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随筆 小林秀雄

 小林先生のことを聞かせてほしいという声を方々からかけてもらい、北は仙台から西は広島まで、十指に余る会場を定期的にお訪ねしているが、広島の場合は毎回、世話役のYさんが話のテーマを設定してくれる。過去の例から引けば、「歳月をかけるということ」「想像力と愛情について」「小林秀雄の読む、見る、聴く、思う」…といった具合で、日頃から小林先生をよく読んでいるYさんならではと思えるテーマ設定がありがたく、そのつど私も眼をしっかり洗い直して臨む。今年の四月は、「常識とは何か」だった。
 「常識」に関しては、先生は「常識について」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第25集所収)をはじめとして、「常識(先ごろ…)」(同第21集所収)、「常識(学生時代…)」(同第23集所収)と、タイトルに「常識」を冠した文章だけでも三篇書いている、が、Yさんから連絡をもらって、「常識とは何か」と聞かされたとき、瞬時に私は「人形」のことを話そうと思った。
 「人形」は、昭和三十七年(一九六二)十月、先生が六十歳の年に『朝日新聞』のPR版に発表し、三十九年五月、文藝春秋新社から出した単行本『考えるヒント』に収録して広く知られるようになった作品である。四〇〇字詰原稿用紙にしてわずか三枚という小品であるが、そこからもたらされる感動は計り知れないと言っていい。『小林秀雄全作品』では第24集に入っている。

 すでにお読みになった方も多いと思うが、ここにまずその全文を引用する。大要を紹介しただけでは先生の思いが十分には伝わるまいと恐れるからである。

人 形

 或る時、大阪行の急行の食堂車で、遅い晩飯を食べていた。四人掛けのテーブルに、私は一人で坐っていたが、やがて、前の空席に、六十恰好(かっこう)の、上品な老人夫婦が腰をおろした。
 細君の方は、小脇に何かを抱えて這入って来て私の向いの席に着いたのだが、袖の蔭から現れたのは、横抱きにされた、おやと思う程大きな人形であった。人形は、背広を着、ネクタイをしめ、外套(がいとう)を羽織って、外套と同じ縞柄の鳥打帽子を被っていた。着附の方は未だ新しかったが、顔の方は、もうすっかり(あか)()みてテラテラしていた。眼元もどんよりと濁り、唇の色も()せていた。何かの拍子に、人形は帽子を落し、これも薄汚くなった丸坊主を出した。
 細君が目くばせすると、夫は、床から帽子を拾い上げ、私の目が会うと、ちょっと会釈して、車窓の釘に掛けたが、それは、子供連れで失礼とでも言いたげなこなしであった。
 もはや、明らかな事である。人形は息子に違いない。それも、人形の顔から判断すれば、よほど以前の事である。一人息子は戦争で死んだのであろうか。夫は妻の乱心を鎮めるために、彼女に人形を当てがったが、以来、二度と正気には還らぬのを、こうして連れて歩いている。多分そんな事か、と私は想った。
 夫は旅なれた様子で、ボーイに何かと註文していたが、今は、おだやかな顔でビールを飲んでいる。妻は、はこばれたスープを一匙すくっては、まず人形の口元に持って行き、自分の口に入れる。それを繰返している。私は、手元に引寄せていたバタ皿から、バタを取って、彼女のパン皿の上に載せた。彼女は息子にかまけていて、気が附かない。「これは恐縮」と夫が代りに礼を言った。
 そこへ、大学生かと思われる娘さんが、私の隣に来て坐った。表情や挙動から、若い女性の持つ鋭敏を、私は直ぐ感じたように思った。彼女は、一と目で事を悟り、この不思議な会食に、素直に順応したようであった。私は、彼女が、私の心持まで見てしまったとさえ思った。これは、私には、彼女と同じ年頃の一人娘があるためであろうか。
 細君の食事は、二人分であるから、遅々として進まない。やっとスープが終ったところである。もしかしたら、彼女は、全く正気なのかも知れない。身についてしまった習慣的行為かも知れない。とすれば、これまでになるのには、周囲の浅はかな好奇心とずい分戦わねばならなかったろう。それほど彼女の悲しみは深いのか。
 異様な会食は、極く当り前に、静かに、敢えて言えば、和やかに終ったのだが、もし、誰かが、人形について余計な発言でもしたら、どうなったであろうか。私はそんな事を思った。

 これが「人形」の全文である。一人息子を戦争で亡くしたらしい細君の悲しみが惻々と伝わってくる。その傍らで、飄々と振舞っているかに見える夫の悲しみは、細君より深いかも知れないとさえ思えてくる。むろん先生は、この老夫婦の悲しみを慮り、こういう夫婦と行き会ったことを読者に伝えようとしたのだが、この一文を書いて先生が最も言いたかったことは、最後の、「彼女は、全く正気なのかも知れない。身についてしまった習慣的行為かも知れない。とすれば、これまでになるのには、周囲の浅はかな好奇心とずい分戦わねばならなかったろう。それほど彼女の悲しみは深いのか」と、「もし、誰かが、人形について余計な発言でもしたら、どうなったであろうか」であっただろうと私は思う。すなわち、あの場に居合わせた誰もが、それぞれの常識を正しく働かせた、そのおかげであの会食は静かに、和やかに終った、先生はそれを言いたかったのではないかと思うのだ。
 常識という言葉は曖昧で、私たちの日常会話では、「君、これ知らないの、こんなの常識だよ」とか、「彼はつきあいにくいね、まるで常識がない」とかという言い方がほとんどだが、先生の言う常識はそうではない。一言で言えば、常識とは人間誰もが生れつき授かっている精神的な能力であり、万人共通で先天的に備わっている直観力や判断力、それらに基づいた思慮分別などである。
 この先生の常識の考え方は、デカルトから得ている。先にふれた「常識について」は昭和三十九年十月、『展望』に発表した講演録だが、そこではこう言っている。
 ―私のお話しの眼目は、そういう常識と呼ばれているコンモン・センス、私達の持って生れた精神の或る能力の不思議な働きにある。それだけが、眼目だから、敢えて乱暴な言い方をするが、「コンモン・センスの哲学」の元祖と言う事になると、これは、どうしても百年ばかりさか上って、デカルトという大人物に行き当らねばならぬ。
 ―彼に言わせれば、常識というものほど、公平に、各人に分配されているものは世の中にないのであり、常識という精神の働き、「自然に備った智慧」で、誰も充分だと思い、どんな欲張りも不足を言わないのが普通なのである。デカルトは、常識を持っている事は、心が健康状態にあるのと同じ事と考えていた。そして、健康な者は、健康について考えない、というやっかいな事情に、はっきり気付いていた。
 ―常識とは何かと問う事は、彼には、常識をどういう風に働かすのが正しくまた有効であるかと問う事であった。デカルトは、先ず、常識という人間だけに属する基本的な精神の能力をいったん信じた以上、この能力を、生活の為にどう働かせるのが正しいかだけがただ一つの重要な問題である、とはっきり考えた。

 では、先生が、「人形」で伝えたかった「常識」とは何だったか―。人形の口に一匙一匙スープを運ぶ細君の悲しみの深さ、その深い悲しみに行き会って、おのずと現れた「沈黙」という人間の知恵である。
 「人形」とほぼ同時期、昭和三十六年一月に書いた「忠臣蔵Ⅰ」(同第23集所収)ではこう言っている。
 ―窮境に立った、極めて難解な人の心事を、私達の常識は、そっとして置こうと言うだろう。そっとして置くとは、素通りする事でも、無視する事でもない。そんな事は出来ない。出来たら人生が人生ではなくなるだろう。経験者の常識が、そっとして置こうと言う時、それは、時と場合とによっては、今度は自分の番となり、世間からそっとして置かれる身になり兼ねない、そういうはっきりした意識を指す。常識は、一般に、人の心事について遠慮勝ちなものだ。人の心の深みは、あんまり覗き込まない事にしている。この常識が、期せずして体得している一種の礼儀と見えるものは、実際に、一種の礼儀に過ぎないもの、世渡り上、教えこまれた単なる手段であろうか。
 ―一種の礼儀だとしても、この礼儀が人間社会に下した根はいかにも深いものと思われる。今日は、心理学が非常に発達し、その自負するところに従えば、人心の無意識の暗い世界もつぎつぎに明るみに致される様子であるが、だが、そういう探究が、人心に関する私達の根本的な生活態度を変える筈はない。変えるような力は、心理学の仮説に、あろうとも思えない。私達は、人の心はわからぬもの、と永遠に繰返すであろう。何故か。
 ―未経験者は措くとして、人の心はわからぬものという経験者の感慨は、努力次第でいずれわかる時も来るというような、楽天的な、曖昧な意を含んではいない。これには、はっきりした別の含意があって、それがこの言葉に、何か知らぬ目方を感じさせているのである。それは、人の心が、お互に自他共に全く見透しのような、そんな化物染みた世間に、誰が住めるか、と言っているのだ。常識は、生活経験によって、確実に知っている、人の心は、その最も肝腎なところで暗いのだ、と。これを、そっとして置くのは、怠惰でも、礼儀でもない。人の意識の構造には、何か窮極的な暗さがあり、それは、生きた社会を成立させている、なくてかなわぬ条件を成している、と。私は、わかり切った事実を言っている。あまりわかり切った事実で、これを承知している事が、生きるというその事になっている。従って、この事実への反省は稀れにしか行われない、と言っているのだ。

 私たちが先生の「人形」に感動するのは、幸いにして私たちの「常識」が正しく働くからであろう。戦争の経験はないにちがいない女子大生が、「一と目で事を悟り、この不思議な会食に、素直に順応した」ようにである。

(第五十七回 了)

★小林秀雄の編集担当者・池田雅延氏による、小林秀雄をよりよく知る講座

小林秀雄の辞書
7/4(木)18:30~20:30
新潮講座神楽坂教室

  小林秀雄氏は、日々、身の周りに現れる言葉や事柄に鋭く反応し、そこから生きることの意味や味わいをいくつも汲み上げました。2018年1月から始まったこの講座では、私たちの身近な言葉を順次取上げ、小林氏はそれらを私たちとはどんなにちがった意味合で使っているか、ということは、国語辞典に書いてある語義とはどんなにちがった意味合で使っているかを見ていきます。
 講座は各回、池田講師が2語ずつ取上げ、それらの言葉について、小林氏はどう言い、どう使っているかをまずお話しします。次いでその2語が出ている小林氏の文章を抜粋し、出席者全員で声に出して読みます。そうすることで、ふだん私たちはどんなに言葉を軽々しく扱っているか、ごくごく普通と思われる言葉にも、どんなに奥深い人生の真理が宿っているか、そこを教えられて背筋が伸びます。
 私たちが生きていくうえで大切な言葉たちです、ぜひおいでになって下さい。

7月4日(木)解釈/注釈
8月1日(木)不安/反省
9月5日(木)青年/隠居

参考図書として、新潮新書『人生の鍛錬~小林秀雄の言葉』、新潮文庫『学生との対話を各自ご用意下さい。

 今後も、知恵、知識、哲学、告白、古典、宗教、詩、歌…と取上げていきますので、お楽しみに。御期待下さい。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

池田雅延

いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。

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