13.なぜ自分を責めるのか――自分の価値を他者に委ねるな
著者: 桜林直子
悩み相談やカウンセリングでもなく、かといって、ひとりでああでもないこうでもないと考え続けるのでもなく。誰かを相手に自分のことを話すことで感情や考えを整理したり、世の中のできごとについて一緒に考えたり――。そんな「雑談」をサービスとして提供する“仕事”を2020年から続けている桜林直子さん(サクちゃん)による、「たのしい雑談」入門です。
「なんでそんなふうに捻じ曲げた解釈するの?」とか「もっと素直に話を聞きなよ」などと感じたこと、または言われたことはないだろうか。
話を聞く側の解釈の仕方に、話した側が「いや、そんなこと言ってないよ」と、話を捻じ曲げられたように感じるということがある。なぜそんなことが起こってしまうのだろう。
雑談の中でこんな話を聞いた。
「仕事で、『あれってどうなってる?』と進捗を聞かれると、遅い、まだなのかと催促されている気がして、申し訳なくなります」
「状況がわからないからなんとも言えないけど、『あれってどうなってる?』には『今こんな感じですよ』と答えるまでじゃないのかな?」
「それはそうなんですけど、どうにも責められている気がしちゃって……」
「相手はただ確認したかったのに、責められてると受け取られたら『えー、責めてないのにな』と驚くかもしれないね」
「そうですよね。なんでこんなに人を怖がっちゃうんだろう」
聞いた側がわざと捻じ曲げた解釈をしようとしているわけではないのに、話した側が言いたいこととは違うものとして受け取ってしまうことがある。これは困った。
そんなとき、ほとんどにおいて「気にしすぎだよ」と言われるだろう。「そんなに気にしなければいいんだよ」と。はたしてそうだろうか。いや、そうなんだけど、それだと解決方法が「気にしない」になり、「気にしないことを頑張る」になるわけだけれど、それっていったいどうやるんだろう。
「気にしない」ではなく「自分を責めない」
相手の言いたいことをそのまま受け取るのが難しく、なぜだか捻じ曲げた解釈をしてしまうのは、相手をどう扱っていることになるだろうか。
この場合、自分を責めてくる怖いものとして扱っていることになる。実際はそんなことをする人ではないとわかっていても、そういう扱いをしてしまう。なぜかというと、自分で自分自身のことを「おまえはダメだ」と責めているからではないか。そんなところにも自分の扱い方が現れる。
こうしたケースでは、「気にしない」を頑張るのではなく、もっと手前で「自分を責めるのをやめる」のを頑張った方がいいだろう。
以前、「自分の中の鬼コーチ」について書いた。それは自分に厳しくしてしまう元になる声で、「もっと頑張らないとダメだ」とか「そんなんじゃまだまだ足りない」と言ってくる。厳しいし意地悪だが、そこには不安や願いが隠れている。それを共有し、一緒に願いを叶えることで鬼コーチと和解するという方法を勧めた。
自分を責めてしまう癖と鬼コーチの声は、とても似ている。しかし、後者のように「こうなってしまうのが不安だからもっと頑張れ」という願いがなく、ただただ前者が「おまえはダメだ」と責めてくるならば、別のものと認識して、それぞれ対策をした方がよさそうだ。
他人の期待に応えることと相手をコントロールすることは表裏一体
「子どもの頃から、母はいつも“あなたのため”と言って、とても厳しかったです」
「その当時も、自分はダメだと思っていたのかな」
「直接『おまえはダメだ』と言われたとか、酷い扱いを受けた記憶はないんですけど、母の期待に応えられなかったときは、自分にガッカリしていたような気がします」
「そうか、自分の価値が他人の評価によって左右されると思ってしまったんだね」
「え、でも、他人からの評価がないと価値ってわからなくないですか……?」
お母さんの期待に応えられたらOK。お母さんが喜んだら自分に価値がある。それ自体がダメなわけではないし、「お母さんが喜ぶ顔が見たい」という気持ちは、どんな子どもにももともと備わっているものだろう。
ただ、そのことと自分の価値が他人の評価によって左右されてしまうのは問題だ。「お母さんが喜ぶとうれしい」と、「お母さんが喜ばないと自分には価値がない」は大違いなのだ。肉まんとキン肉マンくらい違う。
子どものうちは、お母さんが喜ぶかどうか顔色をうかがって、喜びそうなことを選ぶのが可能だったかもしれない。お母さんを喜ばせてあげられる自分でいられたかもしれない。
しかし、どんなに大好きなお母さんとはいえ、彼女が喜んだり悲しんだりすることまでをコントロールすることはできない。
同時に、どんなに子どものためとはいえ、お母さんが子どもを自分の望み通りに動くようにコントロールしてはいけないのだ。
お互いが大好きでも、いや、大好きだからこそ、そういう悲劇は起こりうる。しかもよく起こる。
誰かの期待に応えることと、相手をコントロールすることは表裏一体で、お互いに「よかれと思って」やったことが悲劇の始まりになりうる。
他者からの評価で自分の価値が決まるという認識
自分を責めることと、他人の評価を気にしてしまうことは、おそらくセットなのだろう。
自分に対して「おまえはダメだ」「おまえのせいだ」と過剰に低評価をつけ責め立てる手前にあるのは、実際に自分ができたかどうかではなく、他人の期待に応えられるかどうか、他人の役に立っているかどうかだからだ。他人からの「あいつはダメ」という視線を自分自身に向けているのだ。
他人の目や他者からの評価を気にし過ぎてしまうのはなぜか。
先ほど、お母さんの期待に応えられるかどうかで自分の価値が決まると思ってしまった人の例を書いた。そのように、他人からの評価で自分の価値が決まり、自分の輪郭ができているという認識だと、結果的に他人からの評価が大きく影響してしまう。それで自分ができるのだから、気にするのも当然だ。
しかし、自分の輪郭は外側から誰かにつくられるものではない。本来は、自分の内側からできるものだ。自分の経験や、感情などから、自分はできあがる。その上で他者との関わりももちろん関係するが、あくまでも先にあるのは自分だ。
自分の形がまず先にあって、出したものに対して評価がつく。その順番が真っ当なやり方だろう。評価によって自分の形を変形させるのではない。相手の期待に応えようとする行為は、相手の型にはまろうと自在に自分の形を変えることになる。
他者からの評価に影響を受けすぎるのは、自分の価値そのものを認めていないからなのだと思う。他人に認めてもらわなければ、自分で自分の価値を認められない。しかし、自分の価値を他人に委ねてしまうのは、かなりまずい。
自分の価値を認める「いてよし」
他者を、「自分を評価するもの」「自分を変えようとするもの」「自分を動かそうとするもの」だと思っていたら、「あの仕事どうなってる?」とかけられた言葉が「早くしろ」に聞こえるのもわかる。
他者からの評価で自分の価値が決まるのだと思っていたら、「遅いと思われた」「自分はダメだ」に繋がるのもわかる。わかりたくはないが、理屈は通る。
では、自分の価値を自分で認め、他者から影響を受けすぎずに済むにはどうしたらいいのだろうか。
自分の価値は、「○○ができるから価値がある」とか、「友達が多いから価値がある」とか、そういう外的要因や能力から認めるのではない。
ただそこにいてよし、ということだとわたしは思う。
「いてよし」と思えないから、誰かの役に立とうとしたり、誰かの期待に応えようとしたりする。どう考えても、どんな人でも、まずは「いてよし」なのだ。それは何も特別なことではなく、全員がそう思うべきだ。
「いてよし」と自分で自分の価値を認めることができないと、外からの評価を貰おうとする。他人から「いてもいいよ」と許可をもらおうとする。しかし、そんなことを言ってくれる人はどこにもいないのだ。本来は自分ですることだから。それなのに、誰にも言ってもらえないことを理由に「誰からも認められない自分は価値がない」と勝手に自分で自分の価値を下げる。何度も言うが、認めるの、自分でやるのよ。
子どもの頃に、親や周りの大人から自然に「いてよし」と思えるようにしてもらった人は、自分がいてもいいかどうかなんて、考えたこともないだろう。
でも、それができなかった人がたくさんいる。自然には自分の価値を信じられない。そこに大きな格差がある。しかし、どんな理由でできなかったとしても、自分を安心できる場所に連れて行けるのは自分だけだ。自らを責めて下げ続けた価値を、誰かが勝手に引き上げてくれることは、残念ながら、ないのだ。
「いてよし」と思える社会になるといい
話の聞き方には相手をどう扱うかが表れる。そして、相手をどう扱うかには自分をどう扱うかが表れる。
自分を「ダメだ」と責めるのは、他者の視点を自分に向けているからで、自分の価値を他人のものさしで決めてしまっている。自分の評価を他者に委ねるのはやめたほうがいい。他者が期待する形に自分を自在に変形させるのもやめたほうがいい。
「自分はダメだ」の反対は、「自分はできる」ではない。「いてよし」だ。できてもできなくても、自信などなくても、まずは「いてよし」と思えるといい。そういう社会になるといい。
*次回は、12月18日水曜日更新の予定です。
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桜林直子
1978年、東京都生まれ。洋菓子業界で12年の会社員を経て、2011年に独立。クッキーショップ「SAC about cookies」を開店。noteで発表したエッセイが注目を集め、テレビ番組「セブンルール」に出演。20年には著書『世界は夢組と叶え組でできている』(ダイヤモンド社)を出版。現在は「雑談の人」という看板を掲げ、マンツーマン雑談サービス「サクちゃん聞いて」を主宰。コラムニストのジェーン・スーさんとのポッドキャスト番組「となりの雑談」( @zatsudan954)も配信中。X:@sac_ring
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はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
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どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 桜林直子
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1978年、東京都生まれ。洋菓子業界で12年の会社員を経て、2011年に独立。クッキーショップ「SAC about cookies」を開店。noteで発表したエッセイが注目を集め、テレビ番組「セブンルール」に出演。20年には著書『世界は夢組と叶え組でできている』(ダイヤモンド社)を出版。現在は「雑談の人」という看板を掲げ、マンツーマン雑談サービス「サクちゃん聞いて」を主宰。コラムニストのジェーン・スーさんとのポッドキャスト番組「となりの雑談」( @zatsudan954)も配信中。X:@sac_ring
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