前々々回、小林先生が奈良の大和三山を愛でて、「『万葉』の歌人等は、あの山の線や色合いや質量に従って、自分達の感覚や思想を調整したであろう」と書いていたことと、「本居宣長」を仕上げた後は、「日本の風景」を書きたいと言っていたこととを記し、先生は、日本の各地へその土地その土地の「大和三山」を訪ねて行き、私たち現代人も「萬葉集」の歌人のように、目にする山の線や色合いや質量に従って自分の感覚や思想を調整する、そういう生活に還ろうではないかと呼びかけるつもりだったのではないだろうか、と書いた。すると、あの回を読んでもらえた読者から、先生の考えどおりに「日本の風景」が実現していたとしたら、どこそこの山は書かれていたでしょうかといった質問をいくつか頂戴した。
そこでいまこの機会に、先生の胸中に思いを馳せてみる。まず浮かぶのは山形県の出羽三山、和歌山県の熊野三社、長野県の下諏訪温泉、大分県の由布院温泉などであるが、出羽三山へは昭和三十八年十月(六十一歳)、熊野三社へは昭和三十九年六月(六十二歳)、下諏訪へは五十五年五月(七十八歳)に行き、由布院へは昭和四十八年十一月(七十一歳)に初めて行って以来、毎年春と秋には必ず行っていた。
由布院では、標高一五八三メートルの由布岳と、旅館「玉の湯」が気に入っていた。「玉の湯」へ初めて行ったのは、昭和四十八年十一月の八日だが、宮崎県延岡市で文藝春秋主催の講演会があり、水上勉、中村光夫、那須良輔の三氏とともに講師を務めたあとの宿泊地として、当初は別府が予定されていた、しかしそこへ、昭和十年頃に雑誌『文學界』で苦労をともにして以来の友人、野々上慶一氏が、「あそこは山菜がうまい」と言って「玉の湯」を勧めたのだという。
「由布院 玉の湯」の溝口薫平さん、「亀の井別荘」の中谷健太郎さんを中心とする地元の人たちの大変な努力によって昔ながらの由布院が守られ、そして年々、今日見られる由布院が育つに至った経緯は新潮新書の『由布院の小さな奇跡』(木谷文弘著)に詳しく、他にも新聞、テレビ等でたびたび報じられて今では全国的に知られているといってよいほどだが、実は小林先生も、この「小さな奇跡」に私かに関わっていた。
先生の孫、白洲信哉さんが編んだ『小林秀雄 美と出会う旅』(新潮社)に、「小林先生と由布院温泉」と題された溝口さんの文章が収められている。
――先生は由布院の自然をこよなく愛して下さいました。しかし、先生は、由布院のことも私どもの宿のことも、どこかに書いたりお話になったりなどはまったくされませんでした。ある日、先生の方から突然におっしゃいました。
「溝口君、僕は由布院のことは書かないからね。僕がちょっとでも書くと、どっとみんなが押しかけて、この静かな自然も君たちの努力も、めちゃくちゃにされてしまうからね……」
そこでふっと口許をゆるめられ、「親戚の白洲正子もしきりと来たがっているのだがね、僕が連れてこないのはそのためなんだ。だって、白洲はすぐ書いてしまうだろう?」と笑みを浮かべておっしゃり、
「そのうち、僕が死んだら、あそこは小林が行ってた宿だとおのずと知られるようにもなって、すこしは役に立てる日もくると思うよ。それまで、待ってくれよな」……
そして、先生にはもう一軒、お気に入りの宿があった。下諏訪温泉の「みなとや旅館」である。下諏訪へは昭和五十五年の御柱祭を観に行き、そのとき「みなとや」に初めて泊った。
「御柱祭」とは、申年と寅年の春ごとに行われる諏訪大社の大祭である。神の依代としての太くて大きな柱を社殿の四隅に立てるのだが、前もって選んでおいた樅の大木を、上社の場合は十四キロ、下社の場合は八キロも離れた山奥から氏子たちが山出しをし、里曳きをする。その山出しの途中、最大傾斜約三十五度、距離約百メートルの急斜面を一気に滑り落す「木落し」は、写真などによっても広く知られている。
だが、先生の「みなとや」泊りは、この御柱祭のときの一回きりになった。「みなとや」は当時、一晩に三組しか客を泊めず、先生が行きたいと思って電話をかけてもそのつどいつも予約で埋っていた。昨年の秋、永年の望みが叶って私もようやく宿泊の機会に恵まれ、大女将の小口芳子さんからゆっくり話を聞かせてもらったが、先生にはとうとう一度しか泊っていただけませんでしたと、女将はたいそうすまながっていた。
「玉の湯」とちがって「みなとや」は、白洲正子さんが一緒だった、というより、「みなとや」は白洲さんのほうが客としては大先輩だったこともあり、先生が「みなとや」を気に入っていたことは白洲さんによって周囲によく知られていた。しかし先生自身は、「みなとや」のことも一行たりと書いてはおらず、私の知るかぎり酒席などで噂して誉めそやすということもなかった。おそらく、「玉の湯」に対する気づかいと同じ気づかいが「みなとや」に対してもあったと思われる。去年の秋、私は「みなとや」に泊ってみて、先生の気づかいはまったく同じだと思った。
先生は、夕食を食べながら、「諏訪には京都以上の文化がある」と白洲さんに言ったという。この言葉は、白洲さんのおかげでたちまち有名になったが、先生はどういう思いでこう言ったのかについては読者の間で諸説が飛び交っていた。額面どおりに受取って、小林先生は諏訪の御柱祭を京都の葵祭などより上だと言ったのではないかと唱える人もいれば、先生の真意を深読み深読みした挙句、まだ迷路から出られないという人もいる。私はそれまで、この言葉にさほど気を取られることはなかったのだが、「みなとや」に泊ってやはり夕食の席で話題になったとき、ふと京都の旅館「佐々木」を思い出した。「佐々木」は今はもうないが、白洲さんによれば小林先生は「佐々木」を「この宿屋は国宝だよ」と言って愛していたという。そこから私は、「諏訪には京都以上の文化がある」の「諏訪」とは「みなとや」のことで、「京都」というのは「佐々木」のことで、「みなとや」は「佐々木」に勝るとも劣らない、それほど気に入った、という気持ちで言われたのではないかと思った。
夕食は、大きな皿に馬刺、そして諏訪湖のワカサギ、小エビ、フナ、加えてザザムシ、イナゴ、蜂の子の甘露煮、さらにはコゴミ、アザミ、ジゴボウなどの野草、山菜と、まさに盛り沢山だった。が、朝はキジのガラだしによる蕎麦の実とみつばの「蕎麦雑炊」、これに味噌をつけて焼いたご飯一膳分ほどのおにぎり、それだけだった。先生は、この「蕎麦雑炊」が格別気に入っていたという。
盛り沢山ではあるが質朴そのものと言っていい夕食を味わい、朝起きて「蕎麦雑炊」をいただき、私は、「諏訪には京都以上の文化がある」と言った先生の真意が今こそわかったと思った。先生は、この言葉を、夕食の席で口にしたと女将は言っていた。だとすれば、「みなとや」は「佐々木」に勝るとも劣らない、それはそれとして、先生は、京都ではもうほとんど見られなくなった自然とともにある暮し、湖の魚や山野の昆虫、野草、山菜といった自然の恵みを最大限に味わう人間の知恵、それが諏訪には溌溂と生きている、おそらくはそこを言ったのである。
こうして推量の糸を伸ばしてみると、先生は、「日本の風景」を書いて、ここぞという土地のこれぞという風景は書いても、その風景風土に育まれた暮しや食べ物についてはほとんど書かなかっただろうと思えてくる。では先生は、「日本の風景」で、何を書こうとしていたか。きっかけは、昭和三十七年九月の末から十月初めにかけて文藝春秋の講演旅行に参加し、その途次、天の橋立に赴いて、「天の橋立」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第24集所収)を書いたことにあった。
あるとき天の橋立へ行き、宿で朝食に食べたオイルサーディンが非常においしかった。これはただの鰯ではないと思って宿の人に訊くと、天の橋立に抱かれた入江に居るキンタル鰯という鰯だと教えられた。それから何年か経ってまた天の橋立へ行き、キンタル鰯のことを訊いたところ、どういうわけだか近頃は獲れなくなったと言われた。舟に乗って振り返ると、街には大規模なヘルス・センターが出来かかっている、やがて、対岸までケーブルが吊られ、「股のぞき」に舟で行く労も要らなくなると聞いて、先生は思う。
――わが国の、昔から名勝と言われているものは、どれを見ても、まことに細かな出来である。特に、天の橋立は、三景のうちでも、一番繊細な造化のようである。なるほど、これは、キンタル鰯を抱き育てて来た母親の腕のようなものだ、と思った。とても大袈裟な観光施設などに堪えられる身体ではない。……
――キンタル鰯の自然の発生や発育を拒むに到った条件が、どのようなものか、私は知らないが、子供の生存を脅した条件が、母親に無関係な筈はあるまい。僅かばかりの砂地の上に幾千本という老松を乗せて、これを育てて来たについては、どれほど複雑な、微妙に均衡した幸運な条件を必要として来たか。瑣細な事から、何時、がたがたッと来るか知れたものではない。……
一見、これは現代の自然破壊に対する異議申し立てである、だが先生は、よくいる社会運動家のように、スローガンを掲げて声高に叫ぶのではない。日本の風景を日本の風景たらしめている「繊細な造化」に感応し、その造化の妙によって生かされている日本人の暮しを味わい直そうというのである。
豊後富士とも呼ばれる由布岳に見守られた由布院には、「玉の湯」からほど近い豆腐屋さんに油揚げの名人と言われるおばあさんがいた。先生は、由布院へ行くたび、「玉の湯」に着いて荷物を置くなり散歩してくると言ってひとりで出かけ、そのおばあさんを訪ねていっては夕食間際になるまで話しこんでいたという。先生は、うまい油揚げが揚がるまでの手仕事について、おばあさんににこにこと尋ね続けたのであろう。おばあさんは訥々と、しかし嬉々として答えてくれたのであろう。その手仕事を、今はお孫さんが継いでいる。
先生は、何事も手仕事でなければならない、頭であれこれ考えるだけでは何ひとつうまくいかない、最後は手仕事だ、だから、自分の書く原稿も手仕事だと言っていた。先生は油揚げ名人のおばあさんと、手仕事の何たるかを知った者同士の呼吸で意気投合していたのである。もちろん、「みなとや」の夕食も「蕎麦雑炊」も、手仕事なればこその美味しさであった。
こうして先生の「風景」には、自然の造化とともに人間の手仕事があった。「日本の風景」に、自然の造化は次々と美しく描き取られていったであろう、しかしそこに暮らす人々のこれぞという手仕事は、そのほとんどがあえて書かれずに終ったのではあるまいか。手仕事は、繊細であればあるほど、押し寄せる観光客の勝手気儘には堪えられないからである。
(第五十九回 了)
★小林秀雄の編集担当者・池田雅延氏による、小林秀雄をよりよく知る講座
小林秀雄の辞書
9/5(木)18:30~20:30
新潮講座神楽坂教室
小林秀雄氏は、日々、身の周りに現れる言葉や事柄に鋭く反応し、そこから生きることの意味や味わいをいくつも汲み上げました。2018年1月から始まったこの講座では、私たちの身近な言葉を順次取上げ、小林氏はそれらを私たちとはどんなにちがった意味合で使っているか、ということは、国語辞典に書いてある語義とはどんなにちがった意味合で使っているかを見ていきます。
講座は各回、池田講師が2語ずつ取上げ、それらの言葉について、小林氏はどう言い、どう使っているかをまずお話しします。次いでその2語が出ている小林氏の文章を抜粋し、出席者全員で声に出して読みます。そうすることで、ふだん私たちはどんなに言葉を軽々しく扱っているか、ごくごく普通と思われる言葉にも、どんなに奥深い人生の真理が宿っているか、そこを教えられて背筋が伸びます。
私たちが生きていくうえで大切な言葉たちです、ぜひおいでになって下さい。
9月5日(木)青年/隠居
参考図書として、新潮新書『人生の鍛錬~小林秀雄の言葉』、新潮文庫『学生との対話』を各自ご用意下さい。
今後も、知恵、知識、哲学、告白、古典、宗教、詩、歌……と取上げていきますので、お楽しみに。御期待下さい。
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池田雅延
いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
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