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随筆 小林秀雄

 これまでにも何度か書いてきたように、人生いかに生きるべきか、これが、六十年にわたって展開された小林先生の文筆活動の根本テーマであった。だが、それは、けっして先生が高みに立って、上から読者に言って聞かせるというような教条的な話ではない。私たちひとりひとりが日々を生き、日々の生活経験から人間はどういうふうに造られているかを少しずつ知り、その人間の造られ方に沿って日々を生きようとする、それが人生いかに生きるべきかに対する先生の答であり、そこを先生は先生自らの経験と発見に即して語って、人間はこういうふうに造られているようだ、ならば私たちはこういうふうに生きるのが正しいのではないか、そこを読者に気づかせようとしたのである。
 その、人間というものの造られ方を、先生は「本居宣長」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集・第28集所収)では「人性の基本的構造」という言い方で言い、古代の人たちに比べて自分たちはよほど利口になったつもりでいる今日の人々には、逆にそれが解りにくいものになったと宣長は見ていたと言っている。
 人間には、目が二つあり、腕が二本あり、足が二本あり、心臓があり、胃があり、肺がある、こうした肉体の造られ方もむろん人間の基本的構造であるが、先生は特に「人性の」と言っている。「人性」は、肉体面よりも心の面について言われることが多い。すなわち、知、情、意、といった側面の性質である。
 たとえば、この連載の第十六回で見た「考える」、第二十一回で見た「経験する」等も、それぞれみな先生が日々を生きてみることによって「考える」「経験する」等に関わる「人性の基本的構造」を見出し、その基本的構造に基づいて「いかに考えるか」「いかに経験するか」を探り、そこから導き出した「人生いかに生きるべきか」だったのである。
 そしていま、これら先生が示した「人性の基本的構造」をあらためて辿り直してみると、そこに一貫して見られるのは「時間をかける」ということである。人間は、何事であれ時間をかけてみるように造られている、逆に言えば、それ相応の時間をかけなければ人間には何もわからせてもらえない、ひいては何事も為し得ない、これこそが「人性の基本的構造」の基本であると、先生は言葉を変えて言い続けていた。 

 ではその、「時間をかける」ということの大切さを、先生が直截に語った文章を見ていこう。
 昭和四年(一九二九)、二十七歳の九月、雑誌『改造』の懸賞評論に応じて二席に入り、文壇登場を果した「様々なる意匠」(同第1集所収)ではこう言っている。
 ―私には文芸批評家達が様々な思想の制度をもって武装していることを兎や角いう権利はない。然し、彼等がどんな性格を持っていようとも、批評の対象がその宿命を明かす時まで待っていられないという短気は、私には常に不審な事である。
 先生が「様々なる意匠」を書いた頃は、世界を席巻したマルクス主義の旋風が日本の文学界にも吹き始めていた。ドイツの経済学者であり哲学者でもあったカール・マルクスの思想にかぶれた批評家たちは、マルクスの言うところを絶対として月々現れる作品を一刀両断していたが、マルクス主義の他にも新感覚派など、様々な文学思想が跳梁し、それぞれの「思想の制度」で目の前の作品を組み伏せていた。そこを衝いて先生は、「批評の対象がその宿命を明かす時まで…」と、時間をかけることの大切さを早くも言っていたのである。
 昭和十四年四月、三十七歳で書いた「読書について」(同第11集所収)では、「様々なる意匠」で言った「批評の対象がその宿命を明かす時まで」とはどういうことかについて、次のように言っている。この連載の第二十回でも引いたが、
 ―読書百遍とか読書三到とかいう読書に関する漠然たる教訓には、容易ならぬ意味がある。恐らく後にも先きにもなかった読書の達人、サント・ブウヴも、漠然たる言い方は非常に嫌いであったが、読書については、同じ様に曖昧な教訓しか遺さなかった。「人間をよく理解する方法は、たった一つしかない。それは、彼等を急いで判断せず、彼等の傍で暮し、彼等が自ら思う処を言うに任せ、日に日に延びて行くに任せ、遂に僕等の裡に、彼等が自画像を描き出すまで待つ事だ。故人になった著者でも同様だ。読め、ゆっくりと読め、成り行きに任せ給え。遂に彼等は、彼等自身の言葉で、彼等自身の姿を、はっきり描き出すに至るだろう」
 そして、昭和三十七年八月、六十歳で書いた「還暦」(同第24集所収)ではこう言った。
 ―成功は、遂行された計画ではない。何かが熟して実を結ぶ事だ。そこには、どうしても円熟という言葉で現さねばならぬものがある。何かが熟して生れて来なければ、人間は何も生む事は出来ない。
 たとえば酒は、米を発酵させて造るが、米がそうして酒になるまでには絶対不可欠の時間がかかる。そういう自然界の絶対的必要時間は、人間の思考や思索についても言えると言うのである。
 「本居宣長」は、昭和四十年六月、六十三歳で雑誌『新潮』に連載を始めたが、その第一回に、国文学者であり民俗学者であった折口信夫から、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」と謎のような言葉を突然浴びせられたことを書き、これに続けて次のように言った。
 ―今、こうして、自ら浮び上がる思い出を書いているのだが、それ以来、私の考えが熟したかどうか、怪しいものである。やはり、宣長という謎めいた人が、私の心の中にいて、これを廻って、分析しにくい感情が動揺しているようだ。
 こう言い置いて始めた「本居宣長」は、雑誌連載ついには十一年七ヵ月に及んだ。連載開始から五年、六年が経った頃には、「いつまでやってんだ」とか「そんなに書くことあるのか」とか、冷やかしやからかいの声が文士仲間から聞こえてくるようになった。
 これもこの小文の第十一回で書いたが、当時、雑誌でも新聞でも、連載はほぼ一年まで、延びても二年というのが相場で、先生の「本居宣長」のように、五年経っても六年経っても終るどころか終る気配さえないというのは異例中の異例だった。だが先生は、そういう冷やかしやからかいを、柳に風と聞き流して言っていた。
 ―このごろは皆、仕事が速すぎる。僕はふつうに歩いているのに、君らが車に乗ったり飛行機に乗ったりして、おい小林、いつまでぐずぐずしてんだなどと言ってるだけなんだ。宣長さんは「古事記伝」に三十五年もかけたんだ。その宣長さんを読んでいる僕が、五年かかろうと十年かかろうと、どうということはないのだ。
 「本居宣長」の文中でも、宣長が弟子に学問の心得を語った「初山踏(ういやまぶみ)」に言及し、
 ―宣長にはっきり断言出来るのは、「詮ずるところ、学問は、ただ年月長く、(うま)ず、おこたらずして、はげみつとむるぞ肝要」ということだけになる。これさえ出来ていれば、「学びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかゝはるまじきこと也」。宣長が、本当に言いたいことは、これだけなのである。
 こうして「本居宣長」の連載は、昭和五十一年十二月号まで続いた。そしてそれからさらに十ヵ月、先生は連載の第一回に戻って全篇を徹底推敲し、四百字詰原稿用紙にして約一五〇〇枚分あった雑誌掲載稿を約一〇〇〇枚分に圧縮、こうして連載開始の月から数えても十二年五ヵ月という時間をかけて五十二年十月に刊行した『本居宣長』はたちまちベストセラーになった。

 その昭和五十二年の暮であった、先生のお宅へ伺い、『本居宣長』の売れ行き状況などを私が報告し終えると、「君、ユニバーサル・モーターって知ってるか」と先生が突然、問いかけられた。
 「世界中のヨットというヨットが、みんなこのモーターを積んでいる。いま、エンジンメーカーはどこもかしこもスピードを競いあっているが、ユニバーサル・モーターだけは昔ながらのモーターを造り続けている。このモーターは、スピードは出ない、しかし絶対に壊れない。ヨットがこれを必ず積んでいるのは、航行中に帆柱が折れるなどしたとき、確実に港へ帰り着くためだ。だから、このモーターにスピードは必要ない、絶対に壊れない、それだけが肝心なんだ…」
 先生の話は、それだけだった。先生は、こういうふうに、言おうとすることの眼目だけを短く言い、あとはまた沈黙に戻るか別の話題に飛ぶかということがよくあった。あの日は沈黙に戻られた。
 私は、先生の次の言葉を待ちながら、先生はいま、先生自身のことを話されたのだと思った。『新潮』連載十一年半、全面推敲さらに一年、「本居宣長」に取り組んだ先生の歩みは、まさにユニバーサル・モーターだった。必要な時間を必要なだけかけて、孜々(しし)として続けられた日本という港への帰航だった。

 だが、その後、このユニバーサル・モーターの話を思い浮かべて、私は先生の言わんとされたことを別様に受取るようになった。敢えてスピードは競わない、絶対に壊れることなく母港に帰り着く、そこに徹したユニバーサル・モーターの思想は、本居宣長が三十五年という時間をかけて「古事記伝」を書いたことにも重なる、そう思うようになった。つまり、宣長は、またしても漢意(からごころ)に弄ばれて道を見失ってしまいがちの日本人が、はたと目覚めたときはいつでも、しかも確実に、日本人の港に帰り着けるようにと「古事記伝」を書いたということである。

 しかしまた、あれから四十年が過ぎ、先生が『本居宣長』を刊行した七十五歳に近い七十三歳になろうとして、私にはさらに別様の思いが湧いている。あの日、先生は、こう言いたかったのではないかと思えてきたのである。
 ―僕は、「本居宣長」を、ユニバーサル・モーターが造られるのと同じ気持ちで書いた。読者はみな、人生という大海を走っている、その大海のどこかで心の帆柱を折り、途方に暮れることもあるだろう、そういうとき、とにもかくにも読者が自分の港へ帰り着くためのモーターとして、スピードは出ないが絶対に壊れないモーターとして、それぞれのヨットに積んでおいてもらえるようにと、そういう思いで「本居宣長」を書いた…。

 これらの思いは、私が意図した解釈ではない、時間が経つうち、自ずと胸に湧いた斟酌(しんしゃく)である。先生にしても、これといった意味内容を明確に意識してあの話をしたわけではなかっただろう。私の斟酌とはまた別の思いが先生の胸中にはあったかも知れない。だがいずれにしても、私はいま、あの日先生から聞いたユニバーサル・モーターの話が、四十年という時間の作用を受けて私のなかで熟したと感じている。先生の文章を読んで、その場ですぐには解せなかった言葉が、何年か後に気づいてみるといつの間にか腹に落ちていた、それとまったく同じにである。

 さて、平成二十八年十月からおつきあいいただいたこの連載も、第六十回を迎えた今回をもって一区切りとする。先生の思い出はまだまだ尽きないが、ここまで読んでもらえた読者には、これから先も先生の全集を、人生いかに生きるべきかに思いをひそめ続けた先生の自問自答を、折あるごとに読んでいって下さい、ほんのわずかではあるけれど、その用意はしたつもりですと、先生の「本居宣長」の結句に倣って言わせていただいておいとまする。先生の別れ際の挨拶は、いつでも「じゃ、失敬」だった。

(第六十回 了)

※ご愛読ありがとうございました。本連載をまとめた本を、新潮社から刊行予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

池田雅延

いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。

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