15. わからなさを受け入れる――「わからない」は怖くない
著者: 桜林直子
悩み相談やカウンセリングでもなく、かといって、ひとりでああでもないこうでもないと考え続けるのでもなく。誰かを相手に自分のことを話すことで感情や考えを整理したり、世の中のできごとについて一緒に考えたり――。そんな「雑談」をサービスとして提供する“仕事”を2020年から続けている桜林直子さん(サクちゃん)による、「たのしい雑談」入門です。
前回も書いたが、ジェーン・スーさんとふたりで雑談しているPodcast「となりの雑談」の中で、よく起こる現象がある。わたしが「こういうことってあるよね」と話すと、スーさんが「え? そんなことある? ぜんぜんわかんない!」と驚く。今まで何度もそれを繰り返してきた。
たとえば、わたしが「目の前にある道を進んではきたけど、自分で選んだという感覚がない人が多くいるんだよね」と話したときも、スーさんは「え! どういうこと? 選ばなくても進むってことあるのが驚きなんだけど」と本当に驚いて、混乱していた。
彼女にとっては、自分で選び、嫌なことを避けつつ決めることが当たり前すぎて、それができない人がいると知らなかったのだ。
こういう場面になったとき、通常は「まあそういう人もいるんですよ」と、適当に話を終わらせることが多いだろうし、「なんで?」と聞かれても、「なんでと言われてもわからない。そうだとしか言えないし……」と、説明できないだろう。
しかし、わたしとスーさんの雑談では、スーさんがふたりの間の違いを知ったときに、「どういうことか教えて?」と知りたがるので、わたしは「それはどういうことかと言うとね、」と説明をする形になる。「なんでそうなっちゃうの?」という質問について、自分でも散々「なんでだろう」と考えてきたことなので、言葉で伝えることができる。これは、とても贅沢なことで、稀有な組み合わせなのだと思う。
以前、Podcastのリスナーの方が「自分の話をしたときに、『なんでそう思うの? ぜんぜんわからない!』と言われたら、わたしなら傷ついてしまいます。そうだよね、どうせわかんないよね、わからなくて大丈夫です、こっちが変なので……と思って、引っ込めてしまいます」と言っていた。
たしかに、わたしも学生の頃はそうだったかもしれない。「自分がみんなとはちがう(よくない方向に)」のだと思っていたし、実際に理解されないことが多かったので、「どうせ他人にわかるわけない」と思っていた。「わからない」と言われたら「お前は変だ」と言われているような気がしたし、「またわかってもらえなかった」と傷つくこともあった。
「わからない」は怖い
「わからない」には、いろんな種類がある。スーさんの「わからない」は純粋に「わからない」であり、だからこそ「わからないから知りたい」に繋がっている。しかし、誰もがそうなるわけではない。嫌悪感の混ざった「わからない」もあるだろうし、線を引き区別するための「わからない」もあるだろう。わたしも以前「これの何がいいのか全然わかんない」と、否定と攻撃の意図で「わからない」と言ってくる人に出くわしたことがある。この人にとって「わからない」は、よくないことであり、相手への攻撃になり得ると思っているのだなと感じた。「わからない」という言葉の中には、いろいろな意図を含ませることができるので、言葉通り受け取ると痛い目に遭うこともあるかもしれない。
なぜ同じ「わからない」という言葉の中にいろいろな感情が混ざるのか。「わからない」は、人を不安にさせる要素があるからだと思う。わからないと怒る人もいる。わからないことが「バカにされた」と感じて怒る場合もあるし、自分がわからないのは相手に非があるとして「わかるようにしろ」と怒る場合もある。「わからない」は、怖いのだ。
スーさんのように「わからないから知りたい」とまっすぐに思える人は、つよい人なのだと思う。こんなことを言うとスーさんは「つよいって言わないで」とカテゴライズを嫌がるかもしれないが、「わからない」怖さに立ち向かえるのは、いやそもそも怖くないのは、つよい。では、わたしが弱いのかと言えば、そうではない。スーさんの「わからなさ」を「そうなんだ、わからないんですね」と引き受けられるわたしもまた、つよいのだと思う。
わかるにも、わかってもらうにも、言葉が必要
わたしとスーさんは、考え方も環境も性格もことごとくちがうけれど、似ている部分もある。それは、言葉の扱い方だ。どの言葉を選び、どう使うかということを適当にしない。考えていることを言葉にしようとする習慣も似ている。頭の中でぼんやり思っていることや心で感じていることにぴったりの言葉が見つかると、うれしい。「こう言ったなら普通こういう意味でしょ」だとか、「言わなくてもわかるでしょう」ということをしない。言葉をサボらないのだ。
「わからない」の先で、わかるためにも、わかってもらうためにも、言葉が必要だ。
わたしはかつてお菓子の業界で働いていて、その職場では、ほとんどの人が言葉よりも感覚や身体を大事にしていた。実際に味覚や身体の感覚が優れていないとできない仕事だったので当然だが、そういう環境で言葉はとても無力だった。
わたしはお菓子を作る仕事ではなく、裏方の事務的なことをしていたので、売上の数字も、生産管理の数字や仕組みも、レシピや作り方も、あらゆる記録や伝達に、言葉が不可欠だった。自分の役割をまっとうするためには、言葉で伝え、言葉で残すことが大事だったが、言葉をあまり大事にしない人たちは、まず聞いてくれないし、読んでくれない。意地悪をしているわけではなく、他のことを大事にしているだけなのだが、とてももどかしく寂しかった。
伝えるための工夫と場所探し
言葉があまり大事ではない人たちの中で、どうしたら伝わるか、いろいろな工夫をした。わたし以外のほとんどの人が、文章を読むのが苦手だし、言葉であれこれ言われると責められているような気がして、耳をパタンと閉じてしまう。わからないことを質問すると「あなたは問題を増やしている」と言われることもあった。自分たちには見えていないし問題だと思っていないものを、わたしが言葉にして明らかにすることで「問題」を作り出していると感じるようだった。そう言われてしまうと、余計なことをしているのかなと落ち込むこともあったが、問題はやはり問題で、みんなが苦手なら得意なわたしがやるしかないのだし、言葉も数字もない中で商売は成り立たないので、グッと堪えて頑張った。
まずは、「わたしは敵ではない。『わからない』は否定ではないし、質問は責めているわけではない。むしろ結果的にあなたたちにいいことがあるような仕組みを作っている」というところから伝えた。そして、むずかしい言葉を使わずに簡潔にわかりやすく伝わるように努力した。大事な部分を大きく太字にしたり、マンガにして読んでもらえるようにしたりした。それでもわからないときはいつでも質問してもらえるように、間口を広く開けておいた。
伝わらない相手に伝えるためには、お互いに言葉が通じる場所を探さないといけない。言葉が得意だからと言って言葉でねじ伏せるのではなく、相手がわかるところまで降りて、敵対せず、バカにせず、伝えないといけない。そう学んだいい経験だった。
言葉を大事にしている同士は、「わからない」が怖くない
工夫と努力でなんとか伝えることができるとは言え、常にしんどさはあった。ただ、それはその場所にいる最中には気が付かなかった。「わたしはしんどかったんだ」とわかったのは、その場所を離れて、別の場所で言葉が通じる人たちに出会えたからだった。
文章にしてnoteで公開してみたときに、こんなにスムーズに言いたいことが伝わることがあるのかと驚いた。おもしろいとまで言ってくれて、ありがたかった。それは、気が合うとかの問題ではなく、言葉を大事にしている人は、言葉をちゃんと受け取ってくれるのだ。もちろんそんな中でも誤解もあるし、受け取り手次第でいかようにも解釈される。しかし、なにより言葉を大事にしている同士は、「わからない」が怖くない。
以前、さまざまな職種の人が集まる場で、話し合う機会があった。そこには、自分にはまったくわからないような難しい仕事をしている人も多くいた。普段から使う言葉が違うし、専門用語も出てくるので、どんどんみんなの言っていることが難しくなってくる。「バカだと思われたくない」というプライドも作用するのか、難しい話の後にさらに難しい言い方をする人もいて、難しさはエスカレートしていった。
そこで、わたしは「ちょっとよくわかりません」と言い、終いには「わたしがわかるように難しい言葉を使わないで。わからないカタカナ専門用語使ったら500円ね」と罰金まで取ろうとした。しかし、みんなが「こいつにもわかるように」とハードルを下げてくれたおかげで、誰もがわかるように話してくれるようになった。賢さ合戦が収束し、わかりやすさを優先してくれるようになったのだ。周りで黙って聞いていた人も、わからないと言えずにわかったフリをしていただけで、ぜんぜんわかっていなかったようで、「助かったよ」とお礼まで言われた。
このとき、わたしは「わからない」が怖くなかった。むしろ、より相手を知ることができるいいものであり、「わからない」は宝だとさらに知った。
「わからない」が怖いのは、素直さの欠如
「わからない」が宝なのは、対人関係においてだけではない。
わたしは、学生の頃ずっと勉強が嫌いだったけど、大人になって、自分の興味のあることを自ら勉強している。「わかりたい」に向かってする勉強はとても楽しい。わかるとうれしいからだ。
学生の頃、わたしは「わからない」を怖がっていたのかもしれない。勉強が苦手だったのではなく、怖くて、逃げていたのかもしれない。
ただでさえ、興味を持てないことは絶対にできないうえに、興味が湧いてくるのを塞いでいたのだから、「わかりたい」という興味から勉強することは難しい。そのうえ「わからない」ことが怖いのなら、逃げたくもなる。
「わからないから、わかりたい」と思えなかったのは、素直さの欠如と近いのではないか。
わかろうとしないことは「わからない」が怖いからだし、「自分はわかっているから」と、わかっている側に立とうとするのも、同様に「わからない」が怖いからだろう。
「わからない」を受け入れるにも、素直さが必要なのかもしれない。そう思うと、わたしが大人になってから後天的に「素直さ」を手に入れたことで、勉強を始めたり、人との対話やわからなさが怖くなくなったりしたことも納得できる。
雑談をするときに「正直さ、素直さ」が必要だと言い続けているが、素直であれば、わからないことを「わからない」と言えるし、相手の「わからない」を怖がることなく「そうか、これでわからないならもう少し話してみようかな」と思えるようになる。
わたしとの雑談の場において、「事前に用意するものは特にないですが、正直さを持ってきてください」と伝えているのは、「わからなさ」を共有するためにも、とても大事なことだったのだな。
*次回は、2月19日水曜日更新の予定です。
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桜林直子
1978年、東京都生まれ。洋菓子業界で12年の会社員を経て、2011年に独立。クッキーショップ「SAC about cookies」を開店。noteで発表したエッセイが注目を集め、テレビ番組「セブンルール」に出演。20年には著書『世界は夢組と叶え組でできている』(ダイヤモンド社)を出版。現在は「雑談の人」という看板を掲げ、マンツーマン雑談サービス「サクちゃん聞いて」を主宰。コラムニストのジェーン・スーさんとのポッドキャスト番組「となりの雑談」( @zatsudan954)も配信中。X:@sac_ring
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 桜林直子
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1978年、東京都生まれ。洋菓子業界で12年の会社員を経て、2011年に独立。クッキーショップ「SAC about cookies」を開店。noteで発表したエッセイが注目を集め、テレビ番組「セブンルール」に出演。20年には著書『世界は夢組と叶え組でできている』(ダイヤモンド社)を出版。現在は「雑談の人」という看板を掲げ、マンツーマン雑談サービス「サクちゃん聞いて」を主宰。コラムニストのジェーン・スーさんとのポッドキャスト番組「となりの雑談」( @zatsudan954)も配信中。X:@sac_ring
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