5.アファンタジア――頭にシーンが浮かばない
著者: 池谷裕二
「右と左が瞬時にわからない」「人の顔を覚えるのが難しい」など、「周囲が当たり前にできていることを、なぜ自分だけができないのか」――そんな悩みを抱えている人は少なくないのではないでしょうか。近年、このような認知特性は「ニューロダイバーシティ(neurodiversity)」と捉えられ、その原因や特徴などについての研究が世界中で進んでいます。これまでも著作を通して、「普通とは何か」を問い続けてきた脳研究者の池谷裕二さんが、最新の動向を紹介しながら、驚くべき脳の多様性に迫ります。
なぜ脳内で「リンゴ」が思い浮かばないのか?
目を閉じて、真っ赤なリンゴを思い浮かべてください。頭の中には今、何が見えていますか。光沢のある赤い皮、少し歪んだ自然な丸み、へたの周りのくぼみ。人によっては、甘酸っぱい香りや手のひらのひんやりとした重さまで感じるかもしれません。でも、どれほど集中しても、リンゴどころか何の映像も浮かんでこない。「真っ暗な闇しか見えない」という人が、あなたの周囲にいるかもしれません。
私たちは、自分の頭の中で体験している「見え方」が、すべての人間に共通するものだと信じてしまいがちです。しかし実際には、脳内の映像世界には驚くべき個人差が存在しています。目を閉じたとき何の映像も持たない人々を「アファンタジア」、逆に、現実の視覚に匹敵するほど鮮明な心的イメージを持つ人々を「ハイパーファンタジア」と呼びます。
この名前をつけたのは、エクセター大学のゼマン教授です。2003年、手術の後に「頭の中の映像が見えなくなった」と訴える患者が、彼の外来を訪れました。この症例を論文で報告すると、それを読んだ20人余りから、「自分は生まれつき同じ症状だ」という連絡が寄せられました。ゼマン教授らはその人々を調査し、2015年に「アファンタジア」という名称を提案しました。ギリシャ語の「ファンタシア(心の中の像)」に、否定の接頭辞をつけたものです。名前がついた瞬間、それまで自分の体験を言語化できなかった無数の人々が声を上げ始めたのです。
なぜ、これほど人によって異なる体験が生じるのでしょうか。私たちが何かを「心に思い浮かべる」とき、脳の前方にある前頭前野(意思決定や注意を司るセンター)から、後頭部の視覚野(ものを見るときに使う領域)へ向かって、信号が送られます。「リンゴの映像を再生せよ」という指令です。ゼマン教授らの研究では、アファンタジアの人の脳では、この前頭前野と視覚野をつなぐネットワークの機能的結合が標準的な人よりも弱いことが示されています。パソコンに喩えれば、データは保存されているのに、モニターへの接続ケーブルの帯域が極端に狭い状態です。逆に、映像が鮮明に浮かびすぎてしまう「ハイパーファンタジア」の人では、この接続が非常に強く、わずかな指令で視覚野が活性化すると考えられています。
ここで重要な点は、アファンタジアの人であっても、視覚野自体は正常に機能しているということです。その証拠に、睡眠中の夢では、鮮明な映像を見る人が多いと報告されています。スクリーンは壊れていない。しかし、自分の意志で映像を映そうとするときにだけ、指令系統に違いがある。そんな脳の配線の個性なのです。
この違いは身体にも生理的な影響を及ぼします。標準的な想像力を持つ人では、明るい物や暗い物を想像するだけで、瞳孔が実際の光刺激と同じように反応します。しかし、アファンタジアの人では、光を脳内にイメージしても、瞳孔が変化しません。恐ろしい物語を読んだときの皮膚電気反応でも、ハイパーファンタジアの人は強い恐怖反応を示しますが、アファンタジアの人は、あまり反応しません。脳内の映像は、瞳孔や発汗という身体の反応と密接に連動しているのです。
「アファンタジア」でも大丈夫な理由
視覚化の能力は、「ある」か「ない」かの二択ではありません。連続的なスペクトラムとして分布しています。9,000人以上の大規模な調査では、完全に映像を持たないアファンタジアが約0.9パーセント、ぼんやりしか見えない人を含めると約4.2パーセント、逆に、極めて鮮明なハイパーファンタジアは約6.1パーセントと推定されています。日本でも、一般成人を対象にした調査で、アファンタジアに該当する人が約3.7パーセントいることが報告されています。クラスに1人いる計算です。
なぜ、これほど多くいるのに、これまで気づかれなかったのでしょうか。答えは単純で、他人の頭の中を覗けないからです。当事者が自分の特性に気づく典型的なパターンは、「比喩だと思っていた表現が、みんなにとっては文字通りだった」と知る瞬間です。ほかならぬ著者である私がアファンタジアで、たとえば眠れない夜に「羊が1匹、羊が2匹……」と数える方法を、「言葉のリズムで脳を退屈させるおまじない」だと思っていました。ところが、友人から「柵を飛び越える羊の映像を頭の中で思い浮かべるんだよ」と聞いて、衝撃を受けたのです。
教育現場には、実は、気づきのチャンスは意外と多くあります。小学校の図工の時間や、夏休みの思い出を絵にする課題で、周囲がスラスラ描き始める中、ある子どもはまったく筆が進みません。今ここにいない人の顔を映像として出力することができないのです。すると、アファンタジアを知らない教師からは「やる気がない」と叱責されてしまう。
そろばんの暗算でも、かつては「頭の中にそろばんを浮かべて珠を弾きなさい」という指導は、当たり前のものでした。しかし、これは脳内映像を持たない子どもにとって不可能な要求です。映像の代わりに数字の羅列で処理しようとしますが、「自分は頭が悪い」と長年コンプレックスを抱くことも珍しくありません。
ただし誤解してはいけないのは、彼らの内面が空っぽなわけでは決してないということです。映像の代わりに、精緻な概念や事実、空間的な位置関係、あるいは言葉を紡ぐことで、世界を認識しています。実際、自己申告で集まった調査では、アファンタジアの人に、科学・数学系の職業が比較的多いという関連も報告されています。私自身もその一例のようです。
また、ピクサーの共同創業者エド・キャットムルはアファンタジアを公言していますが、3Dコンピュータグラフィックスの先駆者としてチューリング賞を受賞しています。さらに、ディズニーの伝説的アニメーター、グレン・キーンも当事者ですが、『リトル・マーメイド』のアリエルを生み出しました。映像を持たない脳が、世界最高峰の視覚的創造を成し遂げているのです。アファンタジアだからといって、アートの才能がないわけではないのです。
アファンタジアを理解する上で、もうひとつ重要なのが「記憶」のあり方です。多くの人は過去の思い出を、一人称の映像として「再体験」しますが、アファンタジアの人の中には、出来事の事実は正確に語れても、そのときの感情や情景を追体験できない人もいます。ある女性は自身の結婚式について「写真を見れば自分が笑っているのはわかる。でも、その場にいた実感が湧かない。他人の伝記を読んでいるようだ」と語っています。この特性は喪失感をもたらすこともありますが、過去への執着に囚われにくく、「今この瞬間」を生きることに長けているというポジティブな面も報告されています。実際、ホームシックにかかりにくいと主張する人もいます。
脳内が「超高画質シアター」
さて、スペクトラムの反対側に目を向けましょう。ハイパーファンタジアの人の頭の中は、いわばスイッチを切れない超高画質シアターです。ある女性は静かな部屋で、好きな映画を頭の中で最初から最後までフルカラーで再生して楽しんでいました。それが当たり前だと思っていたのに、初めて他人に話したところ驚かれたのです。
ハイパーファンタジアは視覚だけにとどまらないことが多く、人によっては、視覚だけでなく、聴覚、味覚、嗅覚、触覚などのイメージも鮮明です。料理好きのある男性は、スーパーで食材を手に取りながら「この豚肉にこのスパイスを合わせたらどうなるか」を脳内で文字通り「味わう」ことができます。小説を読めば、キャラクターの服の素材感や風の冷たさ、森の土の匂いまでリアルタイムで脳内に生成される。しかし、この能力は両刃の剣でもあります。目を閉じた途端にホラー映画の怪物がリアルな姿で出現して心拍数が跳ね上がる。過去の辛い記憶が本物と見分けがつかない解像度でフラッシュバックすることもあります。
実際、トラウマ映像を見せた実験では、ハイパーファンタジアの傾向が強い人ほど鮮明な侵害思考を経験しやすいことが報告されています。対照的にアファンタジアの人は、視覚的フラッシュバックをほとんど経験せず、代わりに言語による侵害を報告しました。アファンタジアの人は視覚的トラウマからは、ある程度保護されていると言えますが、裏を返せば、イメージを用いた心理療法が効きにくいという医療現場でのミスマッチも生じます。
優劣ではなく、モードが違うだけ
こうした認知の違いは、本人の知能や性格とは関係がありません。しかし、社会のシステムは、映像を「それなりに思い浮かべられる」という多数派の脳に合わせて設計されているため、思わぬ摩擦が生まれます。国語の「情景を思い浮かべましょう」、音楽の「風景をイメージして歌いましょう」はアファンタジアの生徒にはまるで伝わらず、「想像力がない」と不当に評価されるリスクがあります。人間関係でも「冷たい人」と誤解されたり、「離れている恋人の顔が浮かばない」と正直に言って怒らせてしまうことがあります。映像で思い出せないだけで、その人への深い愛情にもかかわらずです。
自分の特性を知った人々はどう日常を乗りこなしているのでしょうか。アファンタジアの人が実践しているのは、何らかのツールを「外部の脳」として活用する、いわゆるライフハックです。たとえば、旅行では意識的にたくさん写真を撮り、言語ラベルをつけてクラウドに保存します。日記には曖昧な感情ではなく事実と思考プロセスを書き残す。絵を描くときは参考となる写真を物理的に並べ、論理的な構図ルールに従って手を動かす。
逆に、ハイパーファンタジアの人には、鮮明すぎる脳内映像をコントロールする技術が大切です。建築家なら頭の中で3Dモデルを構築し光と構造を検証できる強みがある一方で、フラッシュバックに圧倒されそうなときは、冷たい水で手を洗ったり、足裏の感覚に集中したりする身体的なグラウンディング(心を落ち着かせる技術)が、過熱した脳をクールダウンさせるのに役立つと実践している人もいます。
社会の側でできることもあります。学校の教育では「情景を思い浮かべましょう」一辺倒ではなく、「言葉で説明する」「リストアップする」「手を動かして作る」など複数のアプローチを併用する。職場では口頭だけの曖昧な指示でなく、スケッチを共有し、要件を文章で整理する。そんなちょっとしたひと手間が、アファンタジアの人の潜在力を引き出します。能力の優劣ではなく、情報の処理モードが違うだけなのですが、その違いが他者からは目に見えないために、「怠慢」「無関心」「冷徹」という性格の欠点にすり替えられてしまう――これが最大の問題です。
アファンタジアとハイパーファンタジアは、それ自体が直ちに「病気」や「欠陥」を意味するものではなく、認知特性の一つと考えられるべきものです。映像のない世界は空っぽではなく、概念と言語が織りなす静かな思考空間が広がっています。映像に満ちた世界は創造のインスピレーションが降り注ぐ劇場であると同時に、ときに本人を圧倒する激流でもあります。
次に誰かと会話をするとき、ふと考えてみてください。「この人の頭の中には、私とはまったく違う風景が広がっているかもしれない」と。その想像が、見えない違いによる摩擦を減らし、互いの思考スタイルを活かし合える社会への一歩になるはずです。
【参考文献】
・Zeman, Adam, Michaela Dewar, and Sergio Della Sala. 2015. “Lives without Imagery - Congenital Aphantasia.” Cortex; a Journal Devoted to the Study of the Nervous System and Behavior 73 (December): 378–80.
・Zeman, Adam. 2024. “Aphantasia and Hyperphantasia: Exploring Imagery Vividness Extremes.” Trends in Cognitive Sciences 28 (5): 467–80
・Kay, Lachlan, Rebecca Keogh, Thomas Andrillon, and Joel Pearson. 2022. “The Pupillary Light Response as a Physiological Index of Aphantasia, Sensory and Phenomenological Imagery Strength.” eLife 11 (e72484): e72484.
・Wicken, Marcus, Rebecca Keogh, and Joel Pearson. 2021. “The Critical Role of Mental Imagery in Human Emotion: Insights from Fear-Based Imagery and Aphantasia.” Proceedings. Biological Sciences 288 (1946): 20210267.
・Wright, David J., Matthew W. Scott, Sarah N. Kraeutner, et al. 2024. “An International Estimate of the Prevalence of Differing Visual Imagery Abilities.” Frontiers in Psychology 15 (October): 1454107.
・Takahashi, Junichi, Godai Saito, Kazufumi Omura, et al. 2023. “Diversity of Aphantasia Revealed by Multiple Assessments of Visual Imagery, Multisensory Imagery, and Cognitive Style.” Frontiers in Psychology 14 (July): 1174873.
・Zeman, Adam, Fraser Milton, Sergio Della Sala, et al. 2020. “Phantasia-The Psychological Significance of Lifelong Visual Imagery Vividness Extremes.” Cortex; a Journal Devoted to the Study of the Nervous System and Behavior 130 (September): 426–40.
・Palombo, Daniela J., Claude Alain, Hedvig Söderlund, Wayne Khuu, and Brian Levine. 2015. “Severely Deficient Autobiographical Memory (SDAM) in Healthy Adults: A New Mnemonic Syndrome.” Neuropsychologia 72 (June): 105–18.
・Dawes, Alexei J., Rebecca Keogh, Thomas Andrillon, and Joel Pearson. 2020. “A Cognitive Profile of Multi-Sensory Imagery, Memory and Dreaming in Aphantasia.” Scientific Reports 10 (1): 10022.
・Keogh, Rebecca, Marcus Wicken, and Joel Pearson. 2023. “Fewer Intrusive Memories in Aphantasia: Using the Trauma Film Paradigm as a Laboratory Model of PTSD.” In PsyArXiv. https://doi.org/10.31234/osf.io/7zqfe.
*次回は、10月19日月曜日更新の予定です。
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池谷裕二
1970年、静岡県生まれ。薬学博士。東京大学薬学部教授。脳研究者。2024年、『夢を叶えるために脳はある』(講談社)で第23回小林秀雄賞を受賞。著書に『進化しすぎた脳』『単純な脳、複雑な「私」』(講談社ブルーバックス)、『パパは脳研究者 子どもを育てる脳科学』(扶桑社新書)、『すごい科学論文』(新潮新書)など。「ニューロダイバーシティアワード」の審査員も務める。
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はじめまして。2026年7月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、松本太郎と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただき、ありがとうございます。
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目次には当代随一の執筆陣がずらりと並び、B5判240ページの誌面の隅々から知の香りが立ちのぼってくるかのようでした。
当時、入社3か月の営業部員だった私は、見上げるような思いで手に取り、発売日には編集長の松家仁之さんと創刊のご挨拶のために書店にうかがいました。
まだ書店訪問にも慣れておらず、編集長ともほぼ初対面の中、次のお店の約束の時間に間に合うだろうかと時計ばかりが気になって、終始、そわそわしていました。そんな私に松家さんがやわらかな笑顔で接してくれたこと、そして、新雑誌の門出を祝うようなすっきりと晴れた一日だったことを覚えています。
あれから四半世紀が過ぎ、ウェブマガジンとして衣替えした今でも、創刊時に掲げられた「Plain living, high thinking(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という言葉は古びていません。AIに尋ねれば瞬時に答えが返ってくる時代だからこそ、それらしい言葉に飛びつくのではなく、自分の頭で考え、心の声に耳を澄ませることの大切さは増しているように感じます。
創刊号には、養老孟司さんのロングインタビューが掲載されています。養老さんはその中で、恩師である中井準之助先生の口癖だった「人の心がわかる心を教養という」という言葉を紹介しています。
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「考える人」編集長
松本太郎
著者プロフィール
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- 池谷裕二
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1970年、静岡県生まれ。薬学博士。東京大学薬学部教授。脳研究者。2024年、『夢を叶えるために脳はある』(講談社)で第23回小林秀雄賞を受賞。著書に『進化しすぎた脳』『単純な脳、複雑な「私」』(講談社ブルーバックス)、『パパは脳研究者 子どもを育てる脳科学』(扶桑社新書)、『すごい科学論文』(新潮新書)など。「ニューロダイバーシティアワード」の審査員も務める。

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