平成の世から令和の世になった。新元号「令和」は、「萬葉集」の巻第五に見える「梅花の歌三十二首并せて序」のなかの「序」の一節が出典だという。 ――于時初春令月、気淑風和(時に初春の令月にして、気淑く風和ぎ)…… 元号は、最初の「大化」から「平成」まで、ずっと中国の本から選ばれていた。それが初めて日本の本から選ばれた。この、出典が日本の本であるということがまず私たちをよろこばせた。
しかも、その本は、国文学や歴史学の先生たちにだけ重視されていたというような本ではない、読んだことはなくてもその名前は誰もが知っている「萬葉集」である。中国の本が出典と言われると、なにやらご大家からの借り物感とともに偉い人から一方的に押しつけられたような重苦しさが伴う。日本の本であっても、ふつうには見ることはおろか耳にすることすらほとんどないような本であったなら、同様の重苦しさ、白々しさが淀んでこうは盛り上がらなかっただろう。
ただし今回、「令」と「和」が採られた「于時初春令月、気淑風和」は、「萬葉集」よりずっと早くに中国で出来ていた書家王羲之の「蘭亭序」や、『文選』の「帰田賦」に類似の句がある。「帰田賦」ではこうである、――於是仲春令月、時和気清(是ニ仲春ノ令月ニシテ、時和カニ気清メリ)……。このことは、夙に契沖が江戸時代、「萬葉代匠記」で言い、現代の諸種注釈書にも記されていて、「令和」が発表された日、新聞、テレビでも報じられたが、ここを衝いて、「令和」の出典は日本の本とは言えない、今度もやはり中国だとする批判が出たという。
この批判に対して、今回の「令和」の考案者と見られている中西進氏が、『朝日新聞』(四月二十日付)のインタビューに答えて言っていた。――確かに形式などに共通性を見いだすことも可能ですが、文脈や意味がかなり異なるので、典拠にあたるとは思いません。/僕は、出典が何かより、その言葉がどのような表現かの方が大事だと考えます。受容は変容であり、万葉集も単なるものまねではない独自性に到達しています。文化や文明は、変容を肯定的に認めることによって育まれるものです。……
受容は変容であり、万葉集も単なるものまねではない……、中西氏のこの言葉を聞くより早く、私は伊藤博氏の「解説」を思い出していた。
新潮社に入った年から十五年間、私は創立八十年の記念出版<新潮日本古典集成>の編集スタッフに加えられ、「萬葉集」を担当した。その「新潮萬葉」全五巻には、「萬葉集の生いたち」と題して校注者のひとり、伊藤博氏の解説が連載されている。「萬葉集」巻第一から巻第二十までの各巻は、どういう経路を辿って今日見られる姿になったか、それが各巻各時代の歌人のドラマとして、また編纂者のドラマとして精しく描き出されている。伊藤氏は、平成十五年十月、七十八歳で亡くなったが、中西氏と並んで戦後の「萬葉集」研究を代表する人である。
その伊藤氏の解説によれば、「萬葉集」の基礎を築いたのは、巻一に「春過ぎて 夏来たるらし 白栲の 衣干したり 天の香具山」の歌を残した持統天皇だった。
持統天皇は、天武天皇の皇后だったが、天皇の死後、皇太子草壁皇子も病死したため皇位に即いた。その持統天皇が、孫の文武天皇に皇位を譲って上皇となった時期から「萬葉集」に力を入れた。神々と、また山水自然と、そして古今の人々との交感を誰にも可能にさせる格式ある言語、すなわち「倭歌」を、天武天皇の後継として日本の民の先頭に立つことになる皇子たち、皇女たちに読ませることを最大の目的として「萬葉集」は編まれたのではなかったか、伊藤氏はそう推察し、この持統天皇の素志は、「萬葉集」の収録歌とその配列の様態から読み取れると言う。
「萬葉集」劈頭の巻一、巻二は「古歌巻」である。ここには二〇〇年も前からの古歌を集めて現代の規範とし、巻三、巻四は「古今歌巻」として古い時代と新しい時代を結ぶ橋とし、巻五、巻六は「今歌巻」、すなわち、奈良時代の歌人を勢揃いさせた現代歌集となっている。こうして「萬葉集」の巻一から巻六は、今日見られる「萬葉集」二十巻の原核をなし、「小萬葉」と言っていい面影があるのだが、その「小萬葉」のなかでも現代歌集の巻五は特に異彩を放っている。今回の元号「令和」は、巻五に記された大伴旅人の序文から採られたが、巻五にはもうひとり、大歌人がいる、「貧窮問答歌」で知られる山上憶良である。旅人と憶良は九州太宰府にあって筑紫歌壇を形成し、そこで二人は倭歌と漢文化の融合という新手法を編み出して倭歌の可能性を大きく広げた。したがって、「令和」の出典「于時初春令月、気淑風和」は、風貌こそ中国風であっても、その心には日本人の進取の血が滾っているのである。
伊藤博氏は、小林先生の熱心な読者でもあった。「新潮萬葉」の本文原稿、頭注原稿、解説原稿、校正刷、それらの受渡しを通じて伊藤氏とは十五年間、小林先生の「萬葉集」観についてもしばしば語りあったが、「令和」の出典は「萬葉集」だと聞いて、私がとっさに思い浮かべたのは伊藤博氏と小林先生だった。にわかに沸き立った「萬葉熱」を、小林先生はどう受け止めていられるだろうか、さまざまに思いが巡った。
先生の文章に、改元や元号というものに言及した件はない。だが、「萬葉集」への言及はたびたび見られる。最初は昭和九年(一九三四)六月、短歌の雑誌から求められ、三十二歳で書いた「短歌について」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第5集所収)である。
――僕は「万葉集」を好みます。それも色々読んだ上での事ではなく、まあ読んだと人に言う事の出来る歌集は「万葉集」一つしかないから、そう申し上げるので、この一事を以ってしてもまずお話しにならない。従って僕の短歌についての意見は、実際その道に苦労しておられる方々にはごく無責任な子供らしいものと思われても仕方がないのです。……
これは、謙遜ではない、正直な告白である。先生は、四十歳になるまで、フランス文学とロシア文学に没頭し、日本の古典はまったく読んでいなかった。四十歳になる年、昭和十七年の四月に発表した「当麻」(同第14集所収)が日本の古典について書いた最初である。しかし、そういう二十代、三十代にあっても、「萬葉集」は読んでいた。
その先生が、四十代以後は何かにつけて「萬葉集」を引合いに出すようになる。四十四歳の年、昭和二十一年十二月に発表した「モオツァルト」(同第15集所収)にはこう書いた。
――ゲオンがこれをtristesse allanteと呼んでいるのを、読んだ時、僕は自分の感じを一と言で言われた様に思い驚いた。確かに、モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、「万葉」の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉の様にかなしい。……
それから三年後、四十七歳の昭和二十五年二月には、奈良の石舞台を訪ねて「蘇我馬子の墓」(同第17集所収)を書き、往時に思いを馳せた最後にこう書いた。
――私は、バスを求めて、田舎道を歩いて行く。大和三山が美しい。それは、どの様な歴史の設計図をもってしても、要約の出来ぬ美しさの様に見える。「万葉」の歌人等は、あの山の線や色合いや質量に従って、自分達の感覚や思想を調整したであろう。取り止めもない空想の危険を、僅かに抽象的論理によって支えている私達現代人にとって、それは大きな教訓に思われる。……
そして五十三歳の年、昭和三十一年二月には「ことばの力」(同第21集所収)を書き、最後をこう結んだ。
――「万葉」の詩人は日本を、「言霊の幸はふ国」と歌ったが、わが国にかぎらず、どこの国の古代人も、ことばには、不思議な力が宿っていることを信じていた。現代人は、これを過去の迷信と笑うことはできない。なぜかというと、この古い信仰は、私達の、ことばに対する極めて自然な態度を語っているからだ。古代人は、ことばという事物や観念の記号を信じたのではない。ことばという人を動かす不思議な力を信じたのである。物を動かすのには道具が有効であることを知ったように、人を動かすのに驚くほどの効果をあらわすことばという道具の力を率直に認め、これを言霊と呼んだのである。……
「モオツァルト」に引かれているtristesse allanteはフランス語で、tristesseは「悲しみ」だが、allanteは動詞aller(行く)の現在分詞で、直訳すれば「活動的な」「活発な」等の語感を帯びた言葉である。先生はそのallanteを「疾走する」と表現したのだが、先の引用に続けて書いている。
――彼はあせってもいないし急いでもいない。彼の足どりは正確で健康である。彼は手ぶらで、裸で、余計な重荷を引摺っていないだけだ。彼は悲しんではいない。ただ孤独なだけだ。孤独は、至極当り前な、ありのままの命であり、でっち上げた孤独に伴う嘲笑や皮肉の影さえない。……
ここで言われている「彼」はもちろんモーツァルトで、これがモーツァルトの「かなしさ」の姿だが、先生はこう書いて、「萬葉集」の歌人の「かなし」も同時に語っている。「涙は追いつけない」は、「涙の出る幕はない」である。「かなし」に涙は付きものと誰もが思っているが、先生は涙を伴う感傷を嫌った。
昭和三十二年、五十四歳の年の二月に書いた「美を求める心」では、山部赤人の「田児の浦ゆ 打出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪はふりける」を引いて歌人が感動を言葉にするときの苦心について語り、「かなし」についてはこう言っている。
――涙は歌ではないし、泣いていては歌は出来ない。悲しみの歌を作る詩人は、自分の悲しみを、よく見定める人です。悲しいといってただ泣く人ではない。自分の悲しみに溺れず、負けず、これを見定め、これをはっきりと感じ、これを言葉の姿に整えて見せる人です。……
「萬葉集」の歌人たちは、「悲しみ」をそこまで突きつめて「かなし」という言葉を使ったと言うのである。
「蘇我馬子の墓」に書かれた、「『万葉』の歌人等は、あの山の線や色合いや質量に従って、自分達の感覚や思想を調整したであろう」を、私は奈良を訪ねるたびに思い出す。
先生は、「本居宣長」を書き上げたら、「日本の風景」を書きたいと言っていた。先生がそう思ったきっかけは、「考えるヒント」の一篇「天の橋立」(同第24集所収)だったそうなのだが、それ以上のことは聞かされていなかった。先生は、日本の各地へその土地その土地の「大和三山」を訪ねて行き、私たち現代人も「萬葉集」の歌人のように、目にする山の線や色合いや質量に従って自分の感覚や思想を調整する、そういう生活に還ろうではないかと呼びかけるつもりだったのではないだろうか……、「令和」が機縁となって小林先生と「萬葉集」のことを思い出し、きっとそうだ、そうにちがいないと私は強く思った。
「ことばの力」で言われている「言霊の幸はふ国」は、「萬葉集」巻五に収められた山上憶良の「好去好来歌」に出る。「新潮萬葉」には、「言霊が幸をもたらす国」と訳され、「言葉に宿る霊力が振い立って、言葉の内容をそのとおりに実現させる良き国」と説明されているが、小林先生は、現代人は、これを過去の迷信と笑うことはできない、この古い信仰は、私たちの言葉に対するきわめて自然な態度を語っているからだ、と言っていた。いま「令和」という言葉の響きに沸き立つ日本を見て、言霊は現代にも生きている、それを諸君は目の当たりにした、この経験を忘れるなと言っている気がする。日本人の血が通った日本語には日本語の言霊が宿っている、「令」「和」と聞いただけで誰もが烈しく動かされたのはそのためである。
小林先生の「萬葉集」に関わる言及は、むろんこれだけではない。だが読者には、これだけ読んでもらっただけでも、先生がどれほど「萬葉集」が好きだったかをおわかりいただけると思う。せっかくの機会である、令和の時代は皆が皆、折あるごとに「萬葉集」を手にとってみる、そういう時代であってほしいと先生は希っているはずである。
(第五十六回 了)
★小林秀雄の編集担当者・池田雅延氏による、小林秀雄をよりよく知る講座
小林秀雄の辞書
6/6(木)18:30~20:30
新潮講座神楽坂教室
小林秀雄氏は、日々、身の周りに現れる言葉や事柄に鋭く反応し、そこから生きることの意味や味わいをいくつも汲み上げました。2018年1月から始まったこの講座では、私たちの身近な言葉を順次取上げ、小林氏はそれらを私たちとはどんなにちがった意味合で使っているか、ということは、国語辞典に書いてある語義とはどんなにちがった意味合で使っているかを見ていきます。
講座は各回、池田講師が2語ずつ取上げ、それらの言葉について、小林氏はどう言い、どう使っているかをまずお話しします。次いでその2語が出ている小林氏の文章を抜粋し、出席者全員で声に出して読みます。そうすることで、ふだん私たちはどんなに言葉を軽々しく扱っているか、ごくごく普通と思われる言葉にも、どんなに奥深い人生の真理が宿っているか、そこを教えられて背筋が伸びます。
私たちが生きていくうえで大切な言葉たちです、ぜひおいでになって下さい。
6月6日(木)表現/対話
参考図書として、新潮新書『人生の鍛錬~小林秀雄の言葉』、新潮文庫『学生との対話』を各自ご用意下さい。
今後も、知恵、知識、哲学、不安、告白、反省、古典、宗教、詩、歌……と取上げていきますので、お楽しみに。御期待下さい。
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池田雅延
いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
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