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#タナカヒロカズを探して

2023年10月25日 #タナカヒロカズを探して

最終回 同姓同名ワンダーランドへ、ようこそ。

著者: 田中宏和

 名前とは、他ならぬ「このわたし」と「わたしたち」をつなぐために、たまたま選ばれた偶然の記号だと考える。同姓同名の集まりのような「偶然の共同体」は、誰でも実践できる人生の拡張になりうるはずだ。

「偶然」とは、思いがけない出会いのこと

 たまたま名づけられた名前が「タナカヒロカズ」で、ひょんなことから同じ名の「タナカヒロカズ」さんと出会い、もののはずみで「タナカヒロカズ」さんたちと集まり、いつのまにか「タナカヒロカズ」の会という共同体ができた。まったくもって、偶然に与えられた名による、偶然の同じつながりでしかない。

 戦前の京都学派の哲学者九鬼周造は、「偶然性」を生涯のテーマにし、独創的な研究を残している。これまでの西洋哲学では偶然性は軽視されてきた。全知全能の唯一の神を信じる世界では、すべてが必然のもとにあるはずだから、そもそも偶然性云々の議論の余地がないためだ。九鬼は「必然性」とは対称的な「偶然性」による世界認識を打ち立てた。

 その主著『偶然性の問題』では、偶然性を「独立なる二元の邂逅」と定義した。漢字の「偶」は人偏であるが、しんにょうの漢字「遇う」と同じ意味で、二つのものが遇うことを意味しているという。つまり「わたしタナカヒロカズは、他人のタナカヒロカズと思いがけず出遇った」は偶然性に他ならない。そして、これが日本語や中国語の問題だけでなく、アリストテレスも偶然の代わりに「邂逅」という言葉を用いていると指摘している。

 さらに、偶然の出来事が人間の生存にとって非常に大きい意味をもっている場合を「運命」と呼び、また偶然性に対する知的な感情が「驚き」なのだとも述べている。

 よくプロ野球のドラフト会議は「運命の日」と表現される。1994年11月18日。奈良県の桜井商業高校の3年生だった田中宏和さんにとっては、近鉄バファローズに第一位指名された運命の日であり、そのニュースとテレビで出会ったわたしは自分のことかと思い、血液が逆流し、体液が沸騰しかねないかと思うほど驚愕した。同姓同名の他人が、昭和の野球少年であった自分の夢想を叶えてくれた。すでにご紹介した同姓同名運動のはじまりの日は、わたしにとっても運命の日だった。

1994年以降、実際に会って(2020年以降はリモートも含む)確認できた別々のタナカヒロカズさんの人数を年単位時系列で示した

 逆に「運命は出会いから」と考えると、ヒトは出会ってなんぼ。ある男とある女が出会っていなければ、そもそも自分は存在しないのである。すべてのヒトは配偶から生まれたのだ。

 ヒトは、群れたがる。これは、ホモ=サピエンスの習性であり、進化心理学の研究でも我々の種が生き延びた理由であることがわかっている。森林からサバンナに出た我らの祖先は、ライオンには速さでも力でもかなうはずはなかった。しかし、他の哺乳類よりも、物を遠くまで投げる能力と長距離走の持久力で極端に秀でていた。隠れる場のない草原で安全のために集団を形成し、コミュニケーションを取りながら、歌い踊り陶酔し忘我になる。その高揚した一体感のもと協力し合って、いっせいに石を投げ、大型動物などを追い込んで狩りをし、種として淘汰されずに勝ち残ったのだ。それは、ヒトならではの協力行動であり、分かち合う心を生んだとされている。つまり、ヒトは進化の過程で、共同体であること、共に同じことを一体となってすることに喜びを感じる脳と身体になってきたのだ。

 現代でも運不運の偶然性に勝敗が左右されるスポーツの熱狂的な応援に、ヒトの原初的な姿が反復されていることを確認できるではないか。

 わたしは偶然から生まれる共同体に現代社会の可能性を見たい。さらに我々のような同姓同名的コミュニティは、実は誰もが実践できるはずだと考えているのである。

「訂正可能性の共同体」からの学び

 批評家であり、作家の東浩紀の近著『訂正可能性の哲学』は、タナカヒロカズ運動にとって強いインスピレーションを与えてくれる。前回の連載で哲学者ソール・クリプキによる固有名の固定指示子説を紹介した。東は、そのクリプキの『ウィトゲンシュタインのパラドックス』を創造的に読み解き、独自の共同体論を展開しているのである。

 ウィトゲンシュタインは名高い「言語ゲーム論」で、ヒトは辞書や文法書で言葉を覚えるのでなく、チェスやサッカーをプレイしながら学ぶように、実際に発話を繰り返しながら、試行錯誤でいつの間にか言語の規則を学ぶとした。ヒトは言葉を使ってゲームをしているのだ。しかし、言語ゲームにおいては、「いったい自分がなんのゲームをしているのかわからないまま、ただプレイだけを続けている、それこそが言語の本質だ」という主張だ。

 それに対し、クリプキは、現在のゲームを支えているはずの規則や意味は、未来のゲームのルールから現時点へと遡って書き換えることができると論理的に証明した。つまり、未来ではどんなゲームの解釈も可能だということになる。現在のゲームのルールでプレイする共同体もあれば、未来のルールでプレイする共同体も共に成立する。つまり、ゲームのプレイ時点で成否を判定する第三者によって、都度ルールは確定するというのがクリプキの主張なのである。

 これを受け、東は共同体の規則を訂正し続ける、動的な共同体を「訂正可能性の共同体」とした。それは、政治における保守とリベラルの対立に限らず、世界中で散見される「友」と「敵」の観念的な対立を抜け出し、ゆるいつながりを生む連帯の社会思想のベースとなる。そして、そのモデルとして、友にも敵にも分類できない「観光客」と、実は成員が動的に変化する「家族」を比喩に挙げているのである。

 思えば昨年、ギネス世界記録挑戦の前にタナカヒロカズ運動のルールを大きく変えた。1994年から28年間こだわってきた漢字も同じ「田中宏和」の同姓同名の集いから、読みが同じ「タナカヒロカズ」の同姓同名なら共同体に参加できるとした。はじめてリモートで出会った「田中尋和」さんとの会話にはドキドキしたが、メンバーになれてうれしいと言ってもらえた。しかし、事前の想像通り、「これまで漢字も同じにこだわってきたんやないですか」と猛烈に反対を訴える田中宏和さんも現れた。しかし、ここは幹事役の重大な決断だと思い、まずは世界一になるためにこれまでの考え方を変えようと呼びかけた。些細な違いにこだわらず、「だいたい同じでいいじゃない」とのメッセージを発信した。もともと田中宏和運動は、同姓同名というだけで人とつながっていく試みである。だから、ヒトは名前くらいが同じというだけでも、そんな「ちょっとした同じで仲良く、協力しあえること」を実証する平和の社会実験だと言っていたのだから、少々漢字が違うくらいで目くじらを立てるようなことは、この会にはそぐわないではないか。実際、記録達成後のパーティで、反対派だった田中宏和さんに感想を聞いたら「漢字が違う人もいて面白かったです」と言ってくれた。確かにルールの訂正は新たな人のつながりを生んだ。

 東は、「家族は誤配で生まれ、訂正可能性によって持続する」と述べている。東の「誤配」は、ランダムなネットワークのつなぎかえ、あるいはコミュニケーションの失敗を意味し、彼のデビュー以来の重要概念である。家族はヒトとヒトの偶然のネットワークで編成される。「タナカヒロカズ」の同姓同名のつながりも「自分と同じ」の勘違いの「誤配」から生まれた。そんな「タナカヒロカズ」の固有名から広がる人間関係は、「拡張親族コミュニティ」と言えるのではないか。それは、いつも例えるように「遠い親戚」のような関係性の拡張であり、しかも一見すると年代も風貌もバラバラな者たちの集まりながら、全員が「タナカヒロカズ」だという拡張現実(AR)のフィルターで見ると俄然面白く見えてしまうからである。

「拡張親族コミュニティ」によって人生は多重的に楽しむことができる

 「タナカヒロカズ運動がはじまって一番変わったことは何ですか?」

 わたしが最初に会った他人の田中宏和さん、「渋谷のタナカヒロカズさん」に尋ねてみた。

 「個人の人生と、みんなの人生の二つの人生を生きている気がします。それが楽しいんじゃないですかね」

 そう、同じ名前というだけで、他人を自分の分身のように感じてしまうのだ。ひょっとしたら「プロ野球選手でありえたかもしれない」「ポケモンの主題歌の作曲者でありえたかもしれない」「渋谷でデザイン会社を経営していたかもしれない」などという、「〜でありえたかもしれない」反事実的思考(反実仮想)が生じるのである。この反実仮想は、SFなどの物語では「並行世界」(パラレル・ワールド)と言われる。実際、新しいタナカヒロカズさんに会うたびに、世の中にはいろんなヒトがいること、いろんな人生があること、自分が別の人生を生きていたかもしれないことを教えられる。そして逆に気づくのだ。自分の人生はかけがえの無い、一回きりのものだと。

 さらにタナカヒロカズだけが集まっている空間は、「仮想現実(VR)」に没入しているような気にもさせられるのである。タナカヒロカズというヒトしかいない異次元空間に迷い込んだような感覚だ。

 というように、同姓同名による拡張親族コミュニティを起点に、図らずも夢が叶ってしまう「夢想世界」を感じることにはじまり、他人の人生との「並行世界」、フィクションの世界に迷いこんだかのような「仮想現実」、裸眼でデジタル技術による視覚体験を得る「拡張現実」というように、人生を多面的に体験することができるのである。一方で、同姓同名の集まりを観客の立場から捉えた場合、ヒトが普遍的に持つ名前だけで、まるでテーマパークのアトラクションのようなコンテンツとして変幻自在に楽しめることが、地域や文化を超え、ヒトの耳目を集めた原因なのではないかと考えている。

同姓同名コミュニティが織りなす多重的世界

国境を越える「リベラル・ユートピア」のコミュニティは、誰にでもつくれる

 東浩紀は「訂正可能性の共同体」について、その「持続する公共性」という側面から政治思想への昇華を試みている。その過程で参照しているのが、アメリカの哲学者リチャード・ローティの著作『偶然性・アイロニー・連帯』だ。ローティは、「リベラル・アイロニズム」という独特の政治的主張をしている。それは、「公と私の徹底した分裂を受け入れる立場」であり、私的にはどんな思想や信条、信仰を持っていても、それを公共の場では持ち出さないことを意味している。言わば自己矛盾したアイロニーが自由民主主義には欠かせないという考えである。私的な主義主張は一旦棚上げした上で、公の立場では、他者との「共感」や「想像力」による連帯を唱えた。その連帯は、「他人の人生の細部への想像力による同一化」とも表現され、「わたしたちリベラル」の範囲が、「偶然的」であることを繰り返し強調している。

 今年、タナカヒロカズ運動は、意外な形で国際化した。セルビアでギネス世界記録を更新したミリツァ・ヨヴァノビッチさんたちと、タナカヒロカズの会の上位概念となる「国際同姓同名連盟(International Same Name Association)」という国際交流から国際平和を実現するためのNGOを組織化し、同姓同名主義者によるインターナショナルな連帯の運動へと発展させることができた。平和憲法を掲げる日本と、民族紛争の絶えないバルカン半島で平和を希求するセルビアの組み合わせは、説得力があるはずだ。

 そのベオグラードでの記録更新イベントに参加した256人のミリツァ・ヨヴァノビッチさんの一人が受けたインタビューのコメントで、「ミリツァ・ヨヴァノビッチは、とてもcommon name(ありふれた、共有の名前)だったが、今日から特別な名前になるだろう」と答えていた。この喜びの言葉をヒントに、拡張親族コミュニティは同姓同名だけでなく、次の3つの条件を満たせばつくることができる。

 ひとつは「共有(common)」、である。共有によってメンバーに連帯感が生まれる。そして、「希少(rare)」、である。希な体験であるがゆえにメンバーは「運命」を感じることができる。最後に「受動(passive)」、受け身であることだ。自分で選択していないからこそ、メンバーに「多様性」が生じるのである。

 よく「わたしには同姓同名はいない」と言う方がいらっしゃる。そんな方には「これから生まれてくるかもしれませんよ」と応じている。とは言え、同姓同名コミュニティ以外に、この3つの条件を満たす集まりは、なかなか想像しがたい。例えば、地元の小中学校のある学年で同じクラスになり、たまたま席が近くになって友達になった、というのは近いかもしれない。

 わたしは、政治や宗教のカルト集団が、拡張親族コミュニティに当てはまらず、リベラルな共同体になりえないのは、3つ目の条件である受け身による多様性がないからだと考えている。

 わたしは同姓同名的なる拡張親族コミュニティがグローバルに多数結びつくことで、ローティが説く「リベラル・ユートピア」を導くことになるのではと夢見ているのである。

拡張親族コミュニティの成立条件とその特質

シンクロニシティと戯れ、人生をアート化してみよう

 連載の初回に紹介したように我々タナカヒロカズ178人が達成した記録タイトルは、同姓同名の最大の集まり(Largest gathering of people with the same first and last name)だった。同姓同名のヒトだけが、同じ場所に5分間そろっていれば良いというだけのルールである。セルビアサイドの記録挑戦の主宰者ロベルト・チョバン氏は、「最高のエンターテイメントだったよ」と振り返った。

 これは、言うなれば「シンクロニシティを故意に起こす」ゲームだ。シンクロニシティとは、因果関係なく、意味のある偶然の一致が生じることを言う。だから、たまたま同じ名前を与えられたヒトだけが、もののはずみで一箇所に集まるのは、シンクロニシティの二乗だ。

 シンクロニシティに似た概念に「セレンディピティ」がある。「偶然の幸福(をキャッチする能力)」のことである。研究によると、多様な人々が集まるチームワークによって、セレンディピティは生じやすいという。セレンディピティは、思わぬ点と点をつなげる能力だと言われるが、我々は意外な点と点を集めてみたのだ。

 東京とベオグラードではギネス世界記録達成という目的で集まったのではあるが、元はと言えば、タナカヒロカズ運動は実に無目的だった。当初はよく周りから「同じ名前で集まって何が面白いんですか?」と冷淡に尋ねられたものだ。先日も渋谷の田中宏和さんと「無目的に続けてきたのが良かった」と振り返った。続けて美大卒の田中宏和さんは「無目的だからアート・プロジェクトっぽいんですよ」とも。そう言えば、独自の偶然論を展開した九鬼周造は、人生の芸術化を提言していた。

 今、タナカヒロカズ運動は、同姓同名で集まる「ソーシャル・ギャザリング・アート」という、人生を芸術化する運動ではないかと考えるのだ。

 20世紀のコンセプチャル・アートの創始者マルセル・デュシャンは、晩年の未完の代表作で、ガラスに入ったヒビや塵もフレームに入れることで作品化した。もう一人のモダン・アートの巨匠である現代音楽家のジョン・ケージは、易を使った作品などチャンス・オペレーションという作曲手法を生み出した。二人のモダン・アートのマエストロが、揃って偶然を作品に取り込み、芸術表現へと高めた。

 同姓同名的な拡張親族コミュニティは、偶然と戯れる時間の豊かさをもたらしてくれる。これからAIによって未来や行動が予想され、必然性や人生の決定論に包囲される時代にあって、偶然性を積極的に取り込むことは、人生の遊びとなるはずだ。

 人間関係のつなぎ変えで生まれる人的ネットワークは、「ソーシャル・キャピタル」と言われる。よく「社会資本」と訳されているが、水道や電気などの社会インフラと間違えやすいので「社交資本」が適訳ではと思う。社交資本を増やすことは、新たな自分の居場所をつくることにもつながる。

 ハーバード大学医学大学院の84年間におよぶ史上最長の研究で明らかになったのは、健康で幸せな人生を送る鍵は、良い人間関係だという事実だった。同じ大学のビジネススクールでイノベーション論の教鞭を執っていたクリステンセンも、講座の最終日には「人生の経営の鍵は良い人間関係だ」と学生にはなむけのメッセージを贈っているではないか。

 無目的に、アートだと思い、自分から選んだ訳では無い、たまたま同じ共通点を持つヒト同士で集まってみたら、思わぬ幸福が、セレンディピティが待ち構えているはずだ。

 20世紀の量子論では、世界に実体は無く、関係のみがあると、仏教における縁起論のような世界観を提示した。ただ関係、縁のみがあるという世界観だ。

 わたしの場合は、人間関係を紡いでいく起点が、ひょんなことから名前だったというだけだ。親から与えられた名前さえあれば、何が無くとも、名前さえあればいい。そう信じて行動してみた。

 人生は、関係の一回性を生きるアートなのではないか。そのアートを楽しんでいるうちに、ただ5分間座っているだけで、わたしたちは世界一になれた。

 「がんばったぶんだけ報われる」というギスギスした成果偏重の世の中に、誰でも「がんばらなくても世界一」になれる、という見本をつくることができた。

 どんな人も「世界で唯一の存在」として、「生きているだけで世界一」になれるという証明ができた喜びでもあった。

 ソーシャル・ギャザリング・アートをはじめてみませんか。

 同姓同名ワンダーランドへ、ようこそ。

(了)

 

*本連載は今回で最終回となります。ご愛読に感謝申し上げます。2024年を目指して新潮社より書籍化の予定です。

 

(参考文献)

東浩紀『訂正可能性の哲学』(ゲンロン、2023年)

飯田隆『クリプキ ことばは意味をもてるか』(NHK出版、2004年)

NHKスペシャル取材班『ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか』(角川書店、2012年)

樫原辰郎『ロックの正体 歌と殺戮のサピエンス全史』(晶文社、2023年)

カルロ・ロヴェッリ、冨永星(翻訳)『世界は「関係」でできている』(NHK出版、2021年)

加藤夢三『並行世界の存在論 現代日本文学への招待』(ひつじ書房、2022年)

木田元『偶然性と運命』(岩波書店、2001年)

九鬼周造「偶然性の問題」「偶然性に関する論考」「人間と実存」『九鬼周造全集』(岩波書店、1987年)

クリスチャン・ブッシュ、土方奈美(翻訳)『セレンディピティ 点をつなぐ力』(東洋経済新報社、2022年)

クレイトン・M・クリステンセン、ジェームズ・アルワース、カレン・ディロン、櫻井祐子(翻訳)『イノベーション・オブ・ライフ ハーバード・ビジネススクールを巣立つ君たちへ』(翔泳社、2012年)

下村敦史『同姓同名』(幻冬舎、2020年)

スティーヴン・ミズン、熊谷淳子(翻訳)『歌うネアンデルタール  音楽と言語から見るヒトの進化』(早川書房、2006年)

ソール A. クリプキ、黒崎宏(翻訳)『ウィトゲンシュタインのパラドックス 規則・私的言語・他人の心』(産業図書、1983年)

竹内啓『偶然とは何か その積極的意味』(岩波書店、2010年)

トーマス・ズデンドルフ、寺町朋子(翻訳)『現実を生きるサル 空想を語るヒト 人間と動物をへだてる、たった2つの違い』(白揚社、2015年)

古川雄嗣『偶然と運命 九鬼周造の倫理学』(ナカニシヤ出版、2015年)

三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学 「存在」と「自己」を考える』(二見書房、2017年)

ロバート・ウォールディンガー、マーク・シュルツ、児島修(翻訳)『グッド・ライフ 幸せになるのに、遅すぎることはない』(辰巳出版、2023年)

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

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