天ぷらの「ひろみ」は、JR鎌倉駅の鶴岡八幡宮側出口を出て小町通りに入り、すこし行った左手にある。今では雑誌、テレビ、ラジオ等で何度も紹介され、地元はもちろん全国的にも知られている名店だが、ここには格別の天丼がある。「小林丼」と「小津丼」である。それぞれ小林秀雄先生と映画監督の小津安二郎さんが、先代の主人に特別に作ってもらっていた天丼である。
小林丼には、かきあげ、あなご、めごちがどっさりと載っている。小津丼には、かきあげ、車海老、白身魚に野菜がこれまたどっさり載っている。二人とも好物中の好物だけを特に頼んでどっさり載せてもらっていたのである。小林先生は、ゴルフの帰りや散歩の途中に寄ることが多かったが、昼間、夫人と散歩に出て寄ったときは、きまって天丼だった。北鎌倉に住んでいた小津さんは、一駅隣の大船に松竹の撮影所があったこともあって松竹の人たちと一緒に来ることが多かったが、夜、独りで来たときは天丼を注文し、丼つゆの染みた天ぷらを肴に熱燗を何本も空けていたという。
この小林丼、小津丼ともに、小林先生と小津さんの生前は表向きにされていなかった。つまり、一般客には知られていなかった。先生と小津さんの特注丼が、「小林丼」「小津丼」と名づけられてメニューに載り、一般客にも供されるようになったのは、二人の死後、当代の主人、正雄さんが、遺族の同意を得てからのことである。
小林先生がお元気だったころの「ひろみ」は、小町通りの反対側、若宮大路との間にあり、小ぢんまりした印象の二階家の一階だった。夜になるとあたりはほとんど真っ暗だった。
今の主人、正雄さんは二代目だが、先生のころの初代主人、佐藤寛次さんは先生と同年輩で、明治四十年の生れだった。先生に初めて連れて行かれたときの帰り道、店を出て先生のお宅の方向へ歩きだすなり、先生が言われた、
――あの親爺、ずっと不機嫌な顔してただろう。憶えておきたまえ、あの不機嫌な顔がうまい天ぷらを揚げるんだ。……
そう言えば、主人は、口もまったく利かなかったようだった。
こうして「ひろみ」にも再々連れていってもらったが、主人の無言と不機嫌は徹底していた。先生が暖簾をくぐると女将は「いらっしゃいませ」と愛想よく迎えるが、主人は手を動かし続けるだけである。先生の席はいつもカウンターで、主人の真ん前に用意されたが、その席に先生が着いても主人は一言も言わないばかりか顔を上げさえしない。先生も「酒をくれ」と言うだけで、酒が運ばれてくると黙って手酌で飲み始める。
そのうち、先生と私の前に揚げたてのあなごがおかれる。その一本まるごとのあなごを主人は長い揚げ箸を伸ばしてさくっと二つに分け、箸を引くとあとはすぐまた別のネタに没頭する。最後のネタまでこの呼吸の繰り返しである。この間、先生のほうから何々をくれと言われることもない。いわゆる「おまかせ」だ。
時間がゆるやかに流れ、先生と主人の間で交される言葉は一言もないまま先生は上機嫌で席を立つ。主人はと言えば依然として口を利かない。先生の後について出口へ向かいながら、私は時折り、カウンターの奥を振り向いてみたが、主人はいつも自分の手許に視線を注いだままだった。天ぷらという熱した油が相手の仕事は一瞬たりとも気がぬけない、そういう厳しい事情がもちろんあっただろう、だが先生は、それだけではない……、と言っているように思われた。
この連載の第九回で書いた、大阪の「丸治」の客を憶えて下さっているだろうか。いまいちどここに引き写してみる。
――先生は、入ってすぐの一隅に腰を下ろし、「酒、それとグジをくれ」と、しょっちゅう来ているかのような口ぶりで注文された。やがて、燗をつけた酒がきた。先生は、酌をしたりされたりは嫌いだった。すぐさま右手で徳利を持ち上げ、卓の上の盃につぎ、徳利を置いて盃を取り、口に運び、おもむろに含んで飲み下す、それをゆっくりと繰り返し、そっと小声で私に言われた。
「あそこに、爺さんがいるだろう」
私たちの真反対の一角で、老人がひとりで飲んでいた。他に客はいなかった。
「あの爺さんの顔と飲み方、よく見ておくといい。不機嫌そうな顔で、つまらなそうに飲んでいるだろう。あれがほんとうの酒飲みだ。酒の味のわかる酒飲みが、満足して飲んでいるときの顔があれだ」
それだけ言って、また黙って徳利を傾けられた。……
「丸治」へ連れていってもらったのは、昭和四十七年(一九七二)の秋である。「ひろみ」へ初めて連れていってもらったのは五十二年の年明けである。先生は、「うまいもの」を味わう人も、「うまいもの」を作る人も、本物を求めてやまない人の顔は不機嫌に見える、そう言っていたのである。その不機嫌は、傍目にそう見えるだけで、決して本人は不機嫌なのではない。自分が辿り着こうとする境地を一途にめざす集中力が言葉を失わせ、周囲への余計な気づかいを忘れさせ、本人は自分のしていることに満ち足りているのである。先生には、「丸治」の老人も「ひろみ」の主人も、道をきわめようとする人の美しい形と見えていたのだろう……、先日、遠来の客人を案内して「小林丼」の謂れを聞いてもらいながら、ふと私はそう思った。
先生の文章「『ガリア戦記』」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第14集所収)に、こういう件がある。
――ここ一年ほどの間、ふとした事がきっかけで、造形美術に、われ乍ら呆れるほど異常な執心を持って暮した。色と形との世界で、言葉が禁止された視覚と触覚とだけに精神を集中して暮すのが、容易ならぬ事だとはじめてわかった。(中略)美が、僕の感じる快感という様なものとは別のものだとは知っていたが、こんなにこちらの心の動きを黙殺して、自ら足りているものとは知らなかった。美が深ければ深いほど、こちらの想像も解釈も、これに対して為すところがなく、恰もそれは僕に言語障碍を起させる力を蔵するものの様に思われた。……
美は、こちらの心の動きを黙殺して、自ら足りている……。ここで言われている「美」は、まさに「ひろみ」の主人の姿であった。
思い返してみれば、先生は、「こちらの心の動きを黙殺して、自ら足りている」人や物を高く評価した。「本居宣長」(同第27集所収)にはこう書いている。
――彼が、自分自身の事にしか、本当には関心を持っていない、極めて自然に、自分自身を尺度としなければ、何事も計ろうとはしていない、この宣長の見解というより、むしろ生活態度とも呼ぶべきものは、書簡に、歴然として一貫しているのである。……
また「本居宣長補記Ⅰ」(同第28集所収)では、古代ギリシャの哲学者プラトンの著作に登場するプラトンの師ソクラテスについて言っている。
――どんな主義主張にも捕われず、ひたすら正しく考えようとしているこの人間には、他人の思わくなど気にしている科白は一つもないのだ。彼の表現は、驚くほどの率直と無私とに貫かれ、其処に躍動する一種のリズムが生れ、それが劇全体の運動を領している。どの登場人物も、皆、何時の間にか、このリズムの発生源に引き寄せられている。……
そして、おそらく、「ひろみ」の主人も、小林先生に本物を知った人の美しい形を見ていたにちがいない。先生は言っていた。
――プロが苦労して仕入れたものを、的確に誉められるようでなきゃあうまいものは出してくれないよ。人づてに、あの店では何をどういうふうにして出させるとうまいのだなどと聞き覚えて、一見のくせして注文をつける、これがいちばんまずい食い方だ。板前が惚れこんだネタを板前がしたいように料理させる、こうでなければいつ行ったって生憎だね。…… (那須良輔「好食相伴記」)
「ひろみ」の主人と小林先生は、私が知るかぎり言葉は交さなかった、だが、気脈は常に言葉以上に通じていた、その言葉以上の気脈の結晶が「小林丼」となっていたのだろう。
「ひろみ」の場所は変ったが、味わいは先生がお元気だったころとまったく変っていない。初代の味はしっかり今に受け継がれている。
しかし、「小林丼」の象徴とも言うべきめごちは、近年、漁獲量が減り、やむを得ず他の魚に代えることもあると、主人と女将はそのつど辛そうに言う。たしかにこれは私も辛い、が、「小林丼」が運ばれてくるたび、いまも先生の喜色満面が目に浮かぶ。待ちかねた「うまいもの」を口にするときの先生の顔は、天下一品だった、不機嫌どころか言いようもなく美しかった、その美しさを、まるで芸術品だ……と私たちはひそかに感歎しあっていた。
(第五十八回 了)
★小林秀雄の編集担当者・池田雅延氏による、小林秀雄をよりよく知る講座
小林秀雄の辞書
8/1(木)18:30~20:30
新潮講座神楽坂教室
小林秀雄氏は、日々、身の周りに現れる言葉や事柄に鋭く反応し、そこから生きることの意味や味わいをいくつも汲み上げました。2018年1月から始まったこの講座では、私たちの身近な言葉を順次取上げ、小林氏はそれらを私たちとはどんなにちがった意味合で使っているか、ということは、国語辞典に書いてある語義とはどんなにちがった意味合で使っているかを見ていきます。
講座は各回、池田講師が2語ずつ取上げ、それらの言葉について、小林氏はどう言い、どう使っているかをまずお話しします。次いでその2語が出ている小林氏の文章を抜粋し、出席者全員で声に出して読みます。そうすることで、ふだん私たちはどんなに言葉を軽々しく扱っているか、ごくごく普通と思われる言葉にも、どんなに奥深い人生の真理が宿っているか、そこを教えられて背筋が伸びます。
私たちが生きていくうえで大切な言葉たちです、ぜひおいでになって下さい。
8月1日(木)不安/反省
9月5日(木)青年/隠居
参考図書として、新潮新書『人生の鍛錬~小林秀雄の言葉』、新潮文庫『学生との対話』を各自ご用意下さい。
今後も、知恵、知識、哲学、告白、古典、宗教、詩、歌……と取上げていきますので、お楽しみに。御期待下さい。
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池田雅延
いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
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