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住職はシングルファザー!

2024年5月17日 住職はシングルファザー!

最終回 「弱くても大丈夫」――阿弥陀さまのおかげ

著者: 池口龍法

28歳で結婚。2児の父となったお寺の住職が、いろいろあって離婚。シングルファザーとしての生活が始まった。読経はお手のものだが、料理の腕はからっきし。お釈迦さまも、オネショの処理までは教えてくれない。かくして子育ての不安は募るばかり……。一体どうやって住職と父親を両立すればいいのか!? 「浄土系アイドル」「ドローン仏」などが話題の、京都・龍岸寺の住職によるシングルファザー奮闘記!

いまさら阿弥陀信仰に出会う

 仏教では、「自業自得」、つまり、自分の行動の報いは自分で受けるという世界観が前提になっている。この考え方は、自分の行動の責任は自分で取るべきだといういわゆる「自己責任論」に近い。

 自己責任論は、自分自身の能力を発揮して成功を勝ち取ることを促す。この側面だけを見れば自己責任論は美しいが、その反面で、能力を発揮できずにもがいている人たちに劣等感を与えることにつながりかねない。うまく生きられないのが仮に本人の努力不足ゆえであれば改善のしようもあるが、育ってきた環境に起因することもある。たとえば親の収入が乏しければ、十分な教育を受けられず、せっかく才能があっても持てる力を発揮できない―ひとり親家庭の親はこのような悩みに日々ビクビク怯えているはずである。

 仏教では、6年間の苦行を経てさとりを開いたお釈迦さまをお手本に、私たちも心をストイックに鍛えて完全な人格を勝ち取ることをいちおうの目標にしている。俗世とは切り離された場でのメンタルトレーニングの態度だから、自己責任論とは方向性が違うものの、自分で自分を追い込んで成果を求めていく感覚は、わりと近しい。

 ただし、決定的に違うところもある。勝ち組だろうが負け組だろうが、仏教では等しく土俵に立てる。「どうせお釈迦さまになんてかないっこない」と早々に白旗をあげたり、「弱い人間でもしょうがないじゃん」と開き直ったりする人にも、仏教は心の処方箋を用意している。

 日本仏教には「十三宗五十六派」と言われるさまざまな宗派がある。教義もその分だけさまざまあるが、ざっくりいえば、さとりを目指そうとする「強く生きよう」派と、救いにあずかろうと願う「弱くても大丈夫」派がある。

 最近流行りのマインドフルネスは、「いまここにある自分」を大切に思うところから、自己肯定的で前向きな精神を育んでいく。逆に、私が所属する浄土宗をはじめ、阿弥陀如来を御本尊に仰ぐいくつかの宗派では特に、「弱くても大丈夫」的な志向が強い。

 阿弥陀如来は、あらゆる人々―特に苦しみにあえぐ人々―を助けてくれる存在として経典に現れるからである。いわば「ごめん、阿弥陀さま、私の責任も取ってください!」と泣きついていい仏さまなのである。

 私は、シングルファザーになったときになんとか知恵をしぼって周りに迷惑をかけずに生きようとつとめてきたが、やっぱり限界はある。夫婦そろって子育てしている家庭に比べれば、子供にゆっくりと向き合ってやれる時間は少ない。仕事も片手間にしかできないから、どうしてもミスが出る。

 子育ても仕事もうまくいかないとき、「本当はもっとできるはずなのに」「また迷惑かけてしまった」とつい自虐的に思い悩んでしまう。悩んだところで、すでに百パーセント以上の力で日常をこなしているのにそれ以上の力が出せるはずもない。それは、ただ自分を追い込むだけだと、冷静な時にはわかっている。

 でも、不意をついて「朝寝坊してしまった」「月謝袋を持たせるのを忘れた」と痛恨の瞬間が訪れるから、「またやってしまった…」と心の傷がさらにえぐられる。いや、ミスを犯していないときでも、なにか大事なことを忘れていそうな気がして、不安感に常につきまとわれている。

 それでも、不安という得体のしれない「同居人」と共同生活を送っているわりに、私はどこかあっけらかんとしている。精神をわずらうほど追い詰められたことはなかった。おそらくは、浄土宗の「弱くても大丈夫」という空気のなかで暮らしてきたおかげである。

 ただし、あいにく経典には、「いますぐ救う」とは書かれていない。阿弥陀如来の救いが訪れるのは、私たちがこの世の命を終えるときで、きちんと拝んでいればご褒美に極楽浄土に迎えとってもらえるらしい。究極の()らしプレイである。だから、いますぐすべての苦しさを引き取ってもらおうとするのはお門違いで、阿弥陀如来を信じて試しに「南無阿弥陀仏」と唱えても、当たり前だが現実はなんにも変わらない。

 でも、それでいいんだと思う。すべて自分で責任を負うのは苦しい。かすかにでも守ってくれる光を感じられたら、それだけで心はずいぶん楽になる。素直になれる。こんな自分でも守られている。生きていていい。浄土宗の僧侶になって20年が経つが、いまさらながら阿弥陀信仰、すごくいい。

離婚さえもプレゼント

 そういえば、浄土宗のお坊さんたちは法話するとき、「自力では助からない私たち凡夫のために他力の教えがある」と口癖のように語っている。他力とはよく誤解されるように「人任せ」ではなく、阿弥陀如来の力である。すべては阿弥陀さまに任せてお念仏のなかに生活を送る。それが浄土宗の模範的な生き様だとされる。

 でも小さい頃から何十回何百回と同じ話を聞いてくると、やっぱり飽きる。大事なくだりとわかりつつも、「ああいつものやつね」とスルーする癖がついていた。加えていえば、自分の力を信じていたせいで、他力の教えが私の心に響かなかった事情もあるだろう。

 私の大学受験の前、父は「合格したら阿弥陀さまのおかげ。不合格でも阿弥陀さまのおかげや」と諭してきた。「ええ加減な…」「せっかく真剣に頑張ってるのに気が抜けるやん」と思っていた。父の言いたかったのは、「受験に合格したっていい先生との出会いがあるかわからない」「不合格でもその先に幸せなめぐり合わせが待っているかもしれない」ということだった。受験前の重圧を和らげようという優しさは感じたものの、切り札の阿弥陀カードを乱用しすぎではないか。

 しかし、20年以上の年月が経ち、その「阿弥陀さまのおかげ」を今ようやく素直に受け入れている自分がいる。

 両親の「お寺の奥さんには向かない」という反対を押し切っての逆風の結婚も、やっぱり「お寺の奥さんには向かない」がゆえに至った離婚も、お寺の住職をしながらひとり親家庭を生き抜く波乱の日々も、すべて「阿弥陀さまのおかげ」なのかもしれない。

 もちろんお坊さんとはいえ心の底から「阿弥陀さまのおかげ」を百パーセント信じられるほどの聖人であるはずもなく、内心ではそんなにすっきり割り切れない。円満な家庭を築けていたらもっと仕事で成果を残せたはずだとしょっちゅう思う。別れた妻だけでなく、迷惑をかけた人たちの顔が、絶えずフラッシュバックする。

 私の父だって同じ思いだろう。結納金だって安い出費ではない。きっとうまくいかないと見通しつつ、私が連れてきた相手の両親にかしこまって挨拶するのも、親せきが集まった披露宴で取り繕ってにこやかに振舞うのも、絶対穏やかではない。だから、私が結婚を口走ったとき、本来喜ぶべき言葉を素直に受け止めきれず、「お寺の奥さんには向かない」と猛烈に反対してきた。

 でも、まあいいではないか。

 順風満帆な人生ばかりが、正解でもあるまい。

 私は逆風に耐えられずに見事沈没したわけだから、明らかなミスジャッジを呪うしかないが、穴の開いたポンコツの船で漂流している日々を経てずいぶんたくましくなったから、シングルファザー生活を前向きにとらえることもできる。そうであれば、離婚さえ阿弥陀さまからのプレゼントかもしれないではないか。

 高いお金を払って子供を塾に通わせているのに成績が伸びないと、つい怒り狂う自分がいまもいる。どうして「なんで真剣に勉強しないのよ!」「こっちは寝る間を惜しんで働いてんのに親を馬鹿してんのか!」と、お寺に暮らしていることや職業がお坊さんであることなど忘れて、暴言を吐いてしまう。

 でも、仮に受験に失敗したとして、どうだろうか。全力で「うわぁ残念」と子供を否定することはないと思う。顔はたぶん引きつっているけれど「よく頑張った結果や」という言葉を口にするぐらいの余裕はある。そして、「阿弥陀さまのおかげや」と付け加えて、子供をキョトンとさせるような気がする。

 皆さんも、「人生が思いどおりにならない」と自分を呪いたくなったら、「阿弥陀さまのおかげ」と思ってみたらどうだろう。きっと不幸のどん底でも少しポジティブになれるはずである。

(了)

 

*本連載は、2024年秋ごろに書籍化の予定です。ご愛読に感謝申し上げます。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

池口龍法

僧侶。浄土宗・龍岸寺住職。2児の父。1980年兵庫県生まれ。京都大学卒業後、浄土宗総本山知恩院に奉職。2009年、フリーマガジン「フリースタイルな僧侶たち」を創刊。2014年より現職。念仏フェス「超十夜祭」や浄土系アイドル「てら*ぱるむす」運営などに携わる。著書に『お寺に行こう!  坊主が選んだ「寺」の処方箋』が、共著に『ともに生きる仏教 お寺の社会活動最前線』がある。『スター坊主めくり 僧侶31人による仏教法語集』の監修もつとめる。Twitter: @senrenja

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