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住職はシングルファザー!

2023年10月20日 住職はシングルファザー!

8. お葬式とオネショ――「考える育児」を目指して

著者: 池口龍法

「お坊さんらしさ」の対極を生きる

 ここまで読んでくださった皆様はおそらくお気づきだろうが、大人になってからの私の生き様は、申し訳ないほどにまったくお坊さんらしくない。

 お寺の跡取りとして手塩にかけて育てられた幼少期から、志望通りの有名大学・大学院に進学したぐらいまでは、内面の葛藤はいろいろあったものの、私は優等生らしい生き方をしていた。関西風にいえば「ええところの子」だった。父親はよく「龍法は挫折を経験してないのがよくないなぁ」と嘆いていた。

 しかし、その後はもう豹変したかのように、道なき道を進んでいる。

 24歳、大学院中退。

 28歳、両親に逆らって結婚。

 29歳、大きな教団組織の指針とそりが合わずフリーペーパー片手に街へ。

 37歳、離婚してシングルファザーに。

 つくづく、我が身のことながらひどい。「挫折を知らない」という父親の嘆きは間違いなく吹き飛ばしただろうが、さらに大きなため息が漏れ聞こえてきそうである。

 お寺に生まれ育ち、大学・大学院では仏教学を学び、総本山知恩院に就職し―と、同じくお寺に生まれたお坊さんと比べても珍しいくらい、仏教の空気を存分に吸ってきたにもかかわらず、お坊さんらしい人生の対極を生きている。

 幸いにして、多様な生き方が容認される現代だから許されているだけで、私の人生の岐路となったどの決断をとっても、時代が違えば家族親族や世間から大ブーイングを浴び、陰でコソコソ生きる羽目になった可能性をはらんでいる。実際、私はそういう立場に陥る覚悟を抱きながら、ためらうことなく自分の人生に決断をくだしてきた。唯一お坊さんらしいところは、どんなときにも折れない強靭なメンタルを持っていることだろう。

 なぜ私の心は折れないのか―。

 やはり仏教のある生活は、メンタルを強く育ててくれるのか。

 いくつか思い当たる節はある。

 学生時代から俗世と離れたところで修行生活を何度も送ってきたから、かけがえないと思っていたものでも、いざ断捨離してしまうと楽に生きられることを知っている。

 たとえば、いまや私たちの生活にスマートフォンは欠かせないと思われているが、修行にはやはり持ち込めない。道場に入って早々は、いつもなら法衣のたもとに入れているスマートフォンを探ってSNS通知などを確認したい気持ちにしょっちゅう襲われるが、2、3日もすればスマートフォンを意識しなくなる。そこから先にあるのは、スマートフォンに振り回されない、静けさに包まれた穏やかな生活である。

 また、お寺で暮らしていると、これから大学受験というシーズンや、家族の命に関わる手術を迎えるときには、先祖に手を合わせにお墓参りに来る人がいる。申し訳なさそうに「お墓参りはお願いごとのためじゃないんですけどね」と釈明されるから、間違ったお墓参りだと知りつつ、それでも拝まずにはいられないのだろう。その気持ちは私もすごく共感する。 

 私だって、本堂での朝勤行(あさごんぎょう)をいままででいちばん真剣につとめたのは、父親の手術前だからである。手術当日まで、朝勤行は檀家さんの先祖供養よりも、ひたすら父親の病気平癒を祈る時間だった。世間一般では仏壇のない家庭が当たり前の時代に、私は祈るための空間のなかに住まわせてもらっているから、なんと恵まれていることかと知った。

 しかし、断捨離して穏やかな生活を過ごすのも、神仏に祈りながら暮らすのも、誤解を恐れずにいうと、現実逃避的であるのは否めない。たとえば本堂にこもって坐禅や念仏をしているあいだは、育児や家事からも解放されてメンタルが調うだろう。だが、いざ家庭の生活に戻れば、山積みになっている調理や洗濯などのタスクは、坐禅や念仏で時間をロスした分だけ余計に私の心身を苦しめる。

「考える禅」と「考える育児」

 では、私はいかにして仏教を生活のなかで用いているのか。

 まったくお坊さんらしくないやんちゃな生き方をしながら、お坊さんとして胸を張って生きていられるのか。

 私は仏教を「考える宗教」だと理解していて、「考える禅」を日々実践しているつもりで生きている。

 「考える禅」というのは耳慣れない言い方だろうが、たとえば男女間の関係がもつれにもつれたとき、「別れようかなぁ」「いまの相手とやり直そうかなぁ」と悩んでいるときは気分が晴れない。しかし、「この相手とやり直すのは無理」と考えが整理できたときには、同時に別れを切り出す決心がついているし、その後に待ち受ける新しい生活をスタートさせる覚悟もできている。この心の状態はまさしく「禅」の境地である。

 つまり、私が「考える禅」というとき、考えて目の前の課題を解決することで、自分自身の心も、そして社会全体をさえも、禅の穏やかな境地で包んでいくことを意味している。これまでも、お坊さんとしての常識にとらわれずに「仏教かくあるべき」を突き詰めて考えることで、仏教界を包んでいた閉塞感を打ち破ってきた。シングルファザーとしても、「考える育児」を心がけていけば、自分自身の心のなかも、家庭の環境も好転していくにちがいないと信じていた。

 このような仏教理解は、日本においては珍しいと思う。しかし、仏教が「正しく生きる」ことを説いたのは言うまでもないが、「正しく生きる」ために重んじたのは「考える」ことである。『スッタニパータ』という最初期の経典を読むと、お釈迦さまは人間の「知性」を信頼していたことがうかがえる。

 

苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、また苦しみの消滅に達する道を知った人々―かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。

 

 このフレーズには、ふたつの学ぶべきポイントがある。

 経典の言葉をかいつまんでいえば、「苦しみを知れば、苦しみから解放される」と単純な理屈になる。しかし、「わかっちゃいるけどやめられない」というのが日本的な感覚ではないか。たとえば、お酒が好きな人なら、「お酒を飲んだら次の日がしんどい」「肝臓の数値が悪くなる」とわかっていても、ついお酒に飲まれてしまう。

 つまり、お釈迦さまが弟子に語ったときの「知る」と、私たちが用いる「知る」の質が違う。私たちは「頭ではわかってるんですけど…」と反省の弁を述べることがあるが、お釈迦さまからすれば「行動が変わらないような薄っぺらい知は、知と呼べない」のである。お釈迦さまは、弟子を教え導くときに人間の知性に大きな希望を見ていた。思考を調えていけば自然と人生の質は変わっていくと信じていた。

 そしてもうひとつは、この言葉が語られた時代背景である。すでにいわゆるカースト制度が定着していたインドにあって、生まれた境遇のために人生に悲観的になることを戒めている。出自を嘆いたところでなにも生み出さないが、目の前にある苦しみを冷静に見つめて少しずつ解決していけば、人生の質はその分だけ変えられる。

 現代の日本は、インドほど階級意識がはっきり成立しているわけではないが、「一億総中流」と言われた昭和40~50年代に比べれば現代は貧富の差が開いていて、所得の少ない家庭に生まれると教育環境に恵まれず、資格の取得やスキルの習得ができないと就職する際に不利になるという「負のスパイラル」を抱えている。子供が親を選べないことを嘆く「親ガチャ」という言葉が2021年の流行語大賞トップ10に選出されるほど普及したのも、階級社会化している状況への不満が広くくすぶっていることの表れにほかならない。

 私のいま置かれている状況も例外ではない。ひとり親家庭では、子供に寄り添える時間がわずかしかない。十分な教育環境を用意してあげられない可能性も高い。「負のスパイラル」という悲劇は私たち親子にも避けられず訪れるのだろうかと不安に駆られた。

 シングルファザーにどんな困難が待ち受けているのかなど、わからないことばかりで考えて解決する糸口すら見えない。それでも経典の言葉が教えてくれた「考えることで現実は変えられる」というお釈迦さまのメッセージは、私を大きく勇気づけてくれた。

葬儀の日のオネショ

 もっとも離婚早々の頃は、「考える育児」など実行する余地がなかった。「考える育児」は、考えるだけの時間の余裕があって初めて成立するのであって、現実には「瞬発力」だけで目の前の日常に対処しているだけで、毎日があっという間に過ぎていった。

 朝、スマートフォンのアラームがジリジリと鳴る。

 幸せな眠りのなかから、意識が日常に戻ってくると、すぐそばで寝息を立てている長男の布団の異変に気付いて愕然とする。

 「うわっ、冷たい…」

 夢であることを期待して、もういちど布団を触るが、やっぱり冷たい。この感触は間違いなく「アレ」である。長男はまだ6歳になったばかり。年齢を考えれば責めるのはかわいそうなのだが、タイミングの悪いことに、長年お寺のために尽くしてこられた檀家総代の奥さまのお葬式が、午前中に入っている日だった。子供2人との3人暮らしが始まったばかりの頃で、私にとって初めてのオネショ処理。右も左もわからない。

 言いようのない怒りがこみ上げる。「なんでお葬式にオネショをかぶせてくるのよ!」とスヤスヤ眠っている息子を全力で問い詰めてみるが、微塵も悪気がない息子は起きる気配すら見せない。幸せそうな寝顔は「なんでお葬式の日ってオネショしたらダメなの?」と逆に質問したそうにも見える。

 かくいう私自身も、実のところはただ愚痴をぶつけたいだけで、オネショの理由はわかっている。お葬式が入ると、戒名を考えたり、白木の位牌にその戒名を書いたり、葬儀前日には金襴の袈裟を法衣箪笥からゴソゴソ引っ張り出したりと、支度に追われて子供のことまで気が回らない。そうすると、寝る前に「トイレに行ってから寝るのよ」といういつものやり取りをつい怠ってしまう。これが最大の敗因である。

 布団にもぐったままスマホを操作し、グーグル先生に対処の仕方を尋ねると、「できるかぎり早めに処置を」「時間が経つにつれ臭いが取れなくなります」というもっとも欲しくない回答が出てくる。私が抱いていた「少しでも長く布団にもぐっていたい…」「お葬式が終わってからの対応でも大丈夫…」という願望を、容赦なく打ち砕いていく。

 ネット上の情報が的確な対処方法だというのもわかるので、ため息をついている間もなく、子供をたたき起こして布団を引きはがす。敷布団にしみ込んだオネショをタオルなどに吸い取らせ、布団カバーを洗濯機に突っ込み、並行して朝ごはんの準備をして小学校と幼稚園に送り出す。

 お葬式に出かけるころにはもうぐったり。それでも時間どおりに葬儀場へ到着し、平気な顔をつくろって喪主に挨拶をし、導師席についたら精一杯声を張り上げる。でも、体は正直なもので、いつものように声が響かない。「くそっ…あの忌まわしいオネショさえなければ」というお坊さんらしくない思いが去来するなか、なんとか気力を振り絞って引導をわたす。

 葬儀が終われば火葬場に向かう。炉前で読経し、ご遺体を納めた棺が火葬炉に入って扉が閉まると、私のつとめはいったん終了となる。ご遺族から丁重に「大変お世話になりました」とかしこまってお礼を言ってくださるが、私には余韻にひたる余裕はない。一刻も早く寝室に戻り、オネショ処理の続きをやりたい一心であった。

 京都市の火葬場の場合、火葬から収骨までおよそ90分である。収骨が済めば私は再び初七日の読経にうかがうことになるので、のんびりしている時間はない。火葬されているあいだ、私はシングルファザーの顔に戻って、まだ湿っている敷布団や、洗濯機で脱水まで終わった布団カバーとパジャマを乾かす。そうこうしているうちに、電話が鳴り「初七日お願いします」と連絡が入る。再び法衣に着替えて会場に向かう。

 シングルファザー住職の生態は、聖と俗をいったりきたりで、なんともシュールである。

 

*次回は、11月3日金曜日に更新の予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

池口龍法

僧侶。浄土宗・龍岸寺住職。2児の父。1980年兵庫県生まれ。京都大学卒業後、浄土宗総本山知恩院に奉職。2009年、フリーマガジン「フリースタイルな僧侶たち」を創刊。2014年より現職。念仏フェス「超十夜祭」や浄土系アイドル「てら*ぱるむす」運営などに携わる。著書に『お寺に行こう!  坊主が選んだ「寺」の処方箋』が、共著に『ともに生きる仏教 お寺の社会活動最前線』がある。『スター坊主めくり 僧侶31人による仏教法語集』の監修もつとめる。Twitter: @senrenja

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