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#タナカヒロカズを探して

2023年9月20日 #タナカヒロカズを探して

10.わたしたちに名前が必要な理由。名づけの意味とは?

著者: 田中宏和

 前回は、世界の名づけ事情を追ってみた。各国の事情を垣間見ることでわかってきた、現生人類であるヒトの名前が帯びる「共同体性」。その正体を明らかにするために、そもそもヒトの名づけの起源に遡って考えてみよう。

「タナカ・ヒロカズ6」は、いない。あだ名づけという儀式の大切さよ

 先日深夜に全英女子オープンをぼんやりと見ていた。するとスコア表示で「イ・ジョンウン6」と出て眼を疑った。6位がイ・ジョンウン(李晶恩)でもなければ、イ・ジョンウン選手が現在6オーバーでもなかった。調べてみると、イ・ジョンウン(이정은、Lee Jeong Eun)がすでに韓国女子プロゴルフ協会に5人登録されていて、今グリーン上にいるのは6人目のイ・ジョンウン選手ということらしい。さらにわかったのは、全員の漢字表記は違って、イ・ジョンウン1(李姃垠)、イ・ジョンウン2(李定垠)、イ・ジョンウン3(李廷恩)、イ・ジョンウン4(李定殷)、イ・ジョンウン5(李政恩)であった。

 女子プロゴルファーの集団だけで6人ものイ・ジョンウンさんなのだから、セルビアで更新された256人のミリツァ・ヨヴァノビッチさんの同姓同名の集まりギネス世界記録も、近い将来、韓国で更新されてしまうのではないか。そして、われわれは「タナカ・ヒロカズ6」といった名づけ、分類でタナカヒロカズの名簿管理をしなくて良かったとも思ったのだ。1から順の数字管理での、同姓同名の識別は、やりやすいが味気ない。

 思えば初の公開イベント「田中宏和運動全国大会2010」を提案してくれたイベントスペース「東京カルチャーカルチャー」の店長は「幹事(著者)のあだ名づけがショーになりますよ」と言ってきたのだった。ステージで初対面のタナカヒロカズさんと向き合い、お互い「はじめまして。タナカヒロカズです」と名刺交換。わたしが「これからなんとお呼びしましょうか?」と切り出し、名刺に記載されている情報やその場で投げかけた質問から、他のタナカヒロカズさんのご意見やアイデアを取り入れながらタナカヒロカズの会でのあだ名が決まっていく、これがあだ名づけだ。

 これまでのタナカヒロカズたち(2023年9月1日現在249人)のあだ名を由来によって分析したところ、最も多かったのが職業由来で「歯医者」「溶接屋」「畳屋」など119人(47.8%)と約半数を占める。続いて趣味由来で「ドラマ」「ベース」「アメフト」など49人(19.7%)。3番目が住所由来で「桜島」「ういろう」「三浦海岸」など44人(17.7%)となっていて、ここまでがタナカヒロカズの会のあだ名由来ベストスリー。4番目は「新郎」「バッタリ」「空席待ち」など出会った時のエピソード由来で11人、5番目は「マーサ」「尋常」「大数」などタナカヒロカズの会での特徴由来で6人、6番目は「小顔」「ブレザー」「サングラス」など外見由来で5人、同じく6番目は「花祭り」「万博」「ポッキー」など誕生年や誕生日由来で5人、8番目は「子煩悩」「マスオさん」「ひろくん」など家庭内役割由来で4人。あとは2人ずつ、「メンタ」「タツウェイ」の友人からのあだ名由来、「仁紫」「三島」の旧姓由来となっている。

 最初に名刺交換をして、「どこから来られましたか?」「ご趣味は何ですか?」とよく聞くために、由来の上位は職業、趣味、住所となっているのだろう。しかし、出会った順の機械的な通し番号ではなく、わざわざあだ名をつけることが、タナカヒロカズ共同体に仲間入りしてもらうための通過儀礼と言える、この名づけのエピソード、物語性が、タナカヒロカズたちを記憶するにあたって欠かせない。タナカヒロカズ共同体の連帯感を高めることに貢献していると感じている。

 そもそもヒトにとって名づけには、どんな意味があるのだろうか。

 1970年代に西アフリカの無文字社会であるモシ族をフィールドワークした文化人類学者、川田順造は現地での個人名を名づけの由来によって分類している。1.生まれた時の状況、2.誕生に先行した出来事との関わり、3.新生児を通しての、父母や親族の感情の表明、4.新生児の肉体的特徴が主なものだそうだ。川田によると、命名には、二つの論理がある。子どもの将来への願いを込めて名づける「あやかりの論理」と、子どもの生まれた状況から名づける「ちなみの論理」だ。日本の命名に多い、「あやかりの論理」に基づく名前はモシ族にはまったくなく、もう一つの命名の論理である「ちなみの論理」が基本との分析をしている。つまり、ヒトにとって共同体に加入した際のエピソードがネーミングにとって重要ということか。「人の命名は、ある社会がその成員に対して適用する分類と認知の方式」だというのが川田の説である。まさにヒトの名前に備わる「共同体性」とは、その本質的な特性であるに違いない。

レヴィ=ストロースが発見した、未開社会の名づけの体系

 川田順造が処女作『悲しき熱帯』を翻訳した人類学者クロード・レヴィ=ストロースは、構造主義の祖として世界の人文学、社会科学に広範な影響を与えた。ヒトの名前を考えるにあたっては重要な人物だ。主著の一つ、『野生の思考』では、未開社会での個人名、固有名について数多くの事例を取り上げている。

 例えばウガンダのルグバラ族では、両親どちらかの行動ないし性格にちなむ名前がつけられると言う。両親が怠けものだから「のらくら」、父親が呑んだくれなので「酒びたり」、母親が夫にうまいものを食わさないから「けちんぼ」という具合だ。もはや個人名に意味は無く、他人と違って、目立って、覚えやすければ良いという割り切りなのだろうか。これらの名前は、母親か義母(夫の母)がつけると言うのだが、ウガンダの嫁姑の確執問題が子どもの名に表現されているような気がしないではない。もし現代の日本に生きるわたしが「田中酒びたり」という名の子どもと生活するとしたらと想像するに、それはコントでしかない。

 またアメリカ先住民のイロクォイ族には、名前の固有性を維持するために、同名を避ける名前の「番人」という制度があると言う。「番人」は、氏族に属する名前の台帳を記憶の中に収めており、つけてよい名前のリストを把握しているため、子どもが生まれると「番人」を呼んできて「空いている」名前はどれとどれかを教えてもらうそうだ。メンバーの一人一人が組織的に「固有性」を保証された名を持つこの社会では、「同姓同名大集合!」はありえないのだ。

 レヴィ=ストロースによる氏族名についての研究は、ヒトの名前の起源を教えてもくれる。「未開社会」では、集団が特定の動植物や鉱物といった自然との特別な結びつきを信仰し、それら動植物などの名前をもって集団の名前とする制度を持っている。その特定の自然種を「トーテム」と呼ぶ。「トーテム」という言葉は、アメリカの五大湖地方のオジブワ族の「かれはわたしの一族のものだ」を意味する語に由来するようだ。トーテムが氏族の祖先であったり、トーテムを食べることがタブーであったり、トーテムが個人の守護精霊、守り神であったり、その信仰には世界の民族で様々な違いがある。それらを「トーテミズム」とひとくくりにして、「野蛮で非合理な未開社会は劣っている」とレッテルを貼る西洋中心主義をレヴィ=ストロースは批判した。

トーテム・ポール

 トーテムによる氏族名の名づけの紹介例を見てみよう。ある民族の集団が二つの氏族からなる場合、その一つを半族と呼ぶ。オーストラリアの北西部では半族を二種のカンガルーの名前で呼び分けており、南西部では二種の鳥、白いインコと烏、あるいは鷹とカラス、東部では白と黒の二種のインコの名で氏族を呼ぶ例を挙げている。鷹とカラスは、ともに主要な肉食の鳥であるが、前者は猟をする鳥なのに対して、後者は腐肉を漁る鳥である点で異なっている。つまり、同じカテゴリーに属しながら(隣接しながら)も対称的な記号となっている。この二種の鳥類の関係をもって、同じ部族社会の中で隣接しながらも対立的な二つの半族の関係を表現する名前にするといった具合である。鷹という名前の半族が鷹と類似しているからではなく、鷹とカラスの関係の対称性を二つの半族の関係性に重ね合わせ、鳥をもって氏族を分類、表現したのが名前だということである。姓名とは、部族社会での氏族の関係性を自然によって表現した印なのである。

近親相姦の禁止が、姓名発祥の起源である

 では、なぜ氏族を名前で分類する必要があったかと言うと、「近親相姦の禁止」=インセスト・タブーというルールが生じたからだ。この禁止の慣習は他の霊長類では見られず、ヒトの自然状態から文化への移行を示すものとして、あまねく社会で観察されるものである。おそらくこのヒトの文化段階への移行期に、姓名の誕生を見ることができるのではないか。つまり、氏族の中でも<配偶者となれる親族>と<配偶者となることが禁じられた親族>を認知するために必要な「記号」としての姓名の機能である。それは、インセスト・タブーを回避し、同じ部族以外との婚姻を成り立たせるためには必須のサインになる。

 そして、世界中に広く見られる婚姻の規則として「交叉イトコ婚」を挙げている。例えば、母方交叉イトコ婚という婚姻規定の体系では、男の子から見て母方交叉イトコ(母の兄弟の娘)に相当する女性との結婚を望ましいとしながら、同時に父方の交叉イトコ(父の姉妹の娘)や、父方および母方の平行イトコにあたる女性との結婚を禁じているなどがそれにあたる。各文化によって父方と母方の交叉イトコ婚についての規則には違いはあれども、インセスト・タブーは人類社会に普遍的に存在する唯一の規則だとレヴィ=ストロースは主張した。

 例えば、オーストラリアのウィク=ムンカン族では、カニをトーテムとする女たちは、「カニは卵を持っている」、「潮がカニをつれてくる」、「カニは穴にかくれる」などと「固有性」に満ちた名前があると紹介している。思い切って想像してみるなら、これらの命名を現代の日本社会に変換するならば、「蟹」という苗字の一族で、「蟹卵子(かに・たまこ)」「蟹潮子(かに・しおこ)」、「蟹穴子(かに・あなこ)」という女性がいて、同じ部族の半族である「亀」一族の男性「亀玉男(かめ・たまお)」さんは、母方の交叉イトコ、「蟹卵子」さんとは結婚できるが、母方の平行イトコ「蟹穴子」さんとは結婚できないという社会が、そのイメージとなるのではないか。

 レヴィ=ストロースは、ヒトの社会に普遍的にあるインセスト・タブーは何のためにあるのか、という謎に答えを出したとされる。

 それは、自集団と他集団の対立関係を、自集団から他集団に女性が嫁ぎ、逆に他集団から自集団に女性を嫁として迎え入れるという、レヴィ=ストロース曰く「女性の交換」によって、解決したと説明した。つまり、それによって、対立関係を互酬的で平和な連帯関係に変えたというのだ。そして、その傾向は、父方交叉イトコ婚よりも母方交叉イトコ婚によって、より遠く親族が広がっていくことも証明してみせた。インセスト・タブーとは、母、姉妹や娘といった自分たちの集団に属する女性を他集団へ贈与せよという「交換の命令」でもあり、そこでなされるのは「女性の交換」による集団間のコミュニケーションだとしたのだ。それは、経済的利益のためではない同じものの交換、「交換のための交換」(関係をつくるための交換)である。

 では、なぜ「男性の交換」で無かったかというと、人類社会が遊動する狩猟採集生活から定住する農耕社会に移り、労働力として子どもの希少性が高まったからと言われている。例えば、集団内に生殖可能な男女がすでにいる隣り合う集団に一人の女性が婚姻により移ってくれば、期待できる子どもの数は増えるが、男性が一人移ってきても期待できる子どもの数はまったく増えない。この生まれる子どもへの期待とともに、定住生活により土地を巡る集団間の対立が増していったことも影響しているのだろう。それらの解決策を集団間の婚姻による「女性の交換」に求めたのだ。

レヴィ=ストロースは、動物への名づけまで分析していた

 よく「タナカヒロカズの会」を喩える時に、「遠縁の親戚の集まり」という表現をする。先に見た親族関係からすると4親等以上くらいの距離感だろうか。いざ親戚の訃報に触れ、お通夜に伺い「お久しぶりです」とか「はじめまして」と挨拶するような間柄と同姓同名の集いの関係性は似ていると感じる。このような類似性に基づく比喩表現が「隠喩」である。この「隠喩」に対比的な比喩表現と言われるのが「換喩」だ。「タナカヒロカズの会は、男子校のようだ」と言うように、これは、タナカヒロカズは男だけだという部分的な特徴を表現しているから「換喩」表現と言える。隣接性、もしくは全体と部分の関連性の表現である。

 唐突にご紹介すると、我が家の愛猫の名は「プラトン」である。生まれてこの方40年以上、犬猫と暮らすということに無縁だったわたしは、2011年、妻と当時3歳娘の「猫を飼いたい」との申し出に猛反対した。想像するに、家の障子や壁への損傷、糞尿の後始末など、日々押し寄せる惨事をどうくぐり抜けられるのか。

 しかし、多勢に無勢と妥協したわたしは命名権を獲得した。猫のイデア(理想)を高尚に表現してみようと、古代ギリシアの哲人にちなみ「プラトン」と名づけ祭り上げ、何をなすにも「プラトンがするなら、致し方ない」と猫の我がまま放題し放題を受け入れることにしたのだ。この名づけは人間の名前の一部を借りる「換喩」であった。

もはや堂々と12年以上住み着くプラトン近影(来てすぐに穴を穿った障子と)

 なぜ「隠喩」と「換喩」の表現の違いを解説したかというと、なんとレヴィ=ストロースは、人間の姓名や個人名のみならず、動物の名づけについて深く考察の域を広げ、その命名を「隠喩」と「換喩」を使って分析しているからだ。その結論から紹介すると、人間と動物の関係が隠喩的なものととらえられている」場合は、その動物への名づけは換喩的性格を持ち、それに対して、人間と動物の関係が換喩的とみなされる場合は、その動物への名づけは隠喩的性格をとると言う。

 たとえば鳥の場合だ。ヨーロッパの古い紋章に鷲などが使われたり、日本の家紋でも雀や鳩などがモチーフとして使用されたり、鳥と深い関係がある社会集団は多い。鳥は空を飛び、地上の人間からは遠く離れて見えるが、人間と同じように社会集団をつくり、親子関係も密接、しかも音声でコミュニケーションを行う。鳥は人間と類似した暮らしを独立して営んでいるから「隠喩」の関係になるのだ。その一方で、羽の色や模様、姿形など種ごとにはっきりとした違いがある。そのため鳥の種と、人間社会のカテゴリーは対応させやすくなるために、フランス語では、鳥の個体に人間と同じ名前をつけることが多いと言う。雀は「ピエロ」、オウムは「ジャコ」、かささぎは「マルゴ」、白鳥は「ゴダール」というように。だから鳥には人間の名前、人間全体の名前のリストから一部を取り出す、「換喩」で名づけるのだという。

 しかし、犬の場合は、鳥とは違って、人間社会に「家畜」として加わっているから関係は「換喩」。だから命名の法則としては「隠喩」になるとし、犬専用の「アゾール」「メドール」「スュルタン」等という名前をつけるのだと紹介している。しかし、この動物の命名分析はあまりにフランス中心主義的なのかもしれない。

 すでに我が家の猫「プラトン」は「換喩」によるネーミングと紹介したが、日本のペット保険で高いシェアを誇るアニコム損害保険の犬の名前ランキング2022によると、一位「ムギ」、二位「ココ」に「モカ」「ソラ」「マロン」と続く。「ムギ」は女優の門脇麦さんと同名で、前に紹介したシワシワネームとして人間界でも注目されているネーミングスタイルであるし、それに続く順位の名前もキラキラネームのブームを経た今、人の名前として通用する名前だ。昭和世代としては犬の名前と言えば、「太郎」「次郎」か「花子」というコテコテの人間の名が名付けられていた記憶がある。日本に限らず、ディズニー映画の名作『101匹わんちゃん』(原題One Hundred and One Dalmatians)には、ロジャー(Roger)やアニータ(Anita)といった人の名前をつけられた犬が登場する。 

 とは言え、レヴィ=ストロースの巨大な業績に対峙し、当てはまらない例を好んであげつらうつもりはない。先に触れた川田順造の説をもう一度引用すると「人の命名は、ある社会がその成員に対して適用する分類と認知の方式」であり、あくまでフランス社会での各動物の分類構造の位置づけに基づき、それらの規則的な命名法の違いを導き出している。この命名の構造分析にかける熱意と志に心打たれるばかりである。名づけとは、偉大な人類学者の研究欲をかき立てるほど重要な、人間ならではの行為なのだろう。レヴィ=ストロースは、言わば「命名人類学」のパイオニアだ。

 今では世界中に広がったジーンズは、19世紀半ばにアメリカのゴールドラッシュをきっかけに生まれた。金を採掘する開拓者たちを支えたジーンズ発祥のブランド「リーバイス」は、その創業者リーバイ・ストラウス(Levi Strauss)にちなんだ名前で、今もタグには彼のフルネームが記されている。実はこの二人のパイオニアの名前の綴りは同じで、発音が違うだけ。だから、わたしはリーバイスを着用する際は、畏敬の念を表するため、いつも心の中で「今日はレヴィ=ストロース」と唱えることにしている。ちなみに親族の基本構造を発見したレヴィ=ストロースの両親は、イトコ同士だったそうだ。平行なのか、交叉なのかは不明のようであるが、彼にその発見をもたらした原体験があったのではないかと興味は尽きない。

 ヒトの名前に備わる「固有性」と同時に「共同体性」という謎、さらに迫ってみたい。

次回につづく

 

(参考文献)

市村弘正『増補「名づけ」の精神史』(平凡社、1996年)
小田亮『レヴィ=ストロース入門』(筑摩書房、2000年)
川田順造「モシ族の命名体系」(『民族学研究』43巻4号、1979年)
クロード・レヴィ=ストロース、大橋保夫(翻訳)『野生の思考』(みすず書房、1976年)
クロード・レヴィ=ストロース、福井和美(翻訳)『親族の基本構造』(青弓社、2000年)
クロード・レヴィ=ストロース、仲澤紀雄(翻訳)『今日のトーテミスム』(みすず書房、1970年)
中沢新一『レヴィ=ストロース 野生の思考』(NHK出版、2016年)
渡辺公三『レヴィ=ストロース 構造』(講談社、2020年)

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

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