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住職はシングルファザー!

2024年3月15日 住職はシングルファザー!

18.孤独と仲良くつきあう

著者: 池口龍法

28歳で結婚。2児の父となったお寺の住職が、いろいろあって離婚。シングルファザーとしての生活が始まった。読経はお手のものだが、料理の腕はからっきし。お釈迦さまも、オネショの処理までは教えてくれない。かくして子育ての不安は募るばかり……。一体どうやって住職と父親を両立すればいいのか!? 「浄土系アイドル」「ドローン仏」などが話題の、京都・龍岸寺の住職によるシングルファザー奮闘記!

学校からの呼び出し

 かくして、悪戦苦闘しながらも私なりに工夫してユーモアのある子育てを試み、なんとか親二人分のしつけを果たしていたのだが、これが実は後年に思わぬ事態を招くことになる。

 ごまかし癖がなかなか抜けなかった長男だったが、小学5年生になったぐらいからようやく顔つきが変わった。心を入れ替えようとしている節が見えた。ちょうどその頃、学校の担任の先生から電話がかかってきた。「息子さん、忘れ物をしたりしたことを、お父さんにうまく相談ができなくて悩んでる様子なので、放課後に学校に来てもらえませんか」という話だった。忘れ物キングとして学校でも名を馳せていたから、担任の先生から電話をいただくことは過去にもあったし、私は「またか…」というぐらいの軽い気持ちで学校へ行った。

 職員室を訪ねると、担任の先生だけではなく、わざわざ教頭先生までも出てこられて、一緒に別室に通された。ただならぬ異様な空気である。

 「お父さんのことをどうも怖がってるようなんです。詳しく聞くと、悪いことをしたらご飯抜きにされたり、叩かれたり、汚い言葉でののしられたりするから、それが怖いんだと」

 今日の話し合いのターゲットは、息子ではなく、私だった。先生たちは、私の教育の仕方が児童虐待に当たるのではないか、と明らかに疑っていた。「場合によっては児童相談所にも連絡することも考えます」とも言われた。

 「なんでもかんでも先生に正直に言うなよ」と息子の素直すぎる性格を恨んだ。

 私自身も、いくらしつけの意図があるにせよ、子供を叩くと現代の教育ルールでは体罰と疑われることは知っていた。加えて、ご飯を抜きにしたり、厳しい言葉で叱って私のことを怖がっている状況なら、そのように指摘されても仕方がない。

 でも、私の言い分も聞いてほしいところがある。

 「嘘をついたらご飯抜き」に関しては、私が設けたルールではない。勢い余ってのこととはいえ、子供が自分で言い出したルールである。ご飯抜きにしたらお供え物のお下がりを食べていたことまで、先生は知らない。だから、「かくかくしかじかの経緯で、我が家では嘘をついたらご飯抜きなんです」と説明したが、「ご飯抜きはやめてください」とピシャリと言い切られ、まったく聞き入れてもらえなかった。

 これは悪あがきをしないほうがいいと判断し、「そうですね、怒って締め付けるよりも、正しく生きたいという本人の気持ちを大事にしたほうがいいですね」と私は言った。率直な気持ちではあった。以前なら、何度こっぴどく怒られても懲りなかった長男だったから、怒られることを恐れているだけで、私は感激していた。自分の感情を整理して先生に伝えられたのも、大きな成長だろうと思った。

 「叩かずに言葉で注意するようにします」「ご飯抜きの習慣は今回を機にやめることにします」と約束した。しかし、怒ったときの言葉遣いは、つい素が出るもの。「アホか」「ボケ」「死ねコラ」といった荒々しい言葉も身近に飛び交う環境に育ったので、カッとなったときには日頃かぶっていた猫がはがれる。「気を付けますが…」と伝えたが、改められる自信はなかった。

 先生たちは、態度を改める気配があることに、ともかくも及第点をくださったようだった。「お子さんを誉めて伸ばしてあげてください」「叱りつけても一定の抑止効果しかありませんから」と助言をいただき、「お父さんだけで育てていくのは大変ですよね」とねぎらってもらった。

 私は先生の言葉に相槌を打ちながら、現代の学校教育のスタンダードと、我が家の教育の在り方とまるで違うなぁと感じていた。

修行道場の「罰礼」

 学校からの帰り道を歩きながら、時代錯誤のレッテルを貼られた子育てに、どういうわけか心の底から反省しようと思えない理由を、私はつらつらと考えた。

 私が子供の頃なら、宿題を忘れたり、授業中やかましくしたりしたら、「後ろに立ってなさい」と怒られるのは当然のことであった。これがいまや、文科省の体罰禁止に関するガイドラインによれば、「肉体的苦痛を与えるようなもの(正座・直立等特定の姿勢を長時間にわたって保持させる等)」に該当するから、体罰だとされるらしい。

 もう20年以上前だが、修行時代にも罰は存在した。たとえば、禁止されているお菓子やお酒などを持ち込んだりしたことが発覚したら、没収されたうえで「罰として礼拝(らいはい)30回!」とか「50回!」などと命じられた。これを「罰礼(ばつらい)」という。

 礼拝は、仏さまに向かって「南無阿弥陀仏」を唱えながら合掌姿で立ち上がり、そして、座って頭・肘・膝をベタッと畳につけていく。1回や2回ならいいが、回数が増えると若い人でも足腰がふらふらになる。礼拝と言わずスクワットと呼ぶ修行仲間もいた。

 しかし、礼拝それ自体は、古くから伝わる仏道修行のひとつである。修行道場が無事に終わったときなどにも、「仏さまへの感謝の思いを込めて礼拝!」と言われる。この場合は「御礼礼拝(おれいらいはい)」という。名称こそ正反対だが、実践する内容はまったく同じで、いくら感謝を込めてもスクワットのような動作を繰り返すしんどさは変わらない。違う点があるとすれば、礼拝が済めばようやく家に帰れるという希望の光があることぐらいだろう。

 要するに、どんな趣旨で行う場合にも、礼拝行はつらい。罰礼は現代なら「体罰」とされるのかもしれない。でも、御礼礼拝までなくなると、修行生活が味気なくなるのは間違いない。なにが体罰に該当するかの線引きは、案外難しいと思う。

仏教的教育は、前時代的?

 私が怒るときの言葉が荒々しいのは、育ちによるところもある。だが、それよりも理由として大きいのは、日頃読んでいる経典の言葉が実はかなり過激だからだろう。

 仏教では、「人間は煩悩ゆえに生まれ変わっても苦しみを受け続ける」とか「罪を犯したら地獄へ堕ちる」とか、壮大な脅し文句で人間をふるえあがらせてきた。しかも、「お釈迦さまの言葉だから信じなさい」と有無を言わさない。地元で飛び交っていた言葉より、経典の言葉のほうがよほど乱暴である。

 しかし悪意はない。人間の心は弱く、つい楽な方に流れがちだから、恐怖感を植え付けてでもまっとうに生きるように習慣づけたほうがいい。これは、人間の心を育て、円満な社会生活をもたらすための、仏教的な知恵だといえる。

 つまり、仏教的な見地からすれば、極端なまでに身体の姿勢を調えたり、言葉によって強烈に心を刺激したりして初めて、揺れ動きやすい心は穏やかになる。もちろん、度を過ぎてはいけないし、体罰や虐待を推奨するつもりではないことは断っておく。

 これが前時代的な考えだと言われればそうなのかもしれない。しかし、学校も習い事の先生も叱ってくれない時代であるがゆえに、なんとかお寺で厳しくしつけてほしいというニーズは強く感じる。檀家さんが小さな子供を連れてお墓参りに来たときに、「お前ちょっとやんちゃが過ぎるから、お寺で修行させてもらえ」と脅され、私も「2、3日修行していくか」と追い打ちをかけるのは、定番のやり取りである。

 葬式のときに、「亡くなられたおじいさんの行き先は閻魔さまの裁きを経て決まります。嘘をついたら舌を抜かれ…」と法話すると、子供たちは血の気が引いている。その横でご両親はニヤニヤが止まらない。

 もっとも、自分の子供が忘れ物ばかりで学校の先生に迷惑をかけ続けている現状で、私が仏教的教育を声高に主張しているのは、はなはだ筋違いのようでもあるのだが、ついつい僧侶としてそのような言い訳のひとつでもしたくなる。

弟と対照的な姉

 怒られっぱなしのおっちょこちょいの弟とは対照的に、姉のほうは学校では優等生キャラで通っていた。しかし、根っからの優等生だったわけではなく、そう演じることで多くの大人がチヤホヤしてくれることを見抜いていた。よく言えば人の心の機微を知っているということになるが、ませているとも言える。

 離婚に至るまでの波乱を目のあたりにし、心にダメージも負ってきた分、大人に対して冷めているところもあったのだろう。「お父さんが離婚したから、小説読んだときに主人公の気持ちがよくわかる」と喜べるほどに、小学生にしてすでに人生を達観していた。

 勉強は真面目に取り組むよりもいかに手を抜いてごまかすかに全力投球していたが、それでも国語の点数は常にずば抜けていて、その点数は私にとって離婚したことがマイナスばかりではないことを示す免罪符でもあった。もう少し先生を信じて学業に精を出してほしいという気持ちも抱くが、私自身が先達を信じるよりは自分で考えて正しいことを優先して生きているので、どうも娘を責めることはできない。むしろ私の子供らしいと褒めてあげたくなる。

孤独は慣れるもの

 ひとりでの子育ても、2年、3年と経つ頃には、ずいぶんスキルアップして過酷な状況にも対応する力がついてくる。離婚したての頃は、「仕事のキリが悪いのになんで夕食の支度せなあかんねん…」と愚痴を吐きたいときもあったが、いつしかそういう不自由な生活も当たり前になっていた。シングルファザーの孤独にも徐々に慣れてきたのかもしれない。

 だからといって、いつまでも孤独感は消えない。子供たちふたりが社会人になるまで絶対に元気でいなければいけないという恐怖は、常に襲い掛かってくる。

 ふと思い当たった言葉がある。

 「犀の角のようにただ一人歩め」

 原始経典「スッタニパータ」に記される有名な警句である。王族の跡取りだったお釈迦さまは、その地位と妻子を捨てて出家し、さとりを開いたのちも定住せず、80歳で生涯を終えるまで遊行(ゆぎょう)の旅を続けた。そのお釈迦さまの生き様のごとく、心を惑わす娑婆(しゃば)世界のいとなみからはできるだけ距離を置き、正しく生きるようにつとめなさいと戒めている。「孤独感の克服」を奨める言葉、あるいは、「精神的自立」を促す言葉として、よく引き合いに出される。

 以前から好きだった言葉で、孤独なときに思い出すと背中を押してくれる気がした。だが、洪水のように孤独感が押し寄せてくるシングルファザー住職の日々を経て、言葉の味わい方が変わった。

 よくよく考えてみると、ひとり親家庭の親にかぎらず、どんな人も孤独感は解決しようがない。誰にもやがて寿命は訪れ、そのときには妻も子供も遺してひとりで死んでいかなければならない。生きているあいだも、ひとりとして同じ人間はいないから、自分の感情を百パーセントわかってくれる他人はいない。

 しかし、人は孤独だと思うと不安になる。ついマジョリティのほうに立ちたくなるし、マイノリティのほうにいても自分の苦しみを理解してくれる仲間がほしくなる。だが、それは孤独を見えなくするだけである。

 私も例外ではなかった。

 離婚前は、夫婦とそのあいだにできた娘と息子の4人暮らし。どこにでもある家族構成だった。人間とは単純なもので、ありふれた生活をしていると、そこに幸せがあるわけでもないのに安心感を覚える。それが離婚してひとり欠けただけで、一気にマイノリティになるのだから、この社会はいい加減なものである。

 ましてや、お寺の住職をやりながら、シングルファザーとして子育てに励んでいるというレアな人は、親戚や知人はもちろんのこと、ネットでいくら検索しても出会えなかった。これからどう人生を設計すればいいのかを考えようにも、追いかけたい背中はひとつも見えなかった。

 でも、ずっと孤独を感じているうちに、孤独であることが日常になった。孤独慣れしたのである。そして、人生が終わるまでどうせ孤独から逃げられないのなら、この感覚と仲良く付き合っていくほうが楽だなぁと達観できるようになった。シングルファザー住職という、世にも珍しい年月を経たおかげで、ずいぶんたくましくなったものだと思った。

 

*次回は、3月29日金曜日更新の予定です。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

池口龍法

僧侶。浄土宗・龍岸寺住職。2児の父。1980年兵庫県生まれ。京都大学卒業後、浄土宗総本山知恩院に奉職。2009年、フリーマガジン「フリースタイルな僧侶たち」を創刊。2014年より現職。念仏フェス「超十夜祭」や浄土系アイドル「てら*ぱるむす」運営などに携わる。著書に『お寺に行こう!  坊主が選んだ「寺」の処方箋』が、共著に『ともに生きる仏教 お寺の社会活動最前線』がある。『スター坊主めくり 僧侶31人による仏教法語集』の監修もつとめる。Twitter: @senrenja

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