、なのに部数は伸びない、伸びないどころか落ちる一方である。何がどうなっているのか、どこをどうすればよいのかと思いを巡らせながら本屋通いをしていたある日、ふと、本が多過ぎるという小林先生の言葉が頭に浮かび、次いで、先生が別の文章(「純粋小説について」同第7集所収、「『罪と罰』についてⅡ」同第16集所収)で言っていたベルグソンの言葉が浮かんだ。
 ベルグソンは、十九世紀の後半から二十世紀にかけて生きたフランスの哲学者だが、小林先生は、終生、ベルグソンを敬愛し、人間いかに生きるべきかをベルグソンに学び続けた。そのベルグソンが、人間の意識とは何か、意識はどういうふうに生れるかを説いて、こう言っているという、――人間の意識とは、可能上の行動と現実の行動との算術的差である……。
 私たち人間の意識とは、しようと思えばできると思われる行動の数から、実際にできる行動の数を引いた値であるとベルグソンは言うのである。私流に身近な例をとれば、見たいと思っている映画が一本あるとする、それを見るだけの時間もあって思い通りに見られるときは1-1=0であるが、見たい映画が二本あるのに見られる時間は一本分しかないというときは2-1=1で意識が発生する。見たい映画が三本あるときは3-1=2でより強く発生する。つまり、何かをしたいと思ってそれをすることのできる可能上の行動が一つしかなければ現実に行う行動との差はゼロであるが、可能上の行動が複数あれば現実の行動の数に合せて選択する必要が生まれ、そこに意識が生じる、というのである。
 ところが、そうした可能上の行動が極端に多くなり、現実の行動との差が極大になると、現実の行動はかえってゼロに近づくという。意識の過剰が行動の動機を捕えにくくするからである。ここでも私流で身近な例を挙げれば、レストランのメニューである。そこに並んでいる料理はどれもみな注文することができる、しかしそれらを収める胃袋には限度がある、予算のこともある、そこでさて何を注文するかとなるのだが、料理の数がほどほどの店であればそれなりに絞ってこれとこれ、と選び出すことができる。ところが大きなレストランで、料理の種類も品数も豊富であるときは、これかあれかと迷ったり目移りしたりしているうちに面倒くさくなり、えい、何でもいいやとなるか、時によっては今日はもういいや、またこんどにしよう、とさえなる。
 これを承けて、小林先生は言っていた、――可能上の行動と現実の行動との算術的差が適量であることは、人間がよく考え、よく行うという健康状態を維持するためにはどうしても必要である、ところが私たち現代人は、この算術的差、すなわち意識の増大に苦しんでいる、人間は、いくつもある可能上の行動の林のなかでは道を失う……。
 最近の若者の本離れも、一面ではこれと同じ現象なのではないだろうか。本があまりにも多過ぎて、彼らは道を失っているのではないだろうか。

 しかし、だからといっていま、出版社に本の量を少なくしてと言ってみても埒は明かない。どの出版社にしても、ただちに解決できる問題ではないからだ。となれば、読者としては、この本の洪水のなかで、よりよく考え、よりよく行うための意識をどう発生させるかである。本を読まなければとは思っている、だけどそのきっかけがつかめない、と思えるようであれば、自分は読みたい本を選ぶという可能上の行為の林のなかで、道を失っているのではないかと自省してみてはどうだろう。そういう自省を頭におき、書店の棚なり図書館の書架なりの前で、二、三度、深呼吸をしてみてはどうだろう。自分の意識はやたらと大きくなり過ぎて、ゼロに近くなっていた、よりよく考え、よりよく行うという健康状態が維持できていなかった、と気づけるかも知れないのである。
 そういう意味において、今度の國學院大學の「みちのきち」は、読書に関わる可能上の行動の数を絞り込み、現実の行動への道をひらいてくれる本と期待は大きいのだが、ここでも注意は要るだろう。永年にわたる本の洪水に押し流され、本を選ぶという現実行動を起すにあたってゼロに近くなっていたこれまでの意識、その意識のままで「みちのきち」を手にとったのでは同じことを繰り返すだけである、そこをしかと認識してほしい。そうでないと、せっかくの「みちのきち」が、先ほど例に挙げたレストランのメニュー同然に見えてしまう恐れがある、そうなってしまったのでは、人間としてよりよく考え、よりよく行うという健康状態を回復する絶好のチャンスを逸することになるのである。

 小林先生は、昭和二十六年四十九歳の秋、同様に良書の推薦を頼まれて、こう書いた。
 ――若い人々から、何を読んだらいいかと尋ねられると、僕はいつもトルストイを読み給えと答える。すると必ずその他には何を読んだらいいかと言われる。他に何にも読む必要はない、だまされたと思って「戦争と平和」を読み給えと僕は答える。だがかつて僕の忠告を実行してくれた人がない。実に悲しむべきことである。あんまり本が多過ぎる、だからこそトルストイを、トルストイだけを読み給え。文学において、これだけは心得て置くべし、というようなことはない、文学入門書というようなものを信じてはいけない。途方もなく偉い一人の人間の体験の全体性、恒常性というものに先ず触れて充分に驚くことだけが大事である。……
 この文章は、「トルストイを読み給え」と題されて、「全作品」の第19集に入っている。「恒常性」とは、どこの国でも、いつの時代にも、誰にとっても変ることのない人間の真形ということである。

(第三十七回 了)

★小林秀雄の編集担当者・池田雅延氏による、
   小林秀雄をよりよく知る講座

小林秀雄の辞書
4/5(木)18:30~20:30
新潮講座神楽坂教室



  小林秀雄氏は、日々、身の周りに現れる言葉や事柄に鋭く反応し、そこから生きることの意味や味わいをいくつも汲み上げました。1月から始まったこの講座では、私たちの身近な言葉を順次取上げ、小林氏はそれらを私たちとはどんなに違った意味合で使っているか、ということは、国語辞典に書いてある語義とはどんなにちがった意味合で使っているかを見ていきます。
 講座は各回、池田講師が2語ずつ取上げ、それらの言葉について、小林氏はどう言い、どう使っているかをまずお話しします。次いでその2語が出ている小林氏の文章を抜粋し、出席者全員で声に出して読みます。そうすることで、ふだん私たちはどんなに言葉を軽々しく扱っているか、ごくごく普通と思われる言葉にも、どんなに奥深い人生の真理が宿っているか、そこを教えられて背筋が伸びます。
 私たちが生きていくうえで大切な言葉たちです、ぜひおいでになって下さい。

4月5日(木) 知る/感じる
5月10日(木) 常識/経験
6月7日(木)   個人/集団
※各回、18:30~20:30

参考図書として、新潮新書『人生の鍛錬~小林秀雄の言葉』、新潮文庫『学生との対話を各自ご用意下さい。

 今後も、学問、科学、謎、魂、独創、模倣、知恵、知識、解る、熟する、歴史、哲学、無私、不安、告白、反省、言葉、言霊、思想、伝統、古典、自由、宗教、信仰、詩、歌……と取上げていきますので、お楽しみに。御期待下さい。

小林秀雄と人生を読む夕べ【その8】
文学を読むIV:「西行」

4/19(木)18:50~20:30
la kagu 2F レクチャースペースsoko

 平成26年(2014)10月に始まったこの集いは、第1シリーズ<天才たちの劇>に<文学を読むⅠ><美を求めて><文学を読むⅡ><歴史と文学><文学を読むⅢ><美を求める心>の各6回シリーズが続き、今回、平成30年4月から始まる第8シリーズは<文学を読むIV>です。

*日程と取上げる作品 ( )内は新潮社刊「小林秀雄全作品」の所収巻

第1回 4月19日 西行(14)     発表年月:昭和17年11月 40歳
第2回 5月17日 実朝(14)             同18年1月 40歳
第3回 6月21日 徒然草(14)             同17年8月 40歳
第4回 7月19日 「悪霊」について(9)        同12年6月 35歳
第5回 8月9日   「カラマアゾフの兄弟」(14) 同16年10月 39歳
第6回 9月20日 トルストイ(17)       同24年10月 47歳

☆8月(第2木曜日)を除き、いずれも第3木曜日、時間は午後6時50分~8時30分を予定していますが、やむを得ぬ事情で変更する可能性があることをご了承ください。

 ◇「小林秀雄と人生を読む夕べ」は、上記の第8シリーズ終了後も、小林秀雄作品を6篇ずつ、半年単位で取り上げていきます。