シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
知の楽しみにあふれたWebマガジン。
 
 

ニューロダイバーシティ

2026年10月19日 ニューロダイバーシティ

6.相貌失認――顔を見分けるのが苦手

著者: 池谷裕二

「右と左が瞬時にわからない」「人の顔を覚えるのが難しい」など、「周囲が当たり前にできていることを、なぜ自分だけができないのか」――そんな悩みを抱えている人は少なくないのではないでしょうか。近年、このような認知特性は「ニューロダイバーシティ(neurodiversity)」と捉えられ、その原因や特徴などについての研究が世界中で進んでいます。これまでも著作を通して、「普通とは何か」を問い続けてきた脳研究者の池谷裕二さんが、最新の動向を紹介しながら、驚くべき脳の多様性に迫ります。

見えているけど判別できない

 空港の到着ロビーでの出来事です。長期出張から帰ってきた女性を、出迎えの人々が待っています。その中には、30年連れ添った夫もいました。夫は彼女を見つけて微笑み、手を振ります。しかし、彼女は夫の前を素通りしてしまいました。夫を嫌っていたからでも、ぼんやりしていたからでもありません。空港という「いつもと違う場所」にいる夫の顔が、見知らぬ人の顔に見えたのです。
 
 この話を聞いて、「そんなことがあり得るのか」と思われたかもしれません。しかし、これは奇妙なエピソードではありません。この女性には、顔を見て「誰であるか」を認識する脳の働きに、一般的な人とは異なる特徴があるのです。このように、顔を手がかりに相手が誰かを見分けることが著しく難しい状態を、「相貌失認(そうぼうしつにん)」と呼びます。
 
 まず、よくある誤解を解いておきましょう。相貌失認の人には、他者の顔が「のっぺらぼう」に見えたり、モザイクがかかって見えたりするわけではありません。視力は正常で、目や鼻の形、唇の色もはっきり見えています。また、相手が笑っているのか怒っているのかといった表情の読み取りにも、多くの場合、問題はありません。もちろん相手への気持ちが薄いわけでも、注意が足りないわけでもありません。

 では、何が異なるのでしょうか。目や鼻、口などの個々の特徴を一つの顔として統合し、その顔を特定の人物と結びつける過程に困難が生じるのです。
 
 この感覚は、なかなか想像しにくいかもしれません。たとえば、たくさんの「手」だけがずらりと並んでいる光景を想像してみてください。手の形ははっきりと見えており、指の長さや手のしわまでも分かります。しかし、「この手は誰のものか」と尋ねられたとき、よほど特徴的な傷や指輪でもない限り、見分けることは難しいはずです。相貌失認のある人が「顔」から相手を見分ける難しさは、こうした感覚に喩えられるかもしれません。

 この喩えからもわかるように、顔の認識には、手や足など、ほかの体のパーツとは異なる、特別な専用検知回路があることが窺えます。実際、脳には、顔を見ると強く働く複数の領域があります。その代表が、脳の下面にある「紡錘状回顔領域(ぼうすいじょうかいかおりょういき)」で、英語の略称でFFAと呼ばれます。
 
 私たちが誰かの顔を見たとき、まずは後頭葉の「後頭顔領域(こうとうかおりょういき)」が目や鼻、口などの各パーツを個別に分析します。これと同時に、「上側頭溝後部(じょうそくとうこうこうぶ)」が表情や視線の動きといった動的情報を処理しています。そして、それぞれのルートで処理されたすべての情報を、最終的にFFAが一つの「全体的なまとまり」へと統合するのです。このように、目や鼻をばらばらのパーツとして分析するのでなく、まとめて一つの「顔」として捉える働きは「全体的処理」と呼ばれます。

 脳の活動を画像で調べるfMRIという方法で、発達性相貌失認のある7人を調べた研究があります。FFAは顔に反応していましたが、顔のパーツの配置に応じた活動パターンの違いが、比較対象の人たちほど明瞭ではありませんでした。カメラの性能(網膜や視覚野)ではなく、撮影した画像を統合して記憶と照合するソフトウェア(FFA)のアルゴリズムが異なっている、と考えるとわかりやすいかもしれません。

 さらに、脳の後方と側頭葉の前方を結ぶ神経線維の束に、「下縦束(かじゅうそく)」があります。相貌失認のある人の一部では、この連絡路の構造に違いが報告されています。こうしたことから、顔情報を処理する経路が異なるために、顔を「顔専用の高速処理ルート」ではなく、通常の「物体認識の汎用ルート」を使って、処理していると考えられるのです。

自覚しづらい認知特性

 では、この特性はどのくらいの割合で見られるのでしょうか。2023年にハーバード大学のデ・ギュティス博士らが3000人以上の一般成人を対象に行った大規模調査は、この分野の理解を大きく変えました。明らかになったのは、顔認識能力は「正常か異常か」の二者択一ではなく、身長や走る速さと同じような連続的なグラデーションの上にあるということです。日常に深刻な困難を抱える重度の特性を持つ人から、場所が変わると知人がわからなくなる軽度の人まで、その程度は幅広く連続的です。したがって、この特性を持つ割合の推定は診断基準の設定に大きく左右されますが、厳格な基準で約0.9パーセント、より包括的な基準では約3パーセントにのぼります。学校の1クラスに1人はいるかもしれないという確率になります。

 ちなみにこのグラデーションの反対の端には、一度すれ違っただけの人の顔を何年も忘れない「スーパーレコグナイザー」と呼ばれる人がいます。かつて私の研究室にも、スーパーレコグナイザーと思われる学生が所属していました。彼女は一度会った人の顔を忘れないと言います。「先日、幼稚園の同級生に20年ぶりに街でばったりと出会ったので、思い切って声をかけたら相手がびっくりしていました」と笑いながら話してくれました。顔認識一つとっても、脳の多様性は驚くほど幅広いのです。

 相貌失認には遺伝的要因の関与も示唆されています。同じ家族の複数人に相貌失認が見られることは珍しくありませんし、一卵性双生児の二人ともに認められたりする例が報告されています。ただし遺伝パターンの全容はまだ解明途上であり、環境要因の関与も否定できないため、今後さらなる研究が必要です。
 
 興味深いことに、当事者の多くは「自分が多数派と異なる世界を見ている」ことに長い間気づきません。幼い頃からそのように暮らしていると、他の人との違いに気づきにくいのです。私がインターネットで見つけたある女性の記事には、40歳を前に自分の顔認識の難しさを自覚したとありました。その後、アニメ『薬屋のひとりごと』をきっかけに、初めて夫にそのことを伝えたとつづっています。

 子どもの例も報告されています。ダートマス大学のカーステン・ダルリンプル博士らが記述したマディソンという女の子は、1歳半の頃から見知らぬ人にまったく人見知りせず、幼稚園のお迎えでは母親の車と色が似た車に乗る見知らぬ大人のところに駆け寄ることを繰り返しました。相手の目を見て話すことができたこともあり、両親は何年も理由がわからなかったのですが、「相貌失認」という言葉に出会って、すべてが腑に落ちたそうです。

 日常生活では、さまざまな行き違いが起こります。映画やドラマでは登場人物が髪型を変えると誰が誰だか追えなくなります。同じような服装の男性が多数出るマフィア映画は極めて鑑賞が難しくなります。ある学校では、別々のクラスで仲良くなった二人が実は双子だったことに翌年まで気づかなかった高校生もいます。それまで、髪型やメガネで人を識別することが習慣づいていたていたため、顔の構造を比較するという発想自体がなかったのです。

「顔を見ればわかる」は当たり前じゃない

 多くの当事者が、この困難を「努力不足」「他人に興味がない」と思い込み、深く傷ついてきました。頭の中で大切な人の顔を思い浮かべようとしても、目や鼻の断片が浮かぶだけで全体像は消えてしまう。そんな中、自分の相貌失認に気づいたとき、「自分はおかしくなかった。脳の配線が違っていただけなのだ」と理解し、自分を責める気持ちが和らぐ人もいます。

 しかし、彼らの「生きづらさ」の多くは、能力ではなく、環境の問題です。社会が「人の顔は誰でも簡単に見分けられる」という前提で設計されていることによる摩擦なのです。よく見られるのが「無視された」という誤解で、職場の廊下で知人とすれ違っても認識できず、笑顔を向けられても戸惑って目を逸らしてしまい、「冷たい人だ」とレッテルを貼られます。クラスの席替えは、席の位置を手がかりに人を識別していた当事者にとって恐怖のシステムです。制服やユニフォームは、顔以外の識別手がかりを奪います。

 こうした困難は、当人に大きな精神的な負担をもたらします。先述したハーバード大学のデ・ギュティス博士らが、調査した発達性相貌失認の88人のうち、なんと44パーセントもが、過度な「引込み思案」など、臨床的な社会障害が疑われる水準に達していました。こうした困難の多くは、個人が生まれ持った性格の問題ではなく、この世の中が特定の認知特性に対応できていないことによる社会構造的な問題です。

 会議やイベントで読みやすい名札を着用する。チャットでは、名前と所属を見やすく表示する。座席が自由な職場でも、部署ごとの場所をある程度決めておく。そして、顔見知りでも、声をかけるときに自分から名乗る。こうした工夫は、相手が誰かを確かめる負担を減らします。加えて、視覚障害のある人など、他の困難を抱える人にも役立つ、幅広い人に使いやすい工夫です。

 相貌失認は「治す」べき疾患ではなく、生涯付き合う脳の特性です。実際、当事者の多くは「顔に頼らない認証システム」を工夫しています。声のトーン、歩き方、服装、メガネ、香水など複数の感覚情報を組み合わせて人を記憶しています。会話中の手がかりから消去法で相手を特定する推論テクニックを駆使する人もいます。こうした当事者の血の滲むような努力が功を奏すと、その特性がカモフラージュされるため、かえって相手に特性の本質に気づいてもらえないこともあります。

 大切なのは「人の顔と名前を一度で覚えられる」ことを、誰もができる、当たり前の認知機能だと思わないことです。挨拶が返ってこなかったとき、「嫌われた」と即断するのではなく「気づかなかっただけかもしれない」と想像してみること。その一歩が、誰かの孤立を防ぐための、大切な配慮になります。

 相貌失認という窓を通して見えてくるのは、「顔を見れば誰かわかる」という何気ない行為を、脳の複雑な働きが支えていることです。その働きには、大きな個人差があります。顔から相手を見分けにくいことと、その人を大切に思う気持ちは、別のことなのです。

 

【参考文献】
・Adams, A., Hills, P. J., Bennetts, R. J., & Bate, S. (2020). Coping strategies for developmental prosopagnosia. Neuropsychological Rehabilitation, 30(10), 1996–2015.
・Avidan, G., Tanzer, M., & Behrmann, M. (2011). Impaired holistic processing in congenital prosopagnosia. Neuropsychologia, 49(9), 2541–2552.
・Bate, S., Murray, E., & Bennetts, R. J. (2024). Familial transmission of developmental prosopagnosia: New case reports from an extended family and identical twins. Brain Sciences, 14(1), 49.
・Corrow, S. L., Dalrymple, K. A., & Barton, J. J. S. (2016). Prosopagnosia: Current perspectives. Eye and Brain, 8, 165–175.
・Dalrymple, K. A., Corrow, S., Yonas, A., & Duchaine, B. (2012). Developmental prosopagnosia in childhood. Cognitive Neuropsychology, 29(5–6), 393–418.
・DeGutis, J., Bahierathan, K., Barahona, K., Lee, E., Evans, T. C., Shin, H. M., Mishra, M., Likitlersuang, J., & Wilmer, J. B. (2023). What is the prevalence of developmental prosopagnosia? An empirical assessment of different diagnostic cutoffs. Cortex, 161, 51–64.
・Duchaine, B., Germine, L., & Nakayama, K. (2007). Family resemblance: Ten family members with prosopagnosia and within-class object agnosia. Cognitive Neuropsychology, 24(4), 419–430.
・Haxby, J. V., Hoffman, E. A., & Gobbini, M. I. (2000). The distributed human neural system for face perception. Trends in Cognitive Sciences, 4(6), 223–233.
・Herbet, G., Zemmoura, I., & Duffau, H. (2018). Functional anatomy of the inferior longitudinal fasciculus: From historical reports to current hypotheses. Frontiers in Neuroanatomy, 12, 77.
・Kanwisher, N., McDermott, J., & Chun, M. M. (1997). The fusiform face area: A module in human extrastriate cortex specialized for face perception. Journal of Neuroscience, 17(11), 4302–4311.
・Kirsch, L., Evans, T. C., Fry, R., Campbell, A., & DeGutis, J. (2025). Social interaction anxiety in developmental prosopagnosia: Prevalence, severity, and individual differences. Archives of Clinical Neuropsychology, 40(3), 409–424.
・Rossion, B. (2013). The composite face illusion: A whole window into our understanding of holistic face perception. Visual Cognition, 21(2), 139–253.
・Russell, R., Duchaine, B., & Nakayama, K. (2009). Super-recognizers: People with extraordinary face recognition ability. Psychonomic Bulletin & Review, 16(2), 252–257.
・Susilo, T., & Duchaine, B. (2013). Advances in developmental prosopagnosia research. Current Opinion in Neurobiology, 23(3), 423–429.
・Thomas, C., Avidan, G., Humphreys, K., Jung, K.-J., Gao, F., & Behrmann, M. (2009). Reduced structural connectivity in ventral visual cortex in congenital prosopagnosia. Nature Neuroscience, 12(1), 29–31.
・Wilmer, J. B., Germine, L., Chabris, C. F., Chatterjee, G., Williams, M., Loken, E., Nakayama, K., & Duchaine, B. (2010). Human face recognition ability is specific and highly heritable. Proceedings of the National Academy of Sciences, 107(11), 5238–5241.
・Yardley, L., McDermott, L., Pisarski, S., Duchaine, B., & Nakayama, K. (2008). Psychosocial consequences of developmental prosopagnosia: A problem of recognition. Journal of Psychosomatic Research, 65(5), 445–451.
・Zhang, J., Liu, J., & Xu, Y. (2015). Neural decoding reveals impaired face configural processing in the right fusiform face area of individuals with developmental prosopagnosia. Journal of Neuroscience, 35(4), 1539–1548.
・取材ライターstudioKOKS(koksamati)(2025). アラフォーでやっと気付いた「私、相貌失認だな……?」. note.

*次回は、11月16日月曜日更新の予定です。

池谷裕二『すごい科学論文 脳のふしぎ したたかな生物』

2026/10/19

科学の未来は、“論文”にあり。人気の脳研究者がおしえる、科学研究の最前線!

もっと科学の面白さを伝えたい――。世界中の科学者たちによる研究成果は、日々「論文」として発表され、私たちの未来の「知の土台」となっている。そんなすごい論文を「毎日100本以上チェックする」脳研究者が厳選。脳と腹筋の意外な関係やチンパンジーの仁義なき戦い、最先端のAI研究などをわかりやすく解説。ふしぎな脳のメカニズムから生物のしたたかな知恵まで、科学の醍醐味を知ることができる万能理系コラム!

amazonはこちら。

公式HPはこちら。

池谷裕二『すごい科学論文』

2025/04/17

科学の進歩は、“論文”にあり。人気の脳研究者がおしえる、科学研究の最前線!

「ネイチャー」や「サイエンス」といった世界的学術誌に掲載される最新の科学論文を、「毎日100本以上チェックする」という脳研究者が厳選。アルツハイマー治療、タコの利き足や母乳の意外な役割、幸福の条件など、その研究の「どこがすごいのか」「何が新しいのか」「どう役に立つのか」を丁寧に解説。長寿のヒントから最新AIまで、知的好奇心を刺激する万能理系コラム!

amazonはこちら。

公式HPはこちら。

この記事をシェアする

ランキング

MAIL MAGAZINE

「考える人」から生まれた本

もっとみる

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき
  •  

考える人とはとは

 はじめまして。2026年7月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、松本太郎と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただき、ありがとうございます。

 2002年7月4日、季刊誌「考える人」が創刊されました。

 目次には当代随一の執筆陣がずらりと並び、B5判240ページの誌面の隅々から知の香りが立ちのぼってくるかのようでした。

 当時、入社3か月の営業部員だった私は、見上げるような思いで手に取り、発売日には編集長の松家仁之さんと創刊のご挨拶のために書店にうかがいました。

 まだ書店訪問にも慣れておらず、編集長ともほぼ初対面の中、次のお店の約束の時間に間に合うだろうかと時計ばかりが気になって、終始、そわそわしていました。そんな私に松家さんがやわらかな笑顔で接してくれたこと、そして、新雑誌の門出を祝うようなすっきりと晴れた一日だったことを覚えています。

 あれから四半世紀が過ぎ、ウェブマガジンとして衣替えした今でも、創刊時に掲げられた「Plain living, high thinking(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という言葉は古びていません。AIに尋ねれば瞬時に答えが返ってくる時代だからこそ、それらしい言葉に飛びつくのではなく、自分の頭で考え、心の声に耳を澄ませることの大切さは増しているように感じます。

 創刊号には、養老孟司さんのロングインタビューが掲載されています。養老さんはその中で、恩師である中井準之助先生の口癖だった「人の心がわかる心を教養という」という言葉を紹介しています。

 読んだ瞬間に立ち止まり、さまざまな思いが湧き上がってくるような文章に、楽しみながら出会える場であり続けたいと思っています。

「考える人」編集長
松本太郎

著者プロフィール

池谷裕二

1970年、静岡県生まれ。薬学博士。東京大学薬学部教授。脳研究者。2024年、『夢を叶えるために脳はある』(講談社)で第23回小林秀雄賞を受賞。著書に『進化しすぎた脳』『単純な脳、複雑な「私」』(講談社ブルーバックス)、『パパは脳研究者 子どもを育てる脳科学』(扶桑社新書)、『すごい科学論文』(新潮新書)など。「ニューロダイバーシティアワード」の審査員も務める。


ランキング

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき

  • ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号第6091713号)です。ABJマークを掲示しているサービスの一覧はこちら