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経済学を読み直す 現代を考えるための名著

2026年6月8日 経済学を読み直す 現代を考えるための名著

第2回 ハミルトンの連邦主義と貿易保護主義――国家と貿易(2)

著者: 猪木武徳

名著と言われる本を読むことは、決して単なる衒学趣味ではありません。最新の問題、未知の問題に向き合う時こそ、ますますその有用性を発揮するのが、名著の名著たるゆえんです。

経済学の分野では日々あたらしい論文が書かれていますが、その多くは名著が提示した思考の枠組みに基づいており、それが書かれた時代的背景や本来の目的などを正確に理解することが大切となります。

そこで本連載では、経済学の泰斗である猪木武徳さんが、最新の経済課題に向き合う際に参考になる名著を選び、その現代的意義を読み解きます。

 アダム・スミスの自由貿易論が経済実務家や政治経済学者たちに支持され始めた頃、実践知に基づく国家観からひとつの反論を示したのは、米国の初代財務長官、アレグザンダー・ハミルトンであった。すでに独立戦争前後から新国家の統治制度や対外政策の方針について洞察に富む見通しを持った政治家である。思想性と教養だけでなく、行動力を具えたこのような人物を財務長官に選んだワシントン大統領の慧眼を改めて評価すべきなのであろう。

アレグザンダー・ハミルトン

 オーストリアで財務大臣や銀行頭取の経験のあった経済学・経済思想の優れた理論家、J. シュンペーター(1883-1950)は、晩年の大著『経済分析の歴史』(第2編3章)で次のように述べている。ハミルトンの『製造業に関する報告書』は、「事実を叙述するのを目的としているのは疑いないところであるが、事実、最良の『応用経済学』(applied economics at its best)」であり、「彼こそは、半可通を振り廻してある種の聴衆に演説をぶつのに大いに役立つような経済学よりも・寧ろもっと分析的な経済学を求むる方が値打ちがあると考えていた・数少ない経済政策の実施者の一人であったというのに尽きる」(東畑精一訳)との賛辞を贈っている。そしてハミルトンの書いた公債論、中央銀行論なども高く評価している。また英国の歴史家であり自由主義思想家のアクトン卿 (1834-1902) も、ハミルトンとイギリスの思想家であり哲学者であったE. バーク(1729-1797)の二人を、「前世紀(18世紀)の最も優れた政治論の書き手」(the best political writers of the last century)と高い評価を与えている。

 米国の独立戦争前後に活躍した思想性のある政治家は誰かと問われれば、ベンジャミン・フランクリン(1705(ユリウス暦)-1790)とハミルトンにまず指を屈すべきであろう。フランクリンについては、その多才ぶりと政治家として合衆国建国に心血を注いだ功績を改めて指摘するまでもなかろう。彼は若い頃、紙幣の発行の必要性とその方法を提示する論考を公にしている。(A Modest Inquiry into the Nature and Necessity of a Paper Currency (1728)) 一方のハミルトンは、米国が独立国家としての制度を整えるにあたって、その政治経済制度をデザインするいくつかの重要文書を残している。英領西インド諸島の小さな島に生まれ、文武の抜きんでた才能でアメリカ建国の父のひとりとして輝かしい生涯を送ったハミルトンは、決闘で負った傷が原因で命を落とすという劇的な最期でも知られる。彼の「保護貿易論」のどこが優れているかを論じた文章はあまり読まれることはない。「単なる保護貿易主義者」と総括されるだけに終わることが多い。

 本章では、ハミルトンの人と思想について要約し、実践の学としての経済学への彼の貢献を論じる。独立戦争の折に総司令官ワシントンの副官を務め、いくつかの戦いでの武勲で知られるだけでない。ハミルトンはヒュームやモンテスキューを読み、哲学にも関心を持つ政策思想家でもあり、アメリカ合衆国という新しい国家の統治構造を設計する上で、政治と経済の両分野で大きな功績を遺しているのだ。

 ひとつは、13連邦諸邦が、「緩やかな諸邦連合」ではなく、一定の範囲で強い権限を持つ中央政府が統治する「連邦国家」として出発することを推し進めたこと、いまひとつは、独立戦争で膨張した公債の処理、それと関連する通貨システムの構築、中央銀行の着想、そして関税による保護貿易主義が後発の弱小国にとって不可欠であることを、調査データに依りつつ明晰に論じたことである。実はこれらの構想は、金融と財政面で新国家の土台を打ち立てる上で根本的な課題であった。

連邦国家としての骨組みを決めた合衆国憲法

 まず連邦主義者(フェデラリスト)としてのハミルトンの考えを見ておこう。彼はフィラデルフィアで開かれた憲法制定会議開催(1787年5月-9月)の発案者であり、合衆国憲法が連邦主義を採るための草案を執筆した主要人物でもあった。憲法制定会議は、中央政府にかなりの権限を与える連邦(federation)か、13連合諸邦(州)の弱い連合(confederation)かをめぐる激しい議論の場となった。連邦制の統治構造の核心部分をしたためた連邦主義派(フェデラリスト)の首魁はハミルトンであった。草案自体は憲法制定会議の席で提示されることはなかったが、そのほとんどはニューヨークの新聞に掲載された後、『ザ・フェデラリスト』として一巻の書物にまとめられた。

 連邦主義構想を強く推す論考の過半(全85篇のうち51篇)はハミルトンによって執筆された。新国家の統治体制を巡るこれら格調の高い文章は、いまも政治学の最良のテキストと呼ばれることがある。欧州との政治・経済面での厳しい競争に伍すためには、強い共和制の国家によって自由と財産が保証されねばならないこと、そのための盤石の財政基盤をいかに築き上げるのかが重要な論点となった。例えば権力の集中ではなく分散を論じつつ、ハミルトンが、モンテスキュー『法の精神』の読み方について、確信に満ちた論を展開している点は現代のわれわれがいま読んでも新鮮である(第9篇)。 この一篇ひとつからも、ハミルトンが政治の実践の場に身を置く偉大な思想家であったことを知ることが出来る。ハミルトンとマディソンは、「連合規約(Articles of Confederation)」の脆弱さ、そして「連合体制」がもたらしかねない無政府状態の危険についても、『ザ・フェデラリスト』で鋭く指摘している(特にハミルトンの筆になる第15篇と第16篇)。 ちなみにマディソンは、古代ギリシャ、ネーデルランド、ドイツ、ポーランド、スイスなどの連邦制の歴史事例を吟味している。『ザ・フェデラリスト』の内容と合衆国憲法との関係は、同訳書『ザ・フェデラリスト』の本文だけではなく、その「はしがき」(齋藤眞)と詳細な解説(武則忠見)から学ぶところは多い。

『報告書』誕生の背景

 米国では関税をめぐる論争が建国以来絶えることなく間歇的に起きている。1789年7月4日に成立した最初の「関税法」は、関税が消費者の立場や、貿易収支の黒字拡大追求の目的から生まれたものではない。欧州の強い工業国家と競争して行けるような経済強国を建設するためだけでなく、新しい国家アメリカが独立戦争まで乱発してきた公債の償還への財源調達のために打ち出された政策であった。単なる「幼稚産業(infant industry)保護論」として論究された経済学的思考から生み出されたものでもない。概して経済理論あるいは社会思想は、その論理が単純化され、極めて図式的に捉えられ、二分法で分類されて普及しその是非が論じられることが多い。

 理論と実践には隔たりがあることを示す面白いエピソードがある。カール・マルクス(1818-1883)が義理の息子のラファルグ(Paul Lafargue 1842-1911)から、フランスのマルキストたちの行状を知らされ、自分の学説が誤解や曲解と共に流布していることを知り、私はマルキストではない(Je ne suis pas marxiste)と言ったと伝えられている。思想は、伝播と普及の過程において平板に図式化され、通俗化される運命は避けられない。そうした俗流化された思想の伝染を避けるためには、思想や学説の原典そのものを読む必要がある。

 ではハミルトンをして、高率関税による国内産業を護るナショナリストとしての印象を強める原因となった『報告書』(1791)はいかなる文書なのか。これは、同書の冒頭に記されているように、「合衆国が軍需品およびその他の必需品を外国に依存せずに済むようになるためには如何なる製造業促進手段を必要としているかについて検討」するように1790年1月15日の連邦議会下院からハミルトンに要請され、財務長官として、ほぼ2年の歳月を費やして纏め、1791年12月5日に下院に伝達した報告書である。同書については、詳細な訳注と解説、年譜の付いた田島恵児・濱文章・松野尾裕の三氏による邦訳が出版されている。

 本篇は第1部・理論篇、第2部・政策篇、第3部・政策提案編の3部に分かれている。第1部は、米国内において製造業を奨励することに対する反対論の論理の解明に充てられている。主に、農業のみが「生産的」であるとする重農主義的な経済理論を論破し、製造業が一社会の収入を増大させうる理由を列挙する。この辺りの議論はアダム・スミス『国富論』を祖述しているように見えるが、単なる「分業と協業」による生産力の増大論だけでないことに注目したい。機械使用による雇用機会の増大、外国からの移民の促進、人間の才能の多様性を発揮する機会や企業活動の機会の増加など、ハミルトンの指摘は経済的自由主義を貫く精神に満ちている。

  さらに製造業の奨励に対する批判論のなかにあった、米国の現状では妥当性を欠くとする消極的な反対論をも論破している。労働力が不足していること、労働力が高価なこと、資本が不足していることなどは、ヨーロッパにおける農業と製造業の同時的な展開がもたらした工業化の発展例であること、米国がヨーロッパと距離的に離れていることの優位性、さらにはヨーロッパの政治的な混乱が米国にもたらす利点についても言及している。

新国家米国の工業の実態

 『報告書』には、2年近い歳月をかけた実態調査をベースに、経済史的にも興味深い事例が品目ごとに第3部で具体的に書き出されている。実際、18世紀末の米国は産業面で欧州諸国に大きな遅れを取っていた。米国の工業生産がヨーロッパ主要国の工業産出高の総計にほぼ追いついたのは、第1次大戦がはじまる少し前であったことは念頭に置く必要がある。ハミルトンが財務長官の職にあった時期(1789年9月―1795年1月)は、米国が欧州の工業国家にようやく追いつく100年以上の前の時代であった。当時の米国は絵に描いたような農業国家であり、製造業の確たる産業基盤は無きに等しかったと言ってもよい。そして米国のマクロ経済全体に関する包括的な統計数字はまだほとんど存在しない時代であり、断片的な、あるいはエピソードめいた資料や数字から、全体を推測するよりほかはない状況であった。

 『報告書』によると、国民の衣服の7割から8割は家庭内で製造されていた。(邦訳 64頁) 紡錘を動かすための水力の機械もなく、都市の職人たちが靴や帽子、台所用品などほとんどすべてを手と工具で作っていた時代であった。昔読んだアメリカ経済史の教科書に次のように書かれていたことが印象に残っている。「もし米国の工業生産の成長速度が、19世紀ヨーロッパ諸国と同じテンポであったなら、20世紀初頭の米国の工業生産はヨーロッパ全体のたかだか28%程度に過ぎなかったであろう」(Hughes, p.136)ことほど左様に、米国は文字通りの農業国家であった。

 しかし20世紀初頭の現実の米国経済の力を数字で見ると、19世紀に米国が示した工業国家としての躍進は驚くほど急速かつ広範囲の分野で進行したことが分かる。例えば同じHughesの教科書では、実際の米国経済の工業化は1913年時点で、粗鋼は約3200メトリック・トン(西ヨーロッパ全体で3500メトリック・トン)、石炭は米国が約5億メトリック・トン(西ヨーロッパ全体でほぼ同量) 、石油に関しては、1913年時点で全世界産出量の半分以上、銅、鉛に関しても米国の工業国家としての急成長は、同じようなペースであったことが示されている。

 成長の要因として、ヨーロッパからの大量の移民の流入が挙げられよう。かつて筆者が調べたところでは、ドイツ語圏だけに限っても、ナポレオン戦争の終結から第1次大戦の勃発までの100年間で優に600万人を超える移民が米国に流入している(Inoki(1981))。加えて国内における活発な人口移動、米国人が示した実験精神による農業や繊維産業における技術革新、水陸双方における運輸・交通手段の開拓・開発など、様々な要因が挙げられる。こうした工業化の背景には、ハミルトンが述べたように製造業における適度な保護関税とフランス革命後のヨーロッパの政治的混乱が、米国の国内製造業を護るうえでプラスに作用したと推測できる。

 関税は消費者にとって高価格をもたらすゆえプラスにはならない。その点では、消費者は皆、自由貿易論者となっても不思議ではない。では関税で利益を得たのは誰だったのか。まずは連邦政府の歳入に大いに貢献したことはすでに述べた通りである。米国内で競争財を生産する企業とそこで働く従業員が利益と高賃金を享受したことも容易に想像できる。スミスが論じたように、保護関税によって、国内の同種の財を生産する競争企業、及びその産業へ大量の投資資金が流れたことも確かであろう。

 ちなみに、そもそも保護貿易がいつもマイナスの効果を経済にもたらすとは限らないと論ずる実証的な経済史研究にも注目すべきであろう。Paul Bairoch, Economics and World History

Myths and Paradoxes, (The University of Chicago Press 1993 )の第4章は、この興味深い現象を、1846年以降の英国の貿易量と経済発展の関係を統計に基づいて分析している。貿易量は自国だけでなく相手国の経済状況にも依存する。保護主義がGNPや物価、そして貿易量にどのような影響を与えるかに関して一般化することは難しい。近年のトランプ関税が、米国の対中貿易の赤字拡大を招いた例を挙げるまでもなく、貿易収支の赤字改善のために保護関税をかけても、貿易赤字が逆に拡大することもある。

経済学における幼稚産業保護論

 国際競争力がない国内産業を「幼稚産業」として、(将来発展の可能性が認められれば)国際競争の荒波から一時的に隔離して、外国との競争に伍してゆけるだけの体力がつくまで保護しようとする政策を採るのは珍しいことではない。外国との競争から護るために、政府が関税や輸入制限を課すことは説得力を持ちうる。外国の企業がすでに「規模の経済」によって低コスト大量生産の局面に入っている場合、未成熟な国内産業は太刀打ちできない。そうした例を見つけるのは難しいことではない。

 戦後日本の自動車産業が、関税と輸入の数量制限に護られつつ、遂には世界の自動車生産大国に躍り出たことは身近な歴史事例であろう。太平洋戦争によって、日本は乗用車生産の技術面で海外に大きく水を開けられた。戦後その遅れを理由に、日本国内で乗用車生産に資源を投入することは、「国際分業」の観点から見て合理的ではない、との意見が理論家や政治家の間から出ていた。「自動車は米国から輸入すればよい」という、将来の自国の技術力を過小評価する素朴な考えである。こうした「悲観的な見通し」が支配的であった中、当時の日本の通商産業省(現・経済産業省)は、自動車工業が国民生活の向上に資するだけでなく、将来の輸出の振興にも寄与すること、雇用吸収力が強いだけでなく技術面での波及効果も大きいことに注目して、乗用車生産を国内に確立する方針を明確に打ち出した。(御厨・中村編『聞き書 宮澤喜一回顧録』p. 228)

 輸入に頼って外貨を失うよりも、その分を投資に振り向け、国内の生産体制を確立する方が長期的には賢明だと見たのである。そのために、外資との技術提携を進め、内外の技術ギャップを埋めることが先決と判断、通産省は1952年6月、「乗用車関係外資導入に関する基本方針」を打ち出した。この判断には自国の技術力に対する信頼に賭ける姿勢が窺える。

 ひとつ重要なことは、保護の方法自体が単に輸入数量や外貨の流失を制限し、高い関税を課せば目的が達成できるという単純な方策ではなかった点だ。将来へのポジティブな見通しは、日本の自動車産業の保護と技術育成には、様々な知恵が注がれるという期待を表すものであった。通産省の「基本方針」が、ヨーロッパの小型車の量産技術の導入を目的にしていた点にも注目すべきであろう。そこにはアメリカの自動車企業の直接的な支配を避けたいという考え、あるいは日本の道路事情やガソリンの燃費効率などの条件を考慮した、賢明かつ楽観的な見通しがあった。

 こうした歴史事例は何を意味するのか。「自由貿易論」と「保護貿易主義」の優劣を理論的に比較して政策を選択・決定するというアカデミック(机上の空論的、非実用的)な姿勢ではなく、内外の自動車市場の状況を調べ、そこから希望的観測も含めて、いかなる政策を設計するかという現実的な姿勢の重要性であろう。戦後の日産を立て直すのに大きな貢献をしたと言われる川又克二社長(当時)は、「国民車と言っても、国内の需要を待っているだけじゃあ売れませんからな。まず輸出に向けて、市場も広い海外へどんどん出す、性能もよくしてあるから、売れる、大量生産に移す、コストも安くなる、値が下がる、それで初めて国内の需要ものびてくるわけですよ」(『朝日新聞』昭和34年8月7日)と語っている。この発言には楽観的な実践知が見事に集約されている。

「国家の将来」を見通す政治家

 ハミルトンの『報告書』からは、単なる保護貿易主義者とはみなし得ない実践的な姿勢が読み取れる。彼は、米国の農産物は偶発的で不安定な外国の需要に曝され続け、製造業の国(特に英国)と対等な条件で交易すれば、米国の富は流出してしまうだけだと考えている。従って米国の製造業を振興することなしに、自由貿易だけに頼っていると米国はいつまでたっても農業国のままで終わる。だからこそ米国には輸入関税と輸出奨励金が必要なのだと論じ、製造業のためのインフラとしての道路や運河の建設の必要性を説いた。

 自由貿易か保護主義かの論争は、論理的な思考の枠組みを提供してくれるものの、その「正誤」は論理の世界においてのみ意味を持つ。理論知は実践知(あるいは経験知)とは無関係ではないにしても、直面する課題の対応策としては思考の次元を異にする。

 現代の経済発展論は、現実の事例や経験を多く蓄積するようになった。議論はどのような場合、輸出を振興することによって経済発展を遂げられるのか、あるいはどのような条件の下で、輸入に頼らず、輸入代替品を国内で生産することによって経済発展を遂げることが出来るのか、という問題へと関心が深まっている。そして輸出志向(export-oriented)型の工業化戦略が検討されることも多くなっている。その理由は、経験的に見ると、そして歴史が示すところでは、保護関税は、細々とした通商政策面での計画を必要とするだけでなく、国内市場が十分に競争的な場合にのみ、輸入代替(import substitution)戦略が功を奏することが知られるようになってきた。こうした歴史的・具体的な経験から考えると、先にも述べた日産の川又社長の発言は、その実践知のひとつを具体的に示すものであろう。まず海外市場で強みを発揮できる小型乗用車で輸出を伸ばし、国内で大量生産が可能なシステムを創りあげる。それは低コストで上質な機能を持つ車を大量生産する、それによって国内の需要の増大を喚起することを意味する。輸出志向と輸入代替を組み合わせた工業化戦略の智恵が読み取れる。

 幼稚産業保護論に基づく関税政策には成功例も失敗例も生まれうる。いかなる状況にも妥当する「唯一の一般解」が存在するわけではない。加えて、保護主義政策には、自国にとって将来的に比較優位性を持つ産業を選び出すという難しい判断が必要になる。どの産業が保護に値するのかは、譬えて言えば、多くの「幼児(infant)」の中から誰が将来、いかなる才能を発揮するのか、誰に奨学金を与えるのかを判断するのと同じ程度の、あるいはそれ以上の難しさを伴うのだ。

実践知に満ちた政策の書

  ハミルトンの『報告書』は、同書第3部の政策提案篇で「奨励すべき対象の選択基準」について、鉄、銅から書籍、精糖およびチョコレートに至るまで、品目ごとの丹念な実態調査に基づき、簡にして要を得たコメントを加えている。実態を踏まえた上で、「奨励を実現するためのとられるべき手段」として、保護関税、禁止的(prohibitive)関税、製造業原料の輸出禁止、奨励金、褒賞金、製造業原料の関税免除、国内での新発見・発明の奨励など、細やかに論じ、製造業の保護と奨励のための適度な関税と、その関税収入を財源とする奨励金と褒賞金を提案している。ともすれば現代の政策論議が現実や現場から遊離した理論だけの煩瑣哲学に陥りがちなことに、改めて気付かされる。

 こうした感慨は、『報告書』の訳者解説の次の言葉に要約されている。引用しておきたい。

 「十九世紀に入ると、製造業を先進工業国イギリスの攻勢から保護する必要性に新しく直面した連邦議会および保護主義論者は、この報告書の優れた理論的構成のゆえに、これを保護主義政策論の権威ある典拠として採用した。しかし、この時から、この報告書は、その固有の歴史的文脈から切り離されて取り扱われるようになり、またこの報告書で提案されたのが高率保護関税ではなく、適度の関税と奨励金であったという事実も次第に忘れ去られていった。

 この傾向は、アメリカの学界でも同様で、ハミルトンはあたかも高率保護関税を提唱したアメリカ産業資本の代弁者であり、この保護主義が「ハミルトン体制」の核心であるといういわば転倒した評価が主張されるに至った。」(邦訳 184頁)

 先に述べたように、ある思想や学説が、定型的な形で単純化され、広く普及することによって多くの人々の口の端にのぼるものの、その考えが元来持っていた深さと力強さが衰弱するという現象は珍しくはない。将来激化すると見通していた英国との競争・対立の関係というコンテキストを離れたところで、『報告書』は独り歩きするようになり、ハミルトンの実践知に満ちた政治的・経済的判断はステロタイプな(紋切り型の)ドグマとなり衰弱して行ったと言えよう。

金融システムの整備―通貨制度と中央銀行

 ハミルトンが後世の歴史家から「天才」と呼ばれることがあるのは、経験重視の現実的かつバランスのとれた貿易政策論の提言者としてだけではない。建国の過程で、連邦レベル・州レベルで発行されて来た「公債」を償還しつつ財政基盤を確保すること、国家主権にとって最重要課題のひとつである通貨制度と金融システムを設計した人物であったことにもよる。

 米国は植民地時代の慣習がそのまま継続し、1790年以降も、多種多様な通貨と紙幣が流通していた。流通するほとんどの硬貨はスペイン通貨(peso)であり、紙幣も、発券銀行によって印刷・発行されたものではなく、私的に振り出された約束手形のようなものが多かった。そうした状況下では、銀行業務が健全に機能するためには、統一的な通貨・信用制度のインフラを整備するという最重要課題の解決が不可欠であった。

 独立戦争中に戦費調達のために大量の紙幣が印刷されたが、それらは瞬く間に減価し、ドルの対外価値を著しく低下させていた。諸州は借り入れと紙幣発行に奔走することを余儀なくされ、議会は「北米銀行」(有限会社)を設立して中央銀行に近い業務を担うという設計を打ち出した。1789年の新憲法によって連邦政府が樹立され、徴税権、公債発行権、通貨発行権、および通貨価値を制御する権限を持つこと、が明確に規定された。そうした状況下で、通貨と金融のシステムを現実的な形でデザインしたのがハミルトンである。

 彼は、議会が休会に入る前の1789年9月、翌年1月までに公債の状況改善のための提言をまとめるよう指示される。既に公債の処理こそが米国にとって真の「独立」をもたらす重要なステップだと考えていたハミルトンは、ヒュームやモンテスキューなど英仏の政治経済の思想書を読み、公債処理に関する方法を、『公信用に関する報告書』(1790)としてまとめ、議会に提出した。連邦政府の収入源としての関税をはじめとする課税制度、戦争中に「大陸会議」が発行した債券の償還、諸邦の戦時債を連邦政府が肩代わりすること、中央銀行の設立、新たに鋳造される硬貨に基礎を持つ国民通貨の創出など、連邦国家アメリカにとっての乾坤一擲の事業に成功への道筋をつけることが出来た。

 ウィスキーへの課税によって「ウィスキー一揆」(1794年)が起こり民兵の出動で鎮圧するなど、その道は必ずしも平坦ではなかったものの、減債基金(負債償却積立金)によってほぼ40年の歳月をかける返済計画を策定する。この償還プランは政敵からは酷評された。しかし「州」の負債を「連邦政府」が返済するという構想は、「州」が持ち得たであろう「通貨発行権」を連邦政府が無力化することを可能にした。連邦レベルでの公債と州レベルでの公債を分け、さらに連邦レベルの公債を内国債と外国債に分けて考えるという整理は、連邦政府のみが単一(共通)通貨を発行する権限を持ちうる素地を準備し、後の「連邦準備銀行(Federal Reserve Bank)」(1913年設立)という地域中央銀行システムの礎石となった。

 ハミルトンの金融システム構想のすべてがそのまま残ったわけではない。金銀複本位制が生む通貨価値の不安定性など、実践面での不便さが生まれ、中央銀行構想がそのあと順調な道を辿ったわけでもない。しかし米国における統一的な通貨制度を設計する着想は、米国の工業化を伴う経済発展にとって不可欠な条件を整えた。それは米国が、公用語の選択において「言語による統一」を目指す上で、英語という言語にこだわり続けた問題と類比的な性格のものであろう。

 ハミルトンが連邦議会に提出した報告書は、ここで取り上げたもの以外にも、『未占有地に関する報告書』(1790)、『蒸留酒税に関する報告書』(1790)、『国立銀行(National Bank)に関する報告書』(1790)、『貨幣鋳造所(Mint)設立に関する報告書』(1791)、などが挙げられる。ワシントン大統領に送られた『銀行設立法の合憲性に関する所見』(1791)は、合衆国憲法における連邦政府の「含意された権力(implied powers)」に基づいて、合衆国レベルで展開する銀行の合憲性を支持し、憲法の拡張解釈を可能にした貢献も大きい。連邦の財政権限を円滑に進めるために必要不可欠な措置であった。合衆国という新国家建設にとって枢要の問題に対し、明確な方向付けを行なったハミルトンが「建国の父」と呼ばれるのはまことに相応しい。

劇的な最期

  先に触れた英国の歴史家、自由主義思想家ロード・アクトン(アクトン卿)は、“Political Causes of the American Revolution“, や ”The History of Freedom in Antiquity“, などの論考で、ハミルトンへの深い敬意を示し、彼の思想が19世紀の欧米の自由主義思想に多大な影響を与えたことを指摘している。筆者は、アクトンが「自由」を権利としてではなく、道徳的な義務を果たすために保証されるべき「良心の保護」、と見ていた点に強い感動を覚えたことがある。自由を「したいことを行うのではなく、すべきことを行う」ために設けられる制度と捉えるのだ。自由とは何かを、道徳と自由の関係の中で考えるためには重要な指摘であろう。

 そのアクトン卿は、近代デモクラシーの理論書であり予言の書と目される『アメリカのデモクラシー』を著したフランスのアレクシ・ドゥ・トクヴィル(Alexis de Tocqueville 1805-1859)も、自由主義国家米国をデザインした政治家としてハミルトンから多くを学んでいると述べている。

 アクトン卿の「権力は腐敗する傾向にある。絶対的権力は絶対腐敗する」という言葉はよく知られているが、そのあとに続く「偉大な人間はほとんど常に悪人である」(Great men are almost always bad men)はあまり知られていない。「悪人」が何を意味するのかは措くとして、ハミルトンの晩年が、世間的な幸福観からすると決して平穏なものではなかったことは事実である。ハミルトンは、不倫に端を発して恐喝されるというスキャンダル事件に巻き込まれる。政治的名声が傷つき、紆余曲折を経たあと、1804年、政敵であったアーロン・バー(Aaron Burr Jr. 1756-1836)との決闘による銃創で49歳の生涯を閉じている。ちなみにバーは、ジェファーソン第3代大統領の下での副大統領を務めた政治家である。

 

*次回は、7月13日月曜日に更新の予定です

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
 「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
 どうして自分が「考える人」なんだろう―。
 手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
 それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

猪木武徳

いのきたけのり 1945年、滋賀県生まれ。経済学者。大阪大学名誉教授。元日本経済学会会長。京都大学経済学部卒業、マサチューセッツ工科大学大学院修了。大阪大学経済学部教授、国際日本文化研究センター所長、青山学院大学特任教授等を歴任。主な著書に、『経済思想』『自由と秩序』『戦後世界経済史』『経済学に何ができるか』『自由の思想史』『社会思想としてのクラシック音楽』など。

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