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住職はシングルファザー!

お坊さんの離婚はタブーなのか?

 かくして、結婚生活は約9年で幕を閉じた。2018年の正月から、子供2人を男手ひとつで育てるという、夢想だにしなかった「シングルファザー住職」としての新しい生活が始まった。

 離婚を経験した知人男性は「辛いのは離婚するまで。離婚したら明るい未来しかない」とアドバイスをくれた。さすが先達、的を射た表現である。しかし、彼らは離婚してシングルファザーになったわけではなかった。子供を引き取った私の場合、長いトンネルの出口はまだはるか先のように感じられた。

 涙を飲んで子供たちと暮らすことを断念した妻。子供たちのことを眼に入れても痛くないほど可愛がってくれていた妻の両親。他にも、結婚披露宴に列席して私たちのことを祝福し、その後も応援してくれてきた親せきや知人たち。離婚によって傷つけることになった多くの人たちの顔が絶えず脳裏をよぎり、そのたびに自身の未熟さを思い知らされて、傷跡がズキズキと痛んだ。

 それだけではない。お寺にいると、お墓参りのために檀家さんもしょっちゅう訪ねてきて、何気ない挨拶のつもりで「奥さん最近見ないけど元気?」などと口にするから、傷口をさらにえぐり抜いていく。「実は離婚したんです」と正直に答えると、「えっ!」と絶句して申し訳なさそうな顔をされる。あまりに悲しそうなので、私はなぜか「申し訳ありません」と謝罪する。檀家さんに悪気はないのは当然だ。そのたびに心をグサグサ刺される思いがした。

 不幸中の幸いだったのは、結婚披露宴をこぢんまりとした規模で行っていたことである(そのために「呼んでもらえなかった」「水臭いじゃないか」とお坊さんたちからブーイングが続出したのだが、私たちがそれをまったく気にしなかったことは言うまでもない)。お寺の世界では、新郎新婦ともお寺関係者なら、いまでも100人規模の披露宴が行われることがしょっちゅうである。スキンヘッドだらけの披露宴は威圧感が満載で、なんど経験しても慣れない。冒頭の挨拶でお坊さんたちが気の利いた法話をしたがるから、乾杯までに1時間かかった披露宴もあった。

 もし私もたくさんのお坊さんの祝福を受け、その前で夫婦の愛を誓いあっていたら、離婚の後ろめたさは何倍にも増していただろう。離婚を報告する手間も相当なものがあったに違いない。最近は住職が離婚するケースもよく聞くようになったが、世間一般ほど許容されているわけではなく、依然としてタブーのように思われているのは間違いない。「恥の文化」を醸成する日本らしいしがらみの構造が根強く残っているからだと思う。離婚しても言い出せずにひた隠しにしている人もいる。

「自業自得」

 私も離婚したことをひた隠しにしているほうが、お寺の旧習のなかでとるべき振る舞いだったのかもしれない。そのほうが両親や親せきはホッとしたかもしれない。しかし、この離婚の件に限らずであるが、私はわりとあけすけに自分の身に起こった悲劇を語るほうが、仏教徒らしい前向きな生き方だと思っている。

 理由は2つある。

 1つには、仏教的に言えば、後悔するべきは、離婚したということではなくて、離婚に至った原因だと考えるからだ。

 仏教の世界の前提には、「自業自得」という因果応報のことわりがある。つまり、善い行いをすれば幸せがもたらされ(「善因楽果」)、悪事にふければその罰は我が身にふりかかる(「悪因苦果」)。自分の行いの報いは必ず自分が受けなければならない。

 もっとも、この自業自得の考え方に納得しない人もあるだろう。

 「一生懸命働いてるオレよりロクに働かない社長の御曹司が先に出世するのはなぜだ」

 「犯罪に手を染めても警察につかまっていないヤツもいるではないか」

 しかし、仏教では幸不幸の結果がもたらされる時期は、今生だとは言わない。来世かもしれないし、来来世かもしれないが、必ず結果はやってくるという。経典をいくら読んでも、そのタイミングについてはいつも「お釈迦さまのみがそのタイミングを知っている」などと説かれ、うやむやにして煙に巻かれてしまう。だから、正直に言えば、私も因果応報を100パーセント信じ切っているわけではない。

 ただ、他人のことはともかくとして、我が身を省みるなら、苦しいときはつい自分を正当化しがちだが、よくよく考えると己の非ばかりが思い当たる。離婚にしても、私の努力次第で回避できるタイミングはいくらもあったはずだ。

 我が身の至らなさを「悪因」として反省すればこそ、その「悪因」からもたらされた「苦」が二度と起こらないように生き方が変わってくる。「自業自得」の考え方は、よりよく生きるための提案として、100パーセント合理的だと受け止めている。

 だから、いま目の前にあるシングルファザー生活の大変な部分だけ見て愚痴るよりは、めいっぱい向き合って家族が成長する糧にしようと思った。

前向きな償いとして

 そしてもう1つの理由としては、仏教では、人間には苦しみに共感しあう力があると考えるからである。「慈悲」という仏教語は、実は、人を幸せにしたいという感情(「慈」)と、人の苦しみに寄り添いたいという感情(「悲」)の2つをまとめた言葉であり、人間がこれらの感情を本来的に持っていることを説いている。だから、その生活を包み隠さず語ることで、共感の輪が広がるなら、この社会が少しぐらい生きやすくなるだろうと信じている。

 「シングルファザーはかくも大変なのか」とわかれば、離婚を回避して夫婦円満に暮らそうとする家庭があるかもしれない。あるいは、「僕でもシングルファザーをやれそうだ」と前向きに離婚へと進む父親もいるかもしれない。いずれにしても、惰性でダラダラ生きるよりは、多くの人たちで苦しみを感じ合って、よりよい未来を作るように背中を押すのが、お坊さんのつとめだろうと思っている。

 したがって、一通り親せきへの報告を済ませた頃には、SNS上でもシングルファザーになったことをカミングアウトした。すると、私の育児家事の苦労を気遣う言葉に交じって、思いがけないことに、「その経験を書いてみませんか」とのお誘いをいただいた。なるほど、「お坊さん×シングルファザー」というのは、世にも珍しい生態。聖なる世界の住人であるはずのお坊さんが、離婚を経験しひとりで子育てをするという俗っぽい日常。なかなかコントラストが効いたテーマではないか。

 「書きたいです」と、私はすぐに返事をした。

 しかし、同時に、別れた妻が顔をしかめる様子が脳裏をよぎった。いくらオブラートに包んで書くとしても、プライベートなエピソードをさらされることにいい気はしないだろう(元妻にもあらかじめ相談した。そうしたら、「私には気を遣わず、思ったまま執筆してください」と返事をくれた)。

 悩んだ末に、それでも書くほうが、前向きな償いだと思った。

 別れた妻だけでなく、親せきや知人に対しても、離婚を申し訳なく思うなら、罪の意識からひっそりと暮らすより、シングルファザーとしてしっかり生きている姿を見せたほうがいい。子供が立派に成長していることを文字越しにでも知ってもらえたら、いまは落胆している周りも、やがて納得してくれるにちがいない。そう理解できたとき、生きていく日々に意味を見出せたような気がしたから、ありがたい提案を真摯に受け止めることにした。

 

*次回は、8月4日金曜日に配信の予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

池口龍法

僧侶。浄土宗・龍岸寺住職。2児の父。1980年兵庫県生まれ。京都大学卒業後、浄土宗総本山知恩院に奉職。2009年、フリーマガジン「フリースタイルな僧侶たち」を創刊。2014年より現職。念仏フェス「超十夜祭」や浄土系アイドル「てら*ぱるむす」運営などに携わる。著書に『お寺に行こう!  坊主が選んだ「寺」の処方箋』が、共著に『ともに生きる仏教 お寺の社会活動最前線』がある。『スター坊主めくり 僧侶31人による仏教法語集』の監修もつとめる。Twitter: @senrenja

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