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#タナカヒロカズを探して

2023年10月4日 #タナカヒロカズを探して

11.「田中宏和」という自分の名前さえフィクションになる。

著者: 田中宏和

 前回は人類学の研究に導かれ、ヒトの名前の起源をインセスト・タブー(近親婚や近親相姦の禁止)に見てとり、世界各地の名づけの慣習や規則を追ってみた。今回は、さらに視点を変え、主に言語哲学が熱く議論してきた固有名論を頼りに、いったいヒトの名前とは何なのかを考える。

同名がたくさんの社会がある?!

 これまでヒトの名前が帯びる「共同体性」と「固有性」という対称的な性質を見出してきた。実際、前回紹介したようにアメリカ先住民イロクォイ族では、部族には名前の「番人」がいて、必ず人と違う名前をつけるという慣習があった。しかしながらまったく逆に、兄弟姉妹や親子、同時代に属する親族の者同士にあえて同じ名前をつけ、小さな共同体の中で同姓同名の者が複数存在するような社会もあるという。

 わたしは同姓同名運動家が昂じて名前研究家になりつつある。そんなわたしにとって、文化人類学者の出口顯『名前のアルケオロジー』(1995年)は刮目の先行研究だ。世界の同名についてのフィールドワークが豊富に紹介されているのである。たとえばアメリカの人類学者W・グッデナフが調査したニューブリテン島(パプアニューギニア)のラカライ地区では、ほとんどすべての人には自分と同名の者がいて、性別による名前の違いもないと紹介されている。あちこちで同姓同名集会がある共同体ということか。その原因として「循環名」と呼ぶ習慣があるそうだ。親の名前に応じてその長子(性別は問わない)に特定の名をつけなければならない。となると、世代が経つと一巡するようになり祖先と同名が現れることになる。さらに一夫多妻が認められてもいるため、異母兄弟でも同名が出現する。では同名の者の区別はどうするかというと、あだ名や一人の者が複数の名を持つとのこと。全員にあだ名があるタナカヒロカズの会と同じである。

 またエスキモー(イヌイット)の社会では、子どもは最近死んだ者の名を、性別を問わず、つけられるという。与えられる名はただ一つではなく、異なった人たちから、それぞれのタイミングで、さまざまな名を与えられる。そして以前その名の持ち主であった人の性質や技能を受け継ぎ、その人がかつて築いた人間関係の中に入っていくことになるという。

 つまり元の名前の持ち主が「叔母」と呼んだ人間は、名を受け継いだ子どももその親族関係を問わず「叔母」と呼ぶというように。そして、結果的に同名になった者同士は、やはり別の名前を使って指示機能を取り戻すというのだ

 このように同名を繰り返し使う社会であっても、日常生活において、そもそも名前が果たす機能、まさに独りだけの「固有名」として特定の人物を指示する機能は欠かせないものだとわかる。ヒトの固有性を示すべき固有名は、その社会によって同名を使うことを好む/好まないという共同体の違いの影響を強く受ける。

名前の個体指示機能とは? 個人名は「たった独りのための名」たりえない

 出口顯は、名前の個体指示機能を考察するにあたり、仮に「メンバーみなが同じ名前を持つような共同体」というありえないケースを想定することがヒントになるという。そこで挙げた例が痛快だ。日本の子ども向けの歌「南の島のハメハメハ大王」(伊藤アキラ作詞、森田公一作曲)なのである。

 この歌では、とある南の島では王様も、女王も、彼らの子どもも、さらにその島に住む人は「誰でも誰でもハメハメハ」だ。「覚えやすいがややこしい」この南の島は、徹底した同名の社会、毎日がタナカヒロカズ運動全国大会の夢の島ではないか。誰もが「ハメハメハ」を主語にして自分のことを語ることができる。しかし、出口は言語学者エミール・バンヴェニストの説を引用しながら、実はその「ハメハメハ」に置き替わることができる言葉がある、それが「わたし」という人称代名詞だと言うのである。会話の中で「わたし」としてみずから自分自身を指し示すからこそ、この「わたし」は他ならぬこの自分で、いつも行為の主体となる。「わたし」と語る話者の唯一絶対的な固有性を保証するからこそ「わたし」という語は、最も固有名らしい代名詞になると言うのだ。それに対し、「ハメハメハ」や「タナカヒロカズ」の個人名は、いつもたった独りの人のみに所有されているわけでもない。これを受け、出口は「個人名が固有名詞であるというのは虚構であり、幻想である」と断言する。

では、そもそも「固有名詞」とは何なのか?

 今日的な辞書から引くなら「固有名詞」は、「机」や「川」などの一般名詞と違い、「ある一つの事物特有の名称として用いられる名詞。人名・地名・国号など」(グーグル日本語辞書より)とある。

 しかし、20世紀の哲学では、「固有名詞」であるヒトの名前=固有名は、その定義や機能について議論が繰り広げられる熱いテーマであった。

哲学は固有名詞をどのように論じてきたか 

 西洋哲学において初めて「名前」を対象にしたのは、紀元前4世紀のギリシア、なんと我が家の愛猫名の由来であるプラトンの『クラテュロス 名前の正しさについて』であった。プラトンは、完全無欠の絶対的な理想が別世界に実在しており、われわれが知覚している世界はあくまでその似姿、影のようなものだというイデア論を唱えた。「名前に正しい/間違いがある」という問題設定自体がプラトンならではで、正しい名前とは、そのイデアを模倣したものだとした。名前の「模倣説」と呼ばれている。

猫のイデアを体現した「プラトン」は我が家で早々に障子を突き破った

 さて、このプラトンの考えをアリストテレスが受け継いで以降は、名前が哲学のトピックに上がることはなく、時代は一気に20世紀に下る。固有名詞は欧米の分析哲学、言語哲学にとって大きな議題となるのである。ここでは固有名詞「タナカヒロカズ」を例文に代表的な3つの説をかいつまんで紹介したい。

1.確定記述説

 現代の論理学にとって、世界の事実についての正しい理解のために、「XはYである」という主語と述語からなる文の命題を用いる。「ある人」や「ある猫」のような不確定なものではなく、唯一の人間を語る場合、

 ①人間Xは、1969年に京都で生まれた。

 ②人間Xは、祖母の名前が「みね」だった。

 ③人間Xは、家でプラトンという猫を飼っている。

 このように仮に3つの述語による記述、「確定記述」によって表現できる。さらに「④人間Xは、新潮社『考える人』で連載している」と記述を増やすことで、唯一の人間Xの確定度は上がっていく。そこで多数の述語で示された記述の束は、固有名詞「タナカヒロカズ」という省略した記号に置き換えることができ、「タナカヒロカズ」は唯一つの対象であるタナカヒロカズ(筆者)を指示できるとするのが、確定記述説である。

 19世紀に生まれた現代の論理学の創始者であるドイツの哲学者・数学者ゴットロープ・フレーゲにはじまり、20世紀にイギリスのバートランド・ラッセルが発展させ、ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインも継承し「言語ゲーム論」を展開する基礎となった固有名詞についての考え方である。ちなみにラッセルは、「名前とは物を指すための手段に過ぎない」と、その指示機能のみを指摘している。

2.因果説(直接指示説)

 この確定記述説に対し、異議を唱えたのがアメリカのソール・クリプキの『名指しと必然性』(1970年に行われた講義を元にした書籍)である。クリプキは、「世界がありえたかもしれないあり方」の全体について、それを「可能世界」と呼ぶ。可能世界では、次のようなことが起こりうる。

 ⑤タナカヒロカズは、実は『考える人』で連載していなかった。

 先に挙げたようにタナカヒロカズという名が、「④人間Xは、新潮社『考える人』で連載している」という条件を満たす人間Xとして定義されていたのだと確定記述説に従うとすると、⑤の固有名「タナカヒロカズ」を④の確定記述に置き換えることができるはずだ。すると「『考える人』で連載しているタナカヒロカズは、実は『考える人』で連載していなかった」という論理的に矛盾が生じ、意味を持たなくなってしまう。しかし、日常においては、「⑤タナカヒロカズは、実は『考える人』で連載していなかった」は意味が通じる。ということは実際には、「タナカヒロカズ」という名前は、あらゆる「可能世界」であっても、その指示機能を失わない。そこでクリプキは固有名詞を「固定指示子」だと定義づけた。この説は、19世紀のイギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルの「固有名詞はただ一つの個物を指示する」という主張にはじまるのでミル説とも言われる。さらに、ある対象を固有名で命名し、固有名を用いたコミュニケーションにおける話し手から受け手へと固有名の受け渡しが歴史的、社会的に行われてきたはずである。そのため、ある対象の直接指示が話し手の原因と受け手の結果の連なりのように続けられてきたことから、因果説とも呼ばれる。つまり、固有名の成立を「共同体」におけるコミュニケーションに見ている。

 9歳までにシェイクスピアの全戯曲を読破した神童クリプキだけあって、同名の可能性にも配慮している。『名指しと必然性』の前書きにおいて、「二人の人物が同じ名前を持ちうるという単純な事実が、固定指示子論への反論となると考えた人がいる」と断りながら、文脈によって理解できるから固定性の問題に影響はないと断じている。しかし、178人のタナカヒロカズだらけの空間を体験している身として、「タナカヒロカズ」の固有名は、「流動性指示子」になることを実感している。

3.述語説

 ⑥2022年に同姓同名の最大の集まりのギネス世界記録を更新したのは、タナカヒロカズである。

 この「タナカヒロカズ」には、178人のタナカヒロカズが該当する。固有名詞は、長らく唯一の個体を直接に指示して主語の位置に立つと考えられ、先の二つの説でもそう捉えられていた。しかし述語説においては、固有名詞は普通名詞(一般名詞)の一種であり、複数の対象に当てはまる述語である、と主張する。1970年代にアメリカのタイラー・バージによって最初に唱えられた。この述語説を受け継いだ和泉悠『名前と対象 固有名と裸名詞の意味論』(2016年)への反響として、実際に同姓同名の文例を挙げて述語説を支持する学会の意見が確認できる。わたしにとっては、この固有名詞の述語説が最も確かな納得感を得られるので紹介しておきたい。

 つまり、固有名詞とは、そもそも唯一の対象を指す名詞ではない、ということだ。ということは、固有名詞は、その名称に反して厳密な意味で固有性を示すことはできない。むしろ原理的には、固有名詞は存在しえないのだと言えるだろう。アマチュア天体観測マニアが新星を発見したような華々しさは無いが、長年にわたり固有名詞の特例について人体実験をし試行錯誤してきた市井の名前研究家として、ここに、哲学の固有名詞論のフロンティアを見る。

固有名詞は概念として成り立ち難いが、「固有名詞」という組織・団体名は有り得る

ヒトが名づけるという行為の「力」

 このような固有名が唯一の人間を指示できないという根本的な機能不全に対し、固有名には指示機能以外の価値を見出すこともできる。

 批評家であり哲学者の柄谷行人は、『探究II』(1989年)において、クリプキの『名指しと必然性』でのフレーゲ/ラッセルの固有名の記述理論批判に触れている。固有名が確定記述の束に還元できないということは、固有名にはつねに、記述の足し算以上の意味を示す「ある剰余」が宿っているということになる。それを固有名のみが示すことができる「この私」の「単独性」であるとした。「固有名が一つしかないものを指示するからではなく、『他なるもの』との関係においてのみ『他ならぬもの』としての一者を指示する」と述べている。他に代替できないのだから、固有名は外国語には翻訳できない。ということは、固有名は一つの言語体系の外にある言葉だということも意味する。だから海外に行っても「田中」は、「TANAKA」のままでコミュニケーションされる。「In the middle of the rice field」と意味の説明はできるが、英語圏で名前を名乗ってもいちいち意味を尋ねられることはない。「単独性」を示すことができれば十分だからである。

 さらに柄谷は、固有名の「偶然性」を導く。この海外における固有名の使用のように、名前を伝える者と受け取る者との関係(遭遇)は、偶然的である。固有名が指示固定的であることができるのは、「他なるもの」(他者)とのコミュニケーションにおける関係の偶然性を前提としている。

 またタナカヒロカズが、猫の固有名を「アリストテレス」にせず、「プラトン」としたことは、わたしが「タナカヒロカズ」と名づけられたように、偶然に過ぎない。だから、固有名は二重の意味で「偶然性」を備えている。

 だからこそ偶然名づけられた「プラトン」「タナカヒロカズ」という名には、いかなる言語的説明によっても汲み尽されない「力」が宿っていて、クリプキはその「力」の源は「最初の命名行為」にあるとした。

 万葉集の和歌に見られる「大汝(おおなむち) 少彦名(すくなびこな)の 神こそば 名づけ()めけめ(以下略)」は、大国主命と少彦名命の二柱の神が山に名づけた逸話を詠んだものだ。名づけることで、物事に命を吹き込む。人知を超えた偶然性を支配する神による、物事を創造、生成させる行為なのである。

 固有名は指示機能以上に、「単独性」とともに「偶然性」の価値を備えている。スポーツの試合や音楽ライブで、観客が名前だけを呼ぶことが応援になるのは、名づけの神々しい行為を反復するからではないか。名前が呼ばれることで、他ならぬ「このわたし」を呼び起こし、呼び起こされる。自分に名前が贈与された愛が再現される。もっとも学校の教室で、名前が強く呼ばれるだけで、注意、叱責を受けることになるのも、一種の愛情表現なのだろう。

「タナカヒロカズさん〜」と呼ばれて全員が応じたタナカヒロカズ運動全国大会2022(撮影したタナカヒロカズさんは特定できず)

ホモ=サピエンスは、ホモ=ノミナーレ(名づける人間)だ 

 19世紀末にドイツで生まれた批評家であり哲学者ヴァルター・ベンヤミンは、「人間の言語的本質とは、人間が事物を名づけること」、「名前は言葉であるがゆえに、神のうちにおいて名前は創造する力をもち、神の言葉は名前であるがゆえに、この言葉は認識する力を持っている」と、やはり命名行為に神的な力が宿ることを述べている。そして、「人間は、名づけるもの」だと述べるのである。

 ヒトは根本的に名づける欲動に突き動かされる生き物だと言えるのではないか。現生人類は種として「ホモ=サピエンス」(ラテン語で「賢い人間」)という学名がつけられている。オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガは、文化の持つ遊びの要素が人類の進化に大きな影響を与えたことを受けて「ホモ=サピエンス」を「ホモ=ルーデンス」(ラテン語で「遊ぶ人間」)とした。わたしは、現生人類とは、「名づける」能力で他の種との決定的な差別化がなされるのではないかという思いから、「ホモ=ノミナーレ」(ラテン語で「名づける人間」)という種の定義を提案したい。

 「賢い人間」であるがゆえにアウシュヴィッツのガス室では一人当たりのコスト計算のもと残虐な大量殺人が怜悧な非情をもって実行された。100年前の関東大震災直後には、朝鮮人が暴動を起こしているという流言飛語が瞬く間に広がり、香川からの行商人一行が千葉県の福田村で、村人の行き過ぎた想像力と自己防衛能力のため無残にも惨殺された事件が起こった。また「遊ぶ人間」であるがゆえに寝食を忘れソーシャルゲームに耽溺し、自己破産はおろか自らの健康を損ない、自虐的退廃に陥るまで遊び過ぎるのも人間だ。かと思えば、極度な節制による遊びの禁欲生活で宗教的な悟りを求める人間も古今東西にいる。

 「賢い人間」と「遊ぶ人間」、どちらの定義もその負の側面を浮かび上がらせたり、定義を否定する行動も見られたりする。「名づける人間」についても、それゆえにもたらされるヒト同士の根強い差別や分断を拡大する負の側面がある。それほどまでに「名づける」能力はヒトの根源にセットされているとも考えられるため、ヒトは「ホモ=ノミナーレ」(名づける人間)なのである。

 ヒトの名前は、名指されることで「固有性」を持ち、それを共有し、指示する「共同体性」とは不可分の関係にある。これまで同姓同名運動家として、「自分の名前は、自分のものではない」ことを実感してきた。「自分の名前は、借り物だ」という感覚だ。つまり、人名とは所属する共同体の持ち物でもある。確かに「タナカヒロカズ」は「固有性」と「共同体性」を兼ね備えている。

 そして、固有名は「偶然性」の中から生まれる。わたしたち「タナカヒロカズ」は、たまたま「タナカヒロカズ」と名づけられた。その名づけの偶然性から、「タナカヒロカズの会」の偶然の関係が生まれた。たまたま同じ名前を与えられたヒトとヒトのつながり、それは多重的な意味で、偶然の共同体だ。

 ここであらためて、わたしの考えるヒトの名前の定義をしてみる。名前とは、他ならぬ「このわたし」(固有性)と「わたしたち」(共同体性)をつなぐために、たまたま選ばれた記号(偶然性)だ。時にその記号は、思いがけず同じになることがある。

次回につづく

 

(参考文献)

東浩紀『存在論的、郵便的』(新潮社、1998年)

東浩紀『訂正可能性の哲学』(ゲンロン、2023年)

飯田隆『クリプキ ことばは意味をもてるか』(NHK出版、2004年)

飯田隆『増補改訂版 言語哲学大全I 論理と言語』(勁草書房、2022年)

和泉悠『名前と対象 固有名と裸名詞の意味論』(勁草書房、2016年)

和泉悠『悪い言語哲学入門』(筑摩書房、2022年)

市村弘正『増補「名づけ」の精神史』(平凡社、1996年)

ヴァルター・ベンヤミン、浅井健二郎(編訳)、久保哲司(翻訳)「言語一般および人間の言語について」『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』(筑摩書房、1995年)

エミール・バンヴェニスト、岸本通夫(監訳)『一般言語学の諸問題』(みすず書房、1983年)

柄谷行人『探究II』(講談社、1992年)

坂部恵『仮面の解釈学』(東京大学出版会、1976年)

ソール・クリプキ、八木沢敬・野家啓一(翻訳)『名指しと必然性』(産業図書、1985年)

出口顯『名前のアルケオロジー』(紀伊國屋書店、1995年)

バートランド・ラッセル、髙村夏輝(翻訳)『論理的原子論の哲学』(筑摩書房、2007年)

藤川直也『名前に何の意味があるのか 固有名の哲学』(勁草書房、2014年)

プラトン、水地宗明(翻訳)「クラテュロス」『プラトン全集2』(岩波書店、2005年)

松阪陽一(編訳)『言語哲学重要論文集』(春秋社、2013年)

峯山宏次「固有名は述語か-日本語の場合」(和泉悠『名前と対象 固有名と裸名詞の意味論』合評会、2017年)

村岡晋一『名前の哲学』(講談社、2020年)

ヨハン・ホイジンガ、高橋英夫(翻訳)『ホモ・ルーデンス』(中央公論新社、1973年)

Saul A.Kripke『Naming and Necessity』(1981)

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

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