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私の同行二人――ふたたびの四国遍路

2024年4月15日 私の同行二人――ふたたびの四国遍路

第4回 歩き遍路が抱えているもの

著者: 黛まどか

俳人・黛まどかは、とてつもなく「歩く人」だ。これまでも国内外の巡礼の道をいくつも歩いてきた。これという定かな理由はない。ただ、仕事と暮らしに追われる日常の中、ときに無性に歩きだしたくなる。旅に出たくなるのだ。今回は二度目の四国八十八ヶ所霊場に加えて別格二十霊場、併せて百八か寺・1600キロを二か月かけて歩く。ときに躓き、道に迷いながらも、歩いて詠む、歩いて書く「同行(どうぎょう)二人(ににん)」の日々――。

タトゥーの巨漢の無垢な笑み

 終始他者に気を配り、控えめな智恵さん。どれ程の悲しみを抱えて遍路にやってきたことだろう。「お母様が守ってくださっていますよ」「こちらに来てからそう思うことが度々あります」。

 私は自分自身のことを話した。三年前に父を亡くしたこと。父への思慕と喪失感が今もふいに突き上げてくること。悲しみは時間では解決しないと思っていること。そして父に守られていることを折々に実感していること、など。首に巻いたタオルで額の汗を拭ったあと、彼女が言った。「歩き遍路で何も抱えていない人なんていないと思います」。

 男性二人は立ち止まって私たちが追いつくのを待ってくれていた。焼山寺(しょうさんじ)への途中にある柳水庵(りゅうすいあん)で少し長い休憩を取り、一旦下ると、今日二つ目の山を登りはじめる。一生分と言えるほどの汗をかいた。

四国遍路の難所・焼山寺に至る、つづら折りの山道

 藤井寺から歩くこと8キロ、標高745メートルの浄蓮庵(じょうれんあん)に着いたのは正午少し前だった。石段の先に杉の古木(左右内(そうち)の一本杉)を背にした大きな大師像が待つ。「よく来たな」とでも言っておられるように。左右内の一本杉は途中から幾本にも分かれた幹が八方に枝を張り、光背のようにも火焔のようにも見える。

浄蓮庵の弘法大師象

 六年前、初めてこの大師像に迎えられた時の感動…大きな腕で抱きしめられたような安心感。お大師様はすべてを見ておられる、常に遍路を導き見守ってくださっているという確信を得た瞬間の、あの感動に再び包まれた。

 広げる昼食は宿で作ってもらった弁当だ。「あ、これも立ってる!」横浜の男性がスマホを一つ一つ掲げて電波状況をチェックする様子を、おにぎりを頬張りながらみな微笑ましく見ている。

 浄蓮庵からは登った道の半分くらいを一気に下り、三つ目の山を標高706メートルの焼山寺まで一気に登る。“阿波青石”と称される緑石(りょくせき)片岩(へんがん)がむき出しになった山道は滑りやすく足元から目が離せない。

焼山寺山道の阿波青石

 前回よりもきつく感じられるのは暑さのせいだけではないだろう。コロナですっかり落ちた体力を痛感する。「ひえ~っ!」若い男性が悲鳴を上げた。「あとどれくらいですかぁ?」デジタルデトックスを薦めておきながら、すっかりアプリを頼りにしている。「距離ではあと800メートル程ですが、等高線の感覚が狭いのであとどれくらい時間がかかるかはわかりません」。

 もうおしゃべりをする余裕は誰にもない。ただ杖の音と鈴の音を響かせながら、汗をかき身体を動かし続ける。黙れば黙るほどこの一見バラバラな四人は溶け合い、繋がりは深まっていく。

 2時45分、杉の巨木に囲まれた焼山寺の山門にようやくたどり着いた。先にふれた役小角(えんのおづぬ)によって開基された。弘法大師が修行した虚空蔵(こくうぞう)求聞(ぐもん)持法(じほう)にちなみ、虚空蔵菩薩を本尊に祀る。虚空がすべてを蔵するように無量の福徳・智慧を(そな)えて、大宇宙の如く大きな功徳で衆生を救う菩薩だ。 

 求聞持法というのは、虚空蔵菩薩を本尊として修する行法で、定められた期間に真言を百万回唱えることによって、記憶力を増大させることができるとされる。ここは、四国遍路の元祖とされる衛門三郎終焉の地でもある。

 ここで石段を下りてきた巨体のタトゥー男性と再会した。「もうすぐだよ!」。彼もまた全身汗まみれで足を引きずっていたが、髭面の中から赤ちゃんのような無垢な笑みをこぼして言った。

 参拝の後は、今日の宿「すだち庵」まで下るだけだ。最初の遍路ころがしを無事終えた安堵感で、栗を拾ったり写真を撮ったりとピクニックのようになった。宿に着いたのは5時過ぎだった。

 コロナ以前から経営者の高齢化により、多くの遍路宿の存続が危ぶまれている。2019年に大阪から移住してきたご主人は、クラウドファンディングで資金を募り、一時閉鎖されていたこの宿を改修し再生した。

 この場所に宿がなくてはお遍路さんが困る。かつて自身も遍路を経験した主人の遍路への謝意だ。一期一会が多い遍路では、恩は返すのではなく次に送るものと言われる。いわゆる「恩送り」だ。

 ニューヨーカーの彼は先に宿に着いていた。名前はリッチー。タトゥーが大好きで、常に新しいものを施していたいのだそうだ。この後日本で新たにタトゥーを入れていくのだと嬉しそうに語った。

 遍路でなければ彼のような人物と知り合うことも、親しく話をすることもないだろう。だいいち出会ったとしても、声をかけることはなかった。都会で日常に流されていると、すべての感覚が閉じている。しかし四国の自然の中を歩いていると、五感や心が開いていくのを実感する。何に対してもオープンになれるのだ。これも遍路ならではだ。

 小さな食堂で数人ずつ入れ替え制で夕食のカレーを食べる。私たち四人は後半のグループになった。共に焼山寺を打った同士、話が盛り上がる。「三つ目の山を登りはじめたときにはふらふらでしたよ」「遍路ころがしでポケモンしてるし!」「でもアプリ情報に助けられたよね」。身体は疲れ切っているが、達成感も手伝ってかみんなハイテンションだ。

 「さあ、もう10時です。お遍路さんは寝る時間ですよ」。ご主人に促されてお開きとなった。

顔から転んで、意識が飛んだ

 翌朝、日本人だけで宿を出発。私を除いて皆若い。少し歩いたところで宿の車が追いついた。助手席にはリッチーが身体を小さくして座っている。膝を傷めてしまいこれ以上歩けないようだ。「あら、もうお遍路を止めるの?」肩をちょんちょんと突いてからかうように言うと、彼はますます身を縮めて、子供のようにはにかんで頷いた。

 玉が垰(たまがたお)を登り神山町の集落に出たところで霧雨が降り出した。一斉にレインコートを取り出して羽織るが蒸し暑くてたまらない。今日の最高気温は34℃の予報だ。

 前回、桃源郷のように美しかった神山町の風景は、濃い霧に覆われていた。おばあさんと座って話をした納屋や板状の阿波青石を噛ませた野面積(のづらづみ)の石垣はそのままだ。立ち込める霧襖(きりぶすま)の奥で威銃(おどしづつ)の音がいんいんと(こだま)している。

 若者たちは、歩いた距離でビットコインが溜まるアプリやロードショー中の映画を徳島市内で観る話を愉しそうにしている。金剛杖に“エアタグ”を付けている人もいる。失くしたり忘れたりした時にスマホから位置情報が取得できるという。

 スマホを使ってはいるものの、その機能を十分に生かしている自信はとてもない。即座に新しいものを使いこなす今どきの若者たちを前にして、なんだか私一人が違う時代を歩いているようだ。道が下りになるとサポーターを巻いた右膝が猛烈に痛みはじめた。

 雨が止み日が照りはじめた車道を鮎喰川(あくいがわ)に沿って進む。木蔭は少ない。気温がぐんぐん上昇している。「あと2キロ程で行者野橋です!」スマホを手に横浜の男性。やがて行者野橋に出た。別格霊場の二番目を打つ私はここで皆と別れる。若い女性が持参したタイマー付き自撮り棒で記念撮影をした。たった二日間のご縁だが苦楽を共にした仲間だ。幾度も振り返っては手を振り合った。

 一人になった。ほっとしたようでも、心細いようでもある。ようやく本来の遍路になった気がした。よろしくお願いします…心の中でお大師様にあらためて挨拶をする。

 全長641メートルの新童学寺トンネルは暗く歩道が狭い上に、大型トラックがひっきりなしに通る。ごんごんと響く騒音に噎せるような排気ガス、大型車が傍を通り過ぎる度に風圧で飛ばされそうだ。接触事故など命の危険を伴うトンネルは、現代の“遍路ころがし”だ。トンネルを出た途端に緊張感から解放された。

 別格札所を歩いて打つお遍路さんはあまりいないため、道標も少なくわかりにくい。車道を逸れて細い道に入るとたちまち道に迷った。「童学寺さん?」猫車を押したおばあさんに尋ねると、丁寧に道順を教えてくださった。便利なアプリがあればそれに頼ってしまうが、なければ通りすがりの土地の人に訊く。そこに遍路ならではの一期一会が生まれる。

 途中の墓地で何家族かが墓掃除をしているのを見て、明日が彼岸の中日であったことに気づいた。そこここの店先で高野槙が売られているのを目にするのもそのためだろう。

 童学寺は、弘法大師が幼少時に長く逗留して学問修業をした地だ。また「いろは歌」をつくって子供たちに教えたという伝説もある。「PayPayでの納経料のお支払いはお断わりします」納経所の貼り紙を見て、さっき別れた彼らの顔が浮かび、くすっと笑った。

 宿を目指してふたたび国道を進む。途中二度ほどコンビニに飛び込んで休憩し、西に傾きかけた日を浴びながら歩き続けた。

 ところが、宿まであと1キロ弱というところでガソリンスタンドの溝に足先が引っ掛かり、派手に転んだ。両手に杖を持っていたため手が出ず、顔から突っ込んでいった。目から火花が散り、一瞬意識が飛ぶ。

 「お遍路さん、大丈夫ですか⁈」見ていた人たちが駆け寄ってくれた。口の中に血が広がっていくのがわかる。これで遍路は終わりだ…ショックと痛みで起き上がれない。

 衝撃で飛んだ眼鏡を女性が拾い、身体を起こしてくれた。「頭打ってたな? 救急車か?」。その声に突然妙な“お遍路根性”が頭をもたげた。いま救急車で病院へ行ったらお風呂に入れない、洗濯もできない…。「救急車は呼ばないでください」やっと声が出た。近くの脳神経外科が休診日とわかり、ひとまず女性が宿まで車で送ってくださることになった。

 

*次回は、4月29日月曜日更新の予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

黛まどか

俳人。神奈川県生まれ。1994年、句集『B面の夏』で第40回角川俳句賞奨励賞を受賞。2010年4月より1年間文化庁「文化交流使」として欧州で活動。スペイン・サンティアゴ巡礼道、韓国プサン―ソウル、四国遍路など踏破。「歩いて詠む・歩いて書く」ことをライフワークとしている。オペラの台本執筆、校歌の作詞など多方面で活躍。現在、北里大学・京都橘大学・昭和女子大学客員教授。著書に、句集『北落師門』、随筆『暮らしの中の二十四節気』など多数。(「黛」は正しくは「代」に「黑」)

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