シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
知の楽しみにあふれたWebマガジン。
 
 

土足の限界 日本人はなぜ靴を脱ぐのか

2025年11月10日 土足の限界 日本人はなぜ靴を脱ぐのか

第21回 野外でも履き物をぬぐ場合

著者: 井上章一

「玄関で靴を脱いでから室内に入る」。日本人にとってごく自然なこの行為が、欧米をはじめ海外ではそれほど一般的なことではない。建築史家であり『京都ぎらい』などのベストセラーで知られる井上章一さんが、このなにげない「われわれのこだわり」に潜む日本文化の隠された一面を、自らの体験と様々な事例をもとに考察する。

人前では、へりくだり

 ラビンドラナタ・タゴールはインドの文豪である。1913年には、アジア人としてはじめてのノーベル賞を、文学賞だが、受賞した。日本にも、よくきている。そして、そのつど各地で講演会をひらいてきた。1916年の来日にさいしては、日本女子大もおとずれている。そして、女学生に瞑想指導をほどこした。

 その写真記録(図1)を紹介する。軽井沢の林間、屋外でこのレッスンはすすめられた。見れば、女学生たちは、みな履き物をぬいでいる。土の上へ座蒲団をしき、そこにすわっていた。野外の空間を、伝統的な和風の屋内ででもあるかのように、あつかっている。

図1:軽井沢の林間で、来日したタゴールの瞑想指導を受ける日本女子大学生(『一億人の昭和史「日本人」二月号 1⃣三代の女たち 上 明治・大正編』毎日新聞社、1981年2月)

 図2はいわゆる青空教室の写真である。1934年にうつされた。台風で校舎をだいなしにされた大阪の小学校が、グラウンドで授業をおこなっている。校庭につどった生徒たちは、みな履き物をぬいでいた。屋外でも敷物があれば、土足はいやがられたようである。

図2:室戸台風で被害を受けた後、戸外で授業を受ける大阪市大正区の鶴町小学校の生徒(『昭和 二万日の全記録 第3巻 非常時日本 昭和7年➤9年』講談社、平成元年9月)

 もう一枚、大阪の写真をひいておく(図3)。1954年に、街頭でとられたスナップである。電柱の脇にいた少年と少女をうつしている。少年は赤い羽根という共同募金への協力を、路上の人びとによびかけていた。少女は物乞いである。道にすわり頭をさげている。

図3:赤い羽根共同募金と物乞いの少女。1954年10月3日(『毎日ムックシリーズ 20世紀の記憶 20世紀キッズ』毎日新聞社、1999年4月)

 この時少女は靴をぬいでいた。いっぽう、少年は靴をはいたまま、立っている。少女と同じように、金銭的な支援をたのみこんでいた。しかし、共同募金という高邁な使命があるせいだろう。衆人環視のなかで、少女ほど卑屈にはふるまっていない。

 だが、少女には靴履きのまま立ちあがって、援助をもとめることができなかった。屋外でも、履き物をぬぐことが低姿勢につながる。幼いなりに、そう思っていたようである。まあ、大人からの示唆もあったのだろうけど。

 先生の教えをこう。周囲の人びとから、金銭をめぐんでもらう。そういう立場にいる者は、しばしば履き物をぬぎ腰をおとして、まわりとむきあった。それは、へりくだる側が、とりがちな姿勢だったようである。

 敗戦後は、都市部のあちこちで、靴みがきの人々が路上に出現した。彼らは道端へすわりこみつつ、仕事をする。その場で、通行人がさしだす靴のよごれを、ぬぐいとった。この働きにたいする報酬を、くらしの(かて)としたのである。

 図4は東京・有楽町の靴みがきたちを、うつしている。1948年ごろの写真である。女性のみがき手は、たいてい頭巾(ずきん)をかぶっていた。頬かむりで、顔をおおっている。身の上をかくしたいと、思っていたのだろう。靴みがきには、歩行者の厚情をこうところがある。それを、どこかではじていたのではないか。

図4:ガード下の靴みがき。有楽町、昭和23年頃(『カストリの時代』林忠彦、ピエ・ブックス、2007年4月)

 ねんのため、書きそえる。戦後に若い女性のあいだで、スカーフのはやったことがあった。いわゆる「真知子巻き」である。その流行は、しかし1953年以後の現象であった。図4の頭巾は、その八年前にうつされている。靴みがきの頬かむりも、はやりのスカーフではありえない。身をやつした状態への羞恥心こそが、このよそおいをえらばせたのだと考える。

 みがき手たちの足先を見てほしい。彼らの多くは、履き物をぬいでいた。下駄や草履を足からはずした状態で、座布団に腰をおとしている。この状態は図3の物乞いとも、かさなりあう。やはり、この姿は低姿勢であることをしめす記号的な構えだったのだろう。少なくとも、そういう一面のあったことは、いなめないようである。

プロテストの人たちも

 水俣病は工場廃液がふくむ有機水銀によってひきおこされる。熊本県の南端に位置する水俣市で問題となりだした。病名の由来は、そこにある。1968年には公害病として認定されている。だが、その補償をめぐり、被害者と加害者であるチッソは、ながらく対立しつづけた。

 図5は、1970年の記録である。患者側の代表が抗議のすわりこみにおよんでいる。うつされたのは東京・丸の内にあるチッソの本社前である。彼らは社屋の前へ、(むしろ)をしいた。その上へ、被害者の遺影もかかげながら、腰をおとしている。もちろん、靴などははいていない。

図5:東京丸の内のチッソ本社前に遺影を抱いて座り込む水俣病患者家族の代表ら。昭和45年5月14日(『一億人の昭和史 8⃣日本株式会社の功罪』毎日新聞社、1976年9月)

 図6は、水俣のチッソ前ですわりこんだ人を被写体としている。1988年の映像である。抗議者とチッソの社員が親しげに語りあう。その意外性をねらったスナップではあったろう。しかし、私は履き物の処理に注目したい。抗議の人は、ここでも草鞋(わらじ)やブーツをぬいでいる。敷物の上には、裸足か靴下履きになり、しゃがんでいた。

図6:水俣のチッソ正門前に座り込む人。1988年4月(『毎日ムックシリーズ 20世紀の記憶 連合赤軍“狼”たちの時代1969-1975』毎日新聞社、1999年)

 こういう抗議へふみきる人に、チッソへの敬意があったとは思えない。むしろ、逆の感情をいだいていただろう。それでも、彼らは外履きをはかず、敷物ごしに、屋外の地面へ着座した。この振舞を、へりくだる側だけのそれだとみなすべきではない。

 ただ、往来をゆく人びとの共感は、彼らも期待していたろう。靴をぬいで、路肩に腰をおとす。そうしたほうが、一般人からの反感はまぬがれやすい。椅子を路上へもちだしての、靴をはいたすわりこみは、違和感をもたれる可能性がある。以上のような判断は、まだ当時ならあったかもしれない。

敷物さえあれば

 ままごとという遊びがある。幼児がくりひろげる擬似家族ごっこを、そうよぶ。このごろは、屋内でおこなうのがふつうになっている。しかし、自動車などが普及する前は、屋外の路上などでたのしんだものである。

 図7は日本画家の鏑木清方が、1967年にあらわした。1880年代の情景がえがかれている。「ままごと」と題された、回想的なイラストである。

図7:ままごと。鏑木清方画、『幼少時代』挿絵(『太陽 1月号 No.164』平凡社、1976年)

 ごっこ遊びに興じる子どもたちは、履き物をぬいでいる。茣蓙(ござ)のしきつめられたエリアを、家の中に見たてていた。そして、外出用の履き物は、その外側においている。敷物があるだけで、そこを臨時の居住域だとみなす、かりそめの約束は成立した。

 20世紀の後半になっても、事情はかわらない。自動車の進入が、あまりない路上では、同じ状態がたもたれた。敷物の上がその場かぎりのダイニングルーム、あるいはリビングになったのである。

 図8を見てほしい。1960年に福岡の筑豊でとられた、ままごとの写真である。手前の女児は、草履を茣蓙の外側においていた。奥の男児は、長靴を同じように処理している。そして、どちらもごっこ遊びには裸足で興じていた。

図8:福岡県筑豊炭鉱で。(『こどものいた街』井上孝治、河出書房新社、2001年4月)

 図9は。紙芝居を見つめる子どもたちの写真である。1959年に名古屋で撮影された。テレビが家庭に普及する前は、どこでもよく見かけた光景である。

図9:街の風物詩、紙芝居屋さん、昭和34年6月(『昭和の名古屋 昭和20~40年代』写真 名古屋タイムズ・アーカイブス委員会、文 長坂英生、光村推古書院株式会社、平成27年7月)

 地面には、なにもしかれていない。すわってながめる子どもたちは、みな靴をはいている。敷物のない場所では、それが普通であった。土足厳禁の屋内めいた空間に、屋外をなぞらえる。そのためには、敷物の存在がかかせない。逆に言うと、茣蓙や筵、あるいはブルーシートさえあれば、仮構の屋内は設定しえた。

 図10は国鉄(現JR)の上野駅(東京)でとられた写真である。電車の到着をホームでまつ人が、床にすわりこんでいる。1980年ごろの記録だが、くだんの人物は腰をおとす場所に新聞紙をしいていた。はいていたサンダルを、その外側においている。敷物の上には外履きをもちこまない。この暗黙知は、大人も子どもと共有していたようである。

図10:ホームで入線を待つ帰省客。(『東京下町100年のアーカイブス―明治・大正・昭和の写真記録―Archives for the Tokyo doumtown area 100 years』青木正美/西坂和行、 生活情報センター、2006年)

 それにしても、土足をきらうかりそめの屋内は新聞紙をしくだけで成立した。履き物をぬぐ状態への執着は、それだけ強かったということか。まあ、今はこういう光景も、影をひそめたように感じるが。

軍事教練と色事と

 いわゆる満州事変は1931年におこった。以後、庶民のくらしには軍事色がおよびだす。たとえば、女性も銃撃の訓練へ、かりだされた。図11は目黒高女生のそれをうつしている。図12は女子青年団の訓練写真である。それぞれ、1934年と1940年に撮影された。いずれも屋外でおこなわれている。必然的に、みな靴をはいたまま、のぞんでいた。

図11:射撃訓練を受ける目黒高女の生徒。昭和9年5月(『決定版 昭和史 第7巻』毎日新聞社、1984年)
図12:女子青年団の小銃訓練。昭和15年(『大正・昭和を飾った女たち ㊦』遠藤憲昭監修/中原蒼二構成、発行者 佐藤今朝夫、株式会社国書刊行会、昭和62年)

 図13は、国防婦人会の女性による射撃練習の光景である。1936年の記録だが、彼女たちは履き物をはいていない。場所は屋外である。だが、裸足になっていた。下に敷物をしけば、そこは屋内に準じる空間となりやすい。彼女たちも、筵の上に横たわっていた。裸足での訓練になったのは、そのためか。

図13:軍事教練に参加した割烹着に白ダスキの国防夫人会の女性。昭和11年(『決定版 昭和史 第7巻』編集人 西井一夫、発行人 戸田栄輔、毎日新聞社、1984年3月)

 ただ、介助役の軍人たちは、靴をぬいでいない。外出用の姿で、彼女らをたすけている。その点で、室内にいるかのような国防婦人会の面々とは、好対照をなしていた。

 裸足の彼女らには、ひそかなジェンダー観が作用した可能性もある。家庭の主婦でもある女たちは、ほんらい家のなかにいるべきだとする観念が。わざわざ、筵を下にしき履き物をぬがせたのは、そのためかもしれない。

 銃後の射撃訓練には、レビューガールたちも参加した。図14は、松竹の少女たちがとりくむ光景をうつしている。1937年の写真である。訓練には、舞台衣裳のままのぞんでいる。そのため、屋内なのに靴をはいていた。ショーガールには、今のべたジェンダー役割が期待されなかったということか。

図14:軍事教練を受ける松竹レビューガール。1937(昭和12)年。(『写真・絵画集成 日本の女たち 第1巻 時代を生きる』編集 江刺昭子、発行者 高野義夫、日本図書センター、編集 三冬社、1996年)

 屋外であっても、敷物の上では履き物をぬぐ。その場を虚構としての屋内にかえる効果が、茣蓙や筵にはある。ここまでは、その実例を紹介した。

 しかし、屋外を屋内になぞらえることは、敷物がなくても可能である。外履きを足からはずす。ただそれだけの行為で、場を家のなかであるかのようにしてしまうケースもある。以下に、そのような事例を披露しておきたい。

 図15は、『大阪毎日新聞』(1893年8月20日付)に掲載された。「夏木立」(菊池幽芳作)という小説にそえられた挿絵である。絵は木陰のベンチでよりそう若い男女をえがいている。男のくどきぶりが巧妙だったのだろう。女は媚態をしめしつつ、男になびいている。その背を男にもたれさせてもいた。

図15:菊池幽芳「夏木立(31)」、稲野年恒画 『大阪毎日新聞』1893(明治26)年8月20日(『新聞連載小説の挿絵でみる近代日本の身装文化』大丸弘 高橋晴子、発行所 三元社、2019年12月)

 のみならず、女は草履をぬいでいる。地面へおいたまま、足先をベンチの上へもちあげた。人目にたつ外では、ほんらいいちゃつきにくい。だが、女は履き物を足からはずした。そこが、屋内であるかのようにふるまっている。人目は気にしないわ。もっと、じゃれついて。家のなかですごしているようにしてもかまわないから。そんなそぶりを見せていた。

 男のほうも、女にあわせだす。右足にはいていた下駄を、ぬいでいる。まだ、左足のほうは、はずしていない。だが、ふたりは外履きを放置することで、場の屋内化をはかっている。ベンチを愛の空間へ近づけるよう、共謀しあっていたのである。

 こうしたいとなみは、20世紀後半にもたもたれた。いや、今でもつづいているような気がする。図16は1954年にうつされた。東京の浜離宮公園でとられたスナップである。

図16:アベックで賑わう休日の浜離宮公園、中央区、1954年(『田沼武能写真集 東京わが残像 1948-1964』田沼武能、クレヴィス、2017年10月)

 現地には、草叢(くさむら)でくつろぐカップルが、おおぜいいたらしい。これは、そのひとつをとらえた一枚である。ふたりは、パラソルで小陰をつくっていた。そこが、ちょっとした軒下であるかのようにしたてている。また、女は自分のヒールをぬいでいた。男も靴をとっている。敷物はしいていない。だが、象徴的な屋内化には、こぎつけたようである。

 近代の日本では、公共空間へ土足がはいりこんでいった。屋内へ外履きをもたらす力が、間断なくはたらきつづけている。土足をきらう観念は、おされっぱなしという後退の途を、たどってきた。だが、おしかえす反作用も、なかったわけではない。今回は、屋外でも土足をしりぞける、そのささやかな契機にふれたしだいである。

 

*次回は、12月8日月曜日に更新の予定です。

この記事をシェアする

ランキング

MAIL MAGAZINE

「考える人」から生まれた本

もっとみる

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき
  •  

考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
 「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
 どうして自分が「考える人」なんだろう―。
 手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
 それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

井上章一

1955(昭和30)年、京都府生れ。京都大学大学院修士課程修了。国際日本文化研究センター所長。『つくられた桂離宮神話』でサントリー学芸賞、『南蛮幻想―ユリシーズ伝説と安土城』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。著書に『京都ぎらい』『学問をしばるもの』『美人論』『関西人の正体』『ヤマトタケルの日本史 : 女になった英雄たち』などがある。

連載一覧

対談・インタビュー一覧


ランキング

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき

  • ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号第6091713号)です。ABJマークを掲示しているサービスの一覧はこちら