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土俗のグルメ

2024年8月16日 土俗のグルメ

最終回 そうめん論――空虚さの先にあるもの

著者: マキタスポーツ

書を捨て、メシを食おう――。有名店を食べ歩くのでもなく、かといってマニアックなジャンルを掘るだけでもなく、たとえ他人に「悪食」と言われようとも、あくまで自分の舌に正直に。大事なのは私が「うまい」と思うかどうか。情報や流行に背を向けて、己の「食道」を追究する――これ即ち、土俗のグルメである。自称「食にスケベ」な芸人が「美味しい能書き」を存分に垂れるメシ論。

そうめんの「快」

 今回でこの連載も最終回となる。最後に何を書こうかといろいろ考えてみた。考えすぎて、「逆算からのグルメ」というテーマで「便通」のことを書こうとしていた。“盛り付け”が上手くいった時の興奮を臨場感たっぷりに書こうとしていたのだが、止めた。どうかしていたのだろう。

 あくまで食べものについて書く連載なのだから、今まさに食べようとしていたメシのことを書くことにした。

 今、目の前にある日常のあっけらかんとしたメシ―それは「そうめん」であった。

 それにしても暑い。そんなことを言ってもしょうがないが、この暑さをただただ黙って受け止めるだけでは損をする。そして私は、あの言ってもしょうがない「あゝ、暑い」をつぶやきつつ、やっつけ気味に言うのである

 「そうめんぐらいしか食えないな」

 自分で言っておいてなんだが、「そうめんぐらい(・・・・・・・)」はないだろうと思う。そうめんの生産者にはヒラに謝りたい。しかし、人がそうめんを食べる時の態度は、大体こんな感じではないだろうか。それが、細やかな作業の繰り返しによって生まれる芸術作品のように精巧な食べものであるにもかかわらず。

 そうめんがすばらしいのは、どこか空虚なところじゃないだろうか。空虚だからこそ、日常のふとした瞬間に生まれる薄暗い溝にそっと入り込み、それを埋めてくれる。そうめんの生産者はそのことを本能的に知っていて、それゆえ麺の芸術性を高めているのだとすら思ってしまう。

 私は、そうめんには「快」を求めている。栄養も大事だが、その存在は「食」というよりどこかエンタメ的。イメージとしては、清涼飲料水のような本来的には必要ないけれど、欠くことができないものだと考えるのである。言わば、そうめんは「清涼食」。そうめんの存在しない世界は終わっている。私はそんなつまらない世界には生きていたくない。

 私の舌や喉、胃袋は、すぐ退屈したり、寂しくなったりする。そんな時、そうめんはこのわがままな私の舌や喉、胃袋をあやしてくれる、本当にありがたい存在なのである。

そうめんとリズム

 そうめんを寒い冬に食べてもよい。でも、こと夏に食べるそうめんは格別だ。

 箸でつまみ、麺つゆに浸し、その先端を唇にほんの少し付けてみる。するとどうだ、あっという間に「私」らしき主体はそれに吸い付き、意志とは関係なく、そいつを喰らいあげていく。その時の「私」は、おそらく“白目”になっているのだろう。

 暑さのせいで食欲は減退していた。しかし気づけば、もう残りわずか。その瞬間、私はようやく「ん? もう終わり?」と正気を取り戻す。そうめんを食べている間、何者かに私の操縦桿を握られていたような感覚が心地良い。

 特に、家族と一緒にそうめんを食べている時の私は、狂気に駆られた様子だそう。その様子を見ている家族には、気味悪がられる。たびたび起こるその様子を、食べ盛りの娘はこう表現する。

 「争うように手を伸ばし、そうめん→薬味→そうめん→七味→そうめん→天かす→そうめん、といった風に手数が止まない」

 「行き場を塞がれた幼体のエイリアンが、口に向かってウネウネと侵入するようだ」

 似たような経験がある。それは「音楽」を聴いている時である。とりわけ「リズム」に集中していると、「あゝ、あやされているなぁ」と実感するのである。

 「リズム」を数理的に読み解き感じる楽しみもある。しかし必要なのはそんな理屈ではなく、身体が“持っていかれる”その感覚だ。その瞬間、私は途轍もないロマンと人間の原初的な「切なさ」を感じるのだ。一定の拍子で何かが打ち鳴らされた時、それを本能的に感じる「私」を止めることはほぼ不可能だ。

 例えば、この世に生まれたこと、それ自体にどうしようもなく飽きてしまった時、リズムはそれを紛らわし、意識を遠くのほうに飛ばしてくれる。そして、それが終わった時に訪れる感慨。サンバ・カーニバルや初期のブルース、阿波踊りなど、演奏が止めば、素っ気なく終わる。その後にやってくる切なさ。「楽しかった」とじんわり思う感覚と「あれは一体なんだったのか?」と狐につままれる感じ。それとそうめんが同じだというのである。おわかりいただけるだろうか。

夏は「薬味セット」が大活躍

 しかしである。そんな恩恵を感じているそうめんだが、面倒な一面がある。それは食べた後の始末だ。

 そうめんをいただくのは意外と大事(おおごと)だ。薬味を切るまな板、おろし器、ザル、鍋、皿、お椀などなど、洗わないといけない食器類が多くなる。水も多く使うし、茹でた麺を締めるためには氷も必要である。そうした手間の割には、サクッと食べ終わってしまう。それが切ないし、虚しい。つまり「調理の手間」と「後片付け」に対して、食後の満足度のバランスが悪いのが問題なのである。

 こうした手間をほんの少し省くために、私は「薬味セット」を作っておくことにしている。以前も「薬味セット」のことは書いているが、大事なことなのでもう一度書く。

 「薬味セット」とは、ネギを中心に、大葉、ミョウガ、カイワレ、青唐辛子、パクチーなど(お好みでなんでも良い)を事前に刻んでおいて、タッパーやコンテナに保存しておいたものだ。これが特に夏場に大活躍する(清潔にして冷蔵庫で保存しておけば3、4日は保つ)。

 これが重宝するのは、そうめんだけではなく、味噌汁や納豆、肉や魚、何にでも便利に使える点だ。このセットがあれば、少なくともまな板と包丁を洗わなくて済む。そうすればいつもそうめんの食後に感じる、手間と満足度のアンバランスさに起因する若干の「腑に落ちなさ」が和らぐのだ。ぜひ試してほしい。

 最後に。

 ことほどさように、私はいつも食べもののことを考えている。考えようとしているのではなく自然に考えてしまっているようだ。ちなみに私はプロの料理人でも、飲食業の関係者でもない。でも食べもののことをいつも考えている。この原稿も、たまたま食べようとしていたそうめんについて書こうと思い、ほぼ推敲することなく一気に書いている(誇っているのではない)。

 「薬味セット」についても、誰から教えられたわけではない。若い頃の自分の(ふところ)事情や食欲とのバランスに苦心していた結果、思いついたものだ。それが楽しいというほどのことでもなく、皆に役立てようという気もない。

 「食べもの」に限らないが、私は「好きなもの」に関わったら無駄なく最後まで味わいたいと思う人間だ。その代わり興味のないことに関しては全く頭が働かないし、人として、あるいは社会人としてやらなくてはいけないことも面倒に思うタイプである。

 つい最近、狩猟、しかも罠猟をしている人の本を読んだのだが、そこにあった「山は情報に満ちている」というフレーズに目が留まった。私は山のことはわからない。漠然と「怖い」「緑が気持ちいい」ぐらいの認識しかない。しかしその罠猟のプロは、植生や光の当たり方、獣道や土石の種類など、山に詰まっている情報を読み解きながら行動していく。だから「飽きない(・・・・)」という。

 罠猟のプロと比較するのは憚られるが、私も猟に出ているような感覚で食べものの情報を掴んでいるのだと思う。スーパーの店頭に陳列されている食品から、家の冷蔵庫の中身、賞味期限や残りものとのマッチングを考え、必要なものを割り出していく。そして、何種類の料理ができて、それが何日分になるかを考えるのだ。

 その瞬間、おそらくどんな時よりも集中しているのだろう。しかも飽きない(・・・・)。買いものに行くまでが面倒なだけで、行けば時間を忘れて没頭している。

 その積み重ねの成果が、この「土俗のグルメ」という連載だとも言えよう。そしてそういう人間が、そうめんについて考えたのがこの最終回の原稿なのだ。

 話を強引にそうめんに戻す。そんなことをネチネチと考えている私が、夏の暑い盛りに一瞬の魂の浄化のためにいただく、幻のような食べものに抱く感慨を想像されたい。そうめんの細すぎる麺についても、思い切り悲観的に言えば、無意味以外の何者でもない。やはり空虚なのである。しかし、その空虚さに私は確実にあやされるのだ。

 本連載を読んでいただいてありがとうございました。退屈なあなたの暇つぶしになっていたら幸いである。

 

*本連載は、2025年早春に書籍化の予定です。ご愛読に感謝申し上げます。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

マキタスポーツ

1970年生まれ。山梨県出身。芸人、ミュージシャン、俳優、文筆家など、他に類型のないエンターテインメントを追求し、芸人の枠を超えた活動を行う。俳優として、映画『苦役列車』で第55回ブルーリボン賞新人賞、第22回東スポ映画大賞新人賞をダブル受賞。著書に『決定版 一億総ツッコミ時代』(講談社文庫)、『すべてのJ-POPはパクリである』(扶桑社文庫)、『越境芸人』(東京ニュース通信社)など。近刊に自伝的小説『雌伏三十年』(文藝春秋)がある。

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