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私の同行二人――ふたたびの四国遍路

2024年7月1日 私の同行二人――ふたたびの四国遍路

第10回 口実ではない、発心を探し求めて

著者: 黛まどか

俳人・黛まどかは、とてつもなく「歩く人」だ。これまでも国内外の巡礼の道をいくつも歩いてきた。これという定かな理由はない。ただ、仕事と暮らしに追われる日常の中、ときに無性に歩きだしたくなる。旅に出たくなるのだ。今回は二度目の四国八十八ヶ所霊場に加えて別格二十霊場、併せて百八か寺・1600キロを二か月かけて歩く。ときに躓き、道に迷いながらも、歩いて詠む、歩いて書く「同行二人(どうぎょうににん)」の日々――。

「四国に試されている」

 三十五番清滝寺(きよたきじ)・三十六番青龍寺(しょうりゅうじ)と打ち、宇佐の宿に入ると、元気の良い若女将が切り盛りしていた。最近では大女将は料理を作ることに専念し、あとのことはすべて若女将に任せているという。

 前日の宿も入院中の大女将に代わって娘さんが切り盛りしていた。遍路宿は世代交代の時期にきている。コロナ禍を機に廃業するところも少なくない。宿がなければ遍路は歩けない。遍路宿の危機は、歩き遍路にとっての危機でもある。

心尽くしの料理がならぶ民宿の夕食

 夕食は20代と50代の歩き遍路の男性と一緒だった。50代の男性は通しで二度目。遍路転がしや宿のことなど、自然と会話が盛り上がる。若い方は私たちの話に熱心に耳を傾けている。彼は仕事の合間に区切りで歩いている。都会的で線は細いが一日40キロ歩くそうだ。

 「何のために歩いているのか今もよくわからないんです」前髪を直しながら、若い男性が言った。「四国に試されているような気もします」。

 初めての遍路は2月だった。焼山寺の日は朝から雨が降っていて、地元の人に止められたが強行した。雨は途中で(みぞれ)になり、雪になった。くるぶしまで雪に埋もれながら一人山道を歩いていると、ネオンサインが次々と現れては消えた。幻覚だ。

 ()()うの(てい)で札所にたどり着いたが、以来「試されている」気がするのだそうだ。「宿に着いてお風呂に入った瞬間が最高に幸せなんですよね。その瞬間のためだけに毎日歩いている感じです」と苦笑いした。

 翌朝、土砂降りの雨の中を出立する二人を、気の毒に思いながら若女将と見送った。何のために歩いているのかわからない…。むしろ明確にわかっている人の方が少ないのではないか。

 みな“口実”ではなく、確固たる“発心(ほっしん)”を探してもがいている。私もその中の一人だ。そして、彼もまたサン・テーレなのだ。

 部屋に戻るとスマホが鳴った。俳人の姜琪東(かんきどん)さんだ。知り合って二十年になる長い知己だが、久しぶりの電話だった。

 「まどかさん、今どこにいるの?」「高知です」「高知のどこ?」姜さんは高知のご出身だった。「宇佐です」「僕の故郷は須崎です」「須崎なら明日通りますよ!」。姜さんの声がみるみる潤んでいく。「懐かしいなぁ…帰りたいなぁ。涙が出てくる」。

 

水汲みに出て月拝むチマの母   姜琪東

 

 在日二世として高知に生まれて育った姜さん。実家はもうないが、80代半ばになられて故郷を偲ぶ。

 それにしてもなんというタイミングだろう。姜さんは私が遍路にあることさえ知らずに電話をくれたのだ。つくづくと遍路は不思議な偶然に満ちていることを思う。一見つながりの見えないこの偶然も、“つづれ織り”の表から見ると美しい模様を描いているのだろうか。

 気が付くと3時間近く転寝をしていた。久しぶりにテレビをつけると、10月7日にアフガニスタンで多数の死者を出す大地震が起こり、イスラエルとガザ(ハマス)の間で戦争が勃発したようだ。

 これらもつづれ織りに喩えられるのだろうか。それでも神の側から見ると美しい織物に見えているのだろうか。天災や戦禍で命を落とす夥しい人々とその家族のことを考えると、つづれ織りが俄にレトリックにすぎないようにも思えてくる。考えようとしたが混乱するだけだった。

「空」と「実体」を行き来して

 翌日、辛うじて取れた宿は十数キロしか離れていないため、別格五番大善寺(だいぜんじ)を打った後で土佐(とさ)新荘(しんじょう)駅まで歩き、電車で宿の最寄駅多ノ郷(おおのごう)まで戻ることにした。大善寺では前年に大きな発見があった。弘法大師ゆかりの「二つ石」が発見されたのだ。

別格五番大善寺で最近発見された「二ツ石」

 かつてこの辺りは海に突き出た二つ石岬にあり、土佐の親知らずと呼ばれるほど海難が跡を絶たなかった。巡錫の折それを知った大師が岩の上で死者の菩提と海上安全を祈願し、一寺を建立したのが大師堂の起源だ。「二つ石のお大師さん」と呼ばれていた大善寺だが、土地の隆起や防潮堤の設置などで二つ石の所在はしばらく不明だったそうだ。

 四国には、大師が巡錫の途上で地域の窮状を知り、祈願したり、水を湧かせたり、土木工事をしたりして民を救った逸話がそこここにある。空海は隔たった場所で修行していただけではなく、地域に密着し、石となり、土となり、水となって今なお息づいている。千二百余年、空海が「お大師さん」と敬愛され続ける所以だ。

 翌朝、同宿だったドイツ人、デンマーク人、アメリカ人の女性たちと多ノ郷駅から電車に乗った。みな前日安和(あわ)まで歩いている。それぞれに遍路に来て四国で出会ったらしい。三人は声を揃えて日本語で言った。「おへんろ・ともだち!」。大笑いし、遠足のような騒ぎとなった。

多ノ郷駅で、外国人お遍路さんたちと著者

 私だけが一つ手前の土佐新荘駅で降りる。ワンマンカー先頭の降車ドアへと移動していると、見覚えのある顔が座席にあった。向こうも私の顔を見てはっとしたようだ。柿をくださった男性だ。白衣を着てすっかりお遍路さんに変身している。「あの時の!」男性は三十七番岩本寺のある窪川まで電車で行くと言う。「やっぱり会いましたね!」彼にとも自分にともなく言い、握手を交わした。

 土佐久礼(とさくれ)に入った。6年前の遍路では、町の外れに架かる橋の袂で、小田原にある私の母校の建設工事に携わった高齢の男性に遇った。大きな木の下だった。もしやまた会えるのでは、としばらく木蔭のベンチで待ったが、叶わなかった。

 誰もいない木蔭を眺めていると、あの日のことが空華(くうげ)のように思える。日々札所で唱えている般若心経が脳裏に去来した。

照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう)度一切苦厄(どいっさいくやく)舎利子(しゃりし)

色不異空(しきふいくう)空不異色(くうふいしき)色即是空(しきそくぜくう)空即是色(くうそくぜしき)

 五蘊とは人間をとりまく世界を構成する五つの要素のこと。色(形あるもの)、受(視覚・聴覚などの感覚)、想(表象・知覚)、行(意志・実行)、識(認識)、これらはそれぞれが固有のものというよりは、その時々の関係性やつながりの中で形を変えるという意味では「空」だ。

 人の営みは「空」であると見極めれば、苦悩や災厄から解き放たれると般若心経は説く。あらゆる物質的存在は、実体のない「空」と異なるところなく、実体のない「空」の世界は、目に見える物質存在の世界と異なることはない。実体は即ち「空」であり、「空」は即ち実体である。般若心経は、この世のあらゆるものに実体がないとする。

 現代人の日常では日々の仕事や人間関係などがまさに「実体」であり、それが「空」などとはおよそ考えもしない。「空」と言われても実感がない。しかし日常を離れ、毎日身体を酷使しながら般若心経を唱えていると、これがすべてだと思っていた「実体」が幻のように思えてくる。汗まみれのこの遍路こそが「実体」なのだ。

 たまたま6年前のあの日、あの時、あの場所に立ち寄ったから、おじいさんに会えた。おじいさんもまたそうだったから、授かった出会いであり時間だった。すべてが因や条件が寄り集まった関係性のなかにあり、縁起のなかで生じている。柿をくださった男性との出会いも再会もまた、縁起によってもたらされたものだ。私から見ればどれも掛け替えのない実体なのだが、いずれの邂逅も「実体」であり且つ「空」であるということなのだろうか。

 八幡通りの甘味処に入り、ところてんを注文した。おろし生姜と仏手柑(ぶしゅかん)がたっぷりと入ったところてんを食べて生き返った心地だ。「徳島はすだち、高知は柚子が多いけど、東高知は何にでも仏手柑や」店主のお薦めで、この季節しか獲れないメジカの新子と星鰹を市場で捌いてもらい、ごはんを買って休憩所で食べた。もちろん刺身にも仏手柑をたっぷりかける。

土佐久礼の市場にて。メジカの新子と星鰹に仏手柑

 ゲストハウスには私の他に三人の男性宿泊者がいて、夕方に顔を合わせた。明日の七子峠への道は、大坂遍路道、そえみみず遍路道、車道と三通りある。前回そえみみずを歩いたので今回は大坂遍路道を行こうと考えていた。ゲストハウスのオーナー女性も大坂遍路道を薦めた。

 ところが逆打ちの方はそえみみずを薦めた。今日大坂遍路道を来たがかなり荒れていたと言うのだ。悩んだ挙句、やはり大坂遍路道に決めた。40代の男性も同じ道を行くというので、荒れているところだけ一緒に歩いてもらえないかと頼んだが、翌朝市場で買い物をするので宿を出るのが遅くなるという。

 

お遍路の色なき風につまづける   まどか

 

 結局一人で出発した。しばらくは歩きやすい道を行ったが、山道に入った途端に嵐の後のように道が崩れていた。これが道? 前にも後ろにもお遍路さんはいない。逆打ちの方のアドバイスに従うべきだったか…。

嵐の影響で道が崩れた大坂遍路道

 仕方がない、自分が選んだ道だ。今更引き返すわけにもいかない。滑落しないように進むしかない。最後の梯子のようにそそりたった階段では、リュックの重みで何度も後ろにそっくり返りそうになる。無我夢中で登っているうちに、七子峠に出た。

 

*次回は、7月15日月曜日配信の予定です。

 

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

黛まどか

俳人。神奈川県生まれ。1994年、句集『B面の夏』で第40回角川俳句賞奨励賞を受賞。2010年4月より1年間文化庁「文化交流使」として欧州で活動。スペイン・サンティアゴ巡礼道、韓国プサン―ソウル、四国遍路など踏破。「歩いて詠む・歩いて書く」ことをライフワークとしている。オペラの台本執筆、校歌の作詞など多方面で活躍。現在、北里大学・京都橘大学・昭和女子大学客員教授。著書に、句集『北落師門』、随筆『暮らしの中の二十四節気』など多数。(「黛」は正しくは「代」に「黑」)

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