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住職はシングルファザー!

突然の休園をチャンスに

 ハプニングに日々足をすくわれながらも、常に元気でいようとはつとめていた。風邪ひとつ引いてはいけないという強迫観念に駆られていた、というほうが正しいかもしれない。おそらくは、多くのひとり親家庭の親が、同じような思いを抱いて暮らしているはずである。前回、お寺にいると親代わりをつとめてくれる大人がたくさんいると書いたばかりだが、子育てもそれからお寺の仕事も、メインを担うのはすべて私。その私が倒れれば、すべてのバランスが崩れてしまう。

 だが、いくらひとり親家庭が、ギリギリのところでバランスをとって成り立っているといっても、諸行無常のことわりから逃れられることはない。

 離婚から1か月も経たない冬の日に、また思いがけない伏兵に襲われた。

 長男の通う幼稚園でインフルエンザが大流行し、休園になったのである。

 手洗いうがいを徹底して自分自身や家族の体調を管理していても、蔓延するインフルエンザまではどうしようもできない。幼稚園からの指示は、感染拡大を防ぐため、極力自宅待機させてくださいとのお達しだった。言いたいことはわかるが、私が檀家参りに出かけるあいだ子供をどうすればいいのか。突然の休園ではスタッフの手配も間に合わない。YouTubeに子守を任せれば私が帰るまで不動の姿勢で待っていてくれるかもしれないが、寒い冬の日にストーブをたいた屋内に息子を放置するとなると、リスクゼロとはいえない。最悪のケースが脳裏をよぎる。

 いくら考えても、答えが出ない。

 でも、私はこういったピンチをわりと楽しもうとする癖がある。

 ピンチというのは、自分自身の思考が生み出した枠組みのなかで、苦しんでいるにすぎない。人間は、ピンチのときにこそ必死で考えるし、その殻を破れば成長にもつながる。いまの状況に関して言えば、私自身を追い詰めているのは、「檀家参りに6歳の子供は連れていけない」という思い込みである。

 「いっそ連れて行ってみようか」と、私は脳内でシミュレーションを始めた。お寺で育ったことに加え、仏教系の幼稚園に通っていたから、手を合わせてお経をあげることにはわりと慣れていた。だが、6歳の子供の緊張感が長く持つはずもない。すぐに退屈して動き回るだろう。そうなると、読経(どきょう)のありがたみが吹き飛んでしまう。

 なんとか、じっとさせるすべはないのか。

 ふと思い出したのは、息子が「ニンテンドースイッチがほしい」としきりに言っていたことだった。読経へのモチベーションを最後まで保ってもらうために、「百回読経がんばったら買ってあげる」と美味しそうなニンジンをぶら下げた。リビングの壁には、百マスのチェックシートを張り付け、読経した日付を書き入れるようにした。

 子供は単純である。がぜん、やる気が出たらしい。

 檀家さんの仏壇前での毎月の読経は、1回あたり15分程度。大人にとっては大したことない時間だが、子供にとっては決して短くない。かなりの重労働である。飽きてくるとキョロキョロして後ろを振り返ったりもしていたが、最後まで正座をくずさずに辛抱したから、6歳なりにせいいっぱいの背伸びをしたのだと思う。

 読経が終われば、あどけない子供の顔にもどる。檀家さんに「坊っちゃん偉いねぇ」と褒めてもらい、ジュースやお菓子を出してもてなしてもらってニンマリ。お寺に戻ったら、壁のシートにチェックして、お目当てのニンテンドースイッチに一歩、近づいていく。自分の力でゴールに近づいていくこの感覚が楽しかったらしい。休園中はもちろん、幼稚園が再開されてからも、お参りに出かける私を見ると目をキラキラさせて「今日も一緒に行きたい」と言うようになった。

 3か月ほど過ぎ、小学生に上がった頃に、百マスを見事にコンプリートした。「このスイッチは僕のやからな」「たまには貸してやってもいいけどな」と姉にむかって誇らしげに自慢していた。

 百マスが埋まった頃には、浄土宗でよく用いる「四誓偈(しせいげ)」など、日常のおつとめで唱えるお経はすべてそらんじていた。読経の声も大きくなってきた。檀家さんは「偉いねぇ」とますます感心する。私は「頭のなかが空っぽだからすぐ覚えられるんです」と冗談を言いながら謙遜すると、子供が冷ややかな視線を寄せてくるのがお決まりの風景だった。

ロープレ的教育

 よその家庭でも、「テストで百点取れたらご褒美」とか「お手伝いしてくれたらご褒美」という具合に、ニンジンをぶら下げて努力を促しているという話はよく聞く。しかし、うちほどご褒美までの道のりが険しいところは珍しいのではないか。

 1回あたり15分の読経でも、百回となると25時間を要する。しかも、途中で脱落したら1円ももらえない。幼稚園から小学校にあがったばかりの子のキャパシティを明らかに越えたチャレンジである。裏を返せば、大人がだれか常にそばにいないと成立しない。子供は全部自力で頑張ったつもりだが、むしろ努力しているのは私だとひそかに胸を張りたくなる。

 それでも、百マスチャレンジというゲームを好んでプレイしてしまうのはなぜかというと、たぶん私が「ロープレ(ロールプレイングゲーム)」のシステムに親しんで育った世代だからである。

 私が子供の頃に初めてプレイしたロープレは、ファミコンソフトの「ドラゴンクエスト3」だった。「ドラゴンクエスト」や「ファイナルファンタジー」のシリーズは、中学・高校生ぐらいまでに発売されたものはほぼすべてクリアしている。ロープレの主人公は、冒険のはじめはレベル1で戦闘力も弱い。助けてくれる仲間もいない。でも、敵と戦ってちまちま経験値を積んでいくうちにレベルアップして着実に強くなる。旅を続けていくと心強い仲間にも出会える。やがてはラスボスの魔王さえ倒せるようになる。

 このロープレのシステムは案外、仏教が語ってきた物語にシンクロする。

 29歳のときに出家したお釈迦様は、6年間の修行生活の最後に悪魔マーラとの戦いに打ち勝ち、さとりを開いたとされる。悪魔マーラというのは、自分の心のなかの煩悩をあらわしたものに他ならない。シングルファザーの育児に追われている私は、疲れているときなど悪魔マーラにそそのかされて心は乱れっぱなしであるが、もし打ち勝って自分らしくと思うなら生涯かけてメンタルを鍛えるしかない。ロープレ同様、人生も経験値稼ぎをした時間はきっと裏切らない。努力を続けていれば、小さな誘惑には負けない人間に変われるはずである。

 そんなわけで、ロープレと仏教から示唆を受けるゆえに、私は子供たちに辛抱強く努力させているが、あまりに忍耐を求めるのは時代の流れに逆行すると感じるときもある。

 私が小学校の頃は、忘れ物をしたら怒られた。鉛筆の持ち方も食事のマナーも厳しく指導された。態度が悪ければ、先生から鉄拳が飛ぶのもしょっちゅうだった。しかし、私の子供2人は、忘れ物をしても怒られないし、鉛筆の持ち方も食事のマナーも習ってこない。先生から殴られることもない。なんともヌルいなぁと思う。

 もちろん、私はいまさら体罰を推奨したいわけではない。

 お釈迦さまは、修行生活のあいだに断食行など厳しい苦行を経験したが、自分の身を痛めつけて自己満足を味わっても意味がないと気づき、苦行をあきらめたという。そして、乳がゆを飲んで英気を養い、HP(ヒットポイント)をマックスにまで回復させて、ついに悪魔マーラとの最後の決戦に挑んだ。だから、仏教的にも体罰に価値は見出しにくいが、目標に向かって飽くことなきチャレンジを続ける忍耐は、推奨されるところだろう。

 私の子供たちも、レベルが上がって「新しいお経を覚えた」などのスキルアップを繰り返していけば、正しい努力は自分を裏切らないことを身に染みて覚えるだろう。その手ごたえが心に残れば、大きくなったときにためらいなく新しい世界への扉を開き、努力の末にさらにレベルアップを果たすだろう。私は、ロープレと仏教から学んだそのような感覚を、子育てのなかに活かしたいと思っている。

贅沢な職業体験

 職業体験といえば、ちびっこ僧侶としてデビューする2年前に、職業体験テーマパーク「キッザニア」に連れて行ったことがある。キッザニアでは、ゲートを入った先のパビリオンで、パン屋さんやパイロットなど、憧れの大人の姿になり切ってお仕事を体験することができる。職業の数は約100種類も用意されている。お仕事をしたら専用通貨「キッゾ」で給料が支払われ、貯めるとキッザニア内のお店で商品が買える。遊びながら社会の仕組みが学べるテーマパークになっている。

 私の子供たちも、電車の運転士の格好をしてハンドルを握ってみたり、消防士になって放水してみたり、舞台女優になってみたりと、日頃知ることのない大人の世界を少しだけ垣間見られて大興奮の時間だったらしい。「また行きたい」と何度もせがまれた。

 ただ、キッザニアでの体験をあまりけなしたくないが、いささか虚しさを覚えなくもない。あくまでその日かぎりのバーチャルな体験だからである。帰宅してしまえば思い出以外にはなにも残らない。それに比べ、住職の長男が檀家参りするという職業体験はリアリティのレベルがまったく違う。檀家さんからの期待が高まれば、かつての私のようにストレスを感じて「俺の人生を勝手に決められてたまるか」と反抗したくなるときもあるだろうが、そこまで含めてこそ、まっとうな職業体験といえるのではないか。

 そんな風に書くと、批判の声が飛んできそうである。「お寺の子供にしかできない贅沢な時間の過ごし方であって、日本の大半を占めるサラリーマン家庭には不可能である」と。だからこそ、「職業体験テーマパークが流行るのだ」と。

 しかし、私だって、気楽に子供連れで読経にでかけているわけではない。まだ6歳の未就学児のリアル職業体験を成功させるには、相当な気苦労が絶えない。

 最初の頃は「ここなら少々のやんちゃも許してくれるだろう」とシミュレーションを重ねて臨んだ。読経が無事に終わっても、道中のトイレの心配もある。ご年配の男性ひとり暮らしで散らかっている家だと、トイレを借りにくかったりもするから、お寺を出る前に最後の一滴まで絞り出しておくように命じるなど、細心の注意も払った。それでも「我慢できない」という事故もあった。

 仏壇のなかのお菓子や果物が、ご本尊やご先祖のためのお供え物だということもわからないから、「あ、みかん、大好き!」などと口走ってしまう。想像の斜め上をいく発言に私は血の気が引く。檀家さんは「坊ちゃん、全部持って帰って!」と気を利かせてくれるが、私としては申し訳なくてたまらない。

 お布施をいただくときの神妙な空気も、子供には伝わらない。読経してお茶をいただいたら、「ありがとうございました」というお礼の言葉とともに白い封筒が差し出される。それを私が「(だん)()()(みつ)()(そく)円満(えんまん)(お布施の功徳が満ちあふれますように)」と唱えながら恭しく受け取る。檀家参りのなかでは読経のときと並んで、空気がピリッと引き締まるはずの瞬間なのだが、息子は私がムニャムニャ唱えた言葉でふと閃いたらしい。「えんまん」という最後だけを聞き取って、「え? なにまん? 肉まん? 豚まん?」と即座に合いの手を入れる。引き締まった空気がゆるむ。檀家さんは「可愛いわねぇ」という温かいまなざしを送ってくれても、私は内心カッとなっている。玄関を出て二人きりになったら「あのタイミングで肉まんは明らかに関係ないでしょ」「封筒に肉まん入ってるとでも思ったの?」とたしなめたが、私が「肉まん」を連呼するあまり、息子にはかえって「肉まん経」としてインプットされてしまったらしい。私がお布施を受け取るのをニコニコしながら見るようになった。

 冷や冷やする出来事がいくら続いても、私は子供を連れて読経に出かけて行った。そうするようになった発端は、インフルエンザによる休園だったが、幼稚園が再開されて以降もまったくやめようと思わなかった。幼稚園や小学校の教室のなかから見えない世界を、見せてやれば、子供にとって大きな刺激になるだろうと信じたからである。

 

*次回は、11月17日金曜日に更新の予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

池口龍法

僧侶。浄土宗・龍岸寺住職。2児の父。1980年兵庫県生まれ。京都大学卒業後、浄土宗総本山知恩院に奉職。2009年、フリーマガジン「フリースタイルな僧侶たち」を創刊。2014年より現職。念仏フェス「超十夜祭」や浄土系アイドル「てら*ぱるむす」運営などに携わる。著書に『お寺に行こう!  坊主が選んだ「寺」の処方箋』が、共著に『ともに生きる仏教 お寺の社会活動最前線』がある。『スター坊主めくり 僧侶31人による仏教法語集』の監修もつとめる。Twitter: @senrenja

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