1.「全ての道」が通じる場所へ
著者: ヤマザキマリ
約40年前、17歳の少女はイタリアへと旅立つ。背中を押したのは、敬虔なカトリック信者にして音楽家の母。異国での生活を前に動揺する少女に、400年前、遠くヴァチカンを目指した4人の少年たちの影が重なる――。科学と芸術、そして宗教が色濃く共存し続けるイタリアで培ったものとは、何だったのか。人生でもっとも貧しく苦しかった画学生としての生活と、自らの裡に沈殿していた“信仰”を告白。これまで封印していた記憶の扉をひらく、渾身のエッセイ。
1584年のリスボン、1984年のローマ
1584年8月、天正遣欧使節団を乗せたサンティアゴ号は、長崎を発ってから2年半の時を経て、漸くポルトガルのリスボンに到着した。
目的地まで本当にたどり着けるのかどうかその保証もなく、しかも長旅の間には壊血病などで何十人単位の乗務員が死んでいくのを目の当たりにしてきた四人の少年たちの視界にリスボンの街が見えてきた時、彼らが得たであろう安堵を想像するのは難しくない。ここまで来たらもう船が難破する危険性も、船内で病気を患う心配もないうえ、何より自分の力で自分の体を支えられる陸地に着地できるのだから、命拾いをした気持ちにもなったはずだ。
そして私は、彼らがその瞬間に得たであろう、もう一つの大きな安心感を推しはからずにはいられない。彼らはついに自分たちが大手を広げて、何に臆することなく、信じるものを共有できる仲間たちがいる土地にやってきたのである。洗礼という儀式によって自分たちが心身を委ねた神は日本では特殊なものと見做されているが、これから降り立とうとしている土地に暮らす人々にとって、その神は絶対的かつ唯一無二の存在なのである。国籍や人種は違っても、信仰や倫理が同じであれば齟齬や軋轢は生じない。何か困ったことがあれば、同じ神を信じる仲間としてきっと助けもしてくれるだろう。
甲板に立って接岸を待ち構えていた彼らの視線の先には、大航海時代の利益で建造された壮麗なジェロニモス修道院が見えていたはずであり、日本ではあくまでマイノリティでしかない宗教が、ここでは膨大な権力と支持を集めている世界の覇者であるという、強烈なインパクトも受けたに違いない。イエズス会の司祭たちは、日本では仏教や神道を重んじる武士たちを刺激せぬよう、最大の注意を払いつつ謙虚に慎ましく振る舞っているが、ここでは多くの人々から敬われているのだから、もう恐れるものは何もない。船の上から、若い彼らが感受したに違いない前向きな期待は、計り知れないものがあったはずだ。
イエズス会によって自分たちがどのような目論見でここまで連れてこられたのか、そうした憶測や疑念が彼らの中に無かったわけではない。長崎を発った後、自分たちには希望をもたらすはずのその船に、奴隷として売られる日本人たちの姿があるのを目撃してしまった少年もいる。それでも彼らは、イエズス会に自分たちと、そして日本の未来を託していた。のちにルネサンスと呼ばれる文化革命が残した、キリスト教的理念に囚われない思想と接し、ギリシャ・ローマ神話の英雄ヘラクレスが一糸纏わぬ姿で描かれた劇場で、「オイディプス王」という異端の神にまつわる悲劇を観劇することになる顛末も想像すらしていなかったはずだが、なにはともあれ、自分たちの帰属する宗教が社会を司る国は、彼らにとっての精神的故郷でもあった。その感覚は私にもよくわかる。
彼らがリスボンにたどり着いた年からちょうど400年後にあたる1984年夏、私はモスクワ経由でローマのフィウミチーノ空港に到着した。
遡ること3年前、母に背中を押されてひとりでフランスとドイツを旅した時に、私を家出少女だと思い込み、パリ行きの列車の中で激しい説教をされたイタリア人の老人マルコ・タスカが、出口付近で私の名前を呼びながら歩いているのが見えた。私の顔を覚えている自信がないのと、自分も同じように気がつかれない可能性があると思ったのか、首から「MARCO」と大きく記した板をぶら下げていた。周りの人がみな奇怪なものでも見るような目でマルコを振り返っていた。恥ずかしさの極みではあったが、老人なのだから仕方がない、と自分を諭す。そばに寄っていって「マリです」と名乗ると、マルコは懐疑的な視線を私に向け、数秒間の沈黙の後に「おお、きたか! マリか!」と両腕を広げ、取って付けたような歓迎のポーズを取った。私の留学のスタートはそんな具合だった。
天正遣欧使節団の一人である千々石ミゲルの記録によると、リスボン港沖に停泊していた彼らを迎えにイエズス会の司祭たちがサンティアゴ号まで船で出迎えにきてくれたとある。とても嬉しげに自分たちを歓迎してくれたそうで、私の受けたわざとらしい歓迎と違って当然なのだが、彼らもおそらく司祭たちの大きく開いた両腕で力強く抱擁されたに違いない。
母の“信仰”
14歳の旅も母が勝手に決めたことだったが、その3年後のイタリアへの留学についても、そこには私の意志はほぼ入っていない。私はイタリアに憧れたこともなければ、留学を希望したこともない。絵画の勉強をしたいという気持ちはあったが、それはずっと後でのことだと思っていた。しかし、文通で仲良くなったマルコと母の間では、知らない間に具体的な話が取りまとめられていた。母は「行ってダメだと思ったら帰ってくればいいじゃないの、高校を1年か2年休学したって、大人になればそんなことどうでもいい問題よ」と、私の違和感や動揺などまったく意に介さない様子で、イタリアへ行くのがあたかも自分のことであるかのように、胸を躍らせているのがわかった。
3年前、中学の進路指導の教員に「将来は絵描きになります。それしか自分にできることはありません」と伝えたところ、「社会的貢献性も経済生産性もない仕事を選んでどうするんだ、餓死したいのか」と返され、落ち込む私への対処として母が思いついたのが、1カ月フランスとドイツを旅させることだった。
母本人にもヴィオラという楽器一本で生きてきたプライドがあったから、教員の言葉には腑に落ちないものを感じたのだろう。芸術を侮ってはいけない。文化は国威にもなる。そうした歴史の軌跡がはっきり顕在化している土地に行かせよう、その旅を経験させてから本人に将来はどうするかを判断させよう、というのが彼女の目論見だったようだ。表向きには「自分が行くはずだったのにオーケストラが忙しくてスケジュールが取れない。だから代わりに現地の友人たちに会ってこい。そのついでにパリで美術館を見てこい」というのが理由だった。
その旅の間に出会ったのがマルコだが、彼は私が1カ月も掛けてヨーロッパを旅していながら、イタリアを訪れていないことに激しく憤慨した。私にイタリア訛りの巻舌英語で「All Roads Lead to Rome!(全ての道はローマに通ず) どこかにしっかり書いておけ!」と強制し、自分の住所が印刷された葉書を渡して「日本に無事に着いたら、お前の母親からここに手紙を出すように言いなさい。家出ではなかった、というお前の言い分は、その時点で立証される」と言いながら裏面を返した。すると、そこには立派な陶器の祈祷台の写真が印刷されており、ヴァチカン美術館所有、という小さな表記があった。陶器職人である自分の先祖の作品だという。敬虔なカトリック信者であり、若いころからイタリア美術が大好きで、家にモナ・リザのレプリカを飾り続けていた母が、その絵葉書を見て黙っているわけがなかった。
「絵画を本格的に学びたいのなら、マルコさんが言うように、イタリアでしっかり基礎を学んできなさい」
「待ってよ、イタリア語もできないのに。しかもイタリアなんて、男は皆シマシマのシャツを着て歌ばかり歌っている女たらしばかりの国だよ」
「いいじゃない、おもしろそうじゃないの。とにかく行ってみなきゃわかりゃしないんだから、やってみなさい。失敗ですら、あなたの得になるに違いないから。イタリアでなら大手を振って芸術家を目指していますと言えるし、なんと言ってもカトリックの国なんだから、困ったことがあっても、きっと皆あなたを助けてくれるわよ」
というようなやり取りを交わしているうちに、わりとあっさりと諦めがついた。昭和一桁生まれで戦争を生き抜いてきたこのひとには、私のどんな言い訳も効力を持たない。裕福な少女時代を過ごした鵠沼の邸宅は海軍に接収され、持っているものを全て失っても楽器だけは手放すことなく、怒涛の人生を生き抜いてきた母には、予定調和という生き方は邪道でしかなかった。明日はどうなるかわからない、けれど、それに臆せず満身創痍になろうとエネルギー全開で前へ突き進んでいくことこそ人生。そういう人に、高校を途中でやめる不安も、イタリア語がわからぬ不安も、鼻くそ程度の懸念でしかないのだった。
ましてや、我が家は皆カトリックである。私も幼児洗礼を受け、当初は私をバイオリニストかピアニストにしたかった母によって“セシリア”という音楽聖人の洗礼名がつけられていた。それもあって、母は私が陶器職人でヴァチカンとも繋がりのあるマルコと出会い、彼によってイタリアへ行く導線が引かれたことをどこかで神の思し召しのように捉えていたのだと思う。
ちなみに私はそのころ、シュルレアリズム運動に傾倒し、ルイス・ブニュエルの映画を見たり、マン・レイの写真を模写したり、ろくに理解もできないくせにアンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言」などを読んだりしていたので、宗教観も含め古臭くて保守的な考えに対する反発心が強かった。いつぞや、学校で借りてきた三島由紀夫の「禁色」を居間のテーブルに置きっぱなしにしていたら、それを見つけた母から「そんないかがわしい本を読むんじゃない」と怒られたことがあった。余計気になって速攻で読破したこともあったが、母が道徳精神に満ち溢れた折目正しいカトリック信者であることは私もよく知っていた。
母はミッションスクール育ちだったこともあって修道女の知り合いも多かったし、夫に先立たれてシングルマザーとして生きていかねばならなくなった時は、移住先の札幌にあったドイツ系の修道士たちが所属していた聖フランシスコ修道会に娘二人を預けることもあった。家の壁にも当然のように十字架と近世の聖書から切り取ったキリストの肖像画が額に入れて掛けてあったが、その向かいにはダ・ヴィンチの「モナ・リザ」やラファエロの「椅子の聖母」が飾ってあった。私の家に友達が遊びに来たがらないのは、十字架やキリストの肖像、そしてこちらをじっと見続けながら薄く微笑むモナ・リザが怖かったからだ。遊びにおいでよ、とどんなに誘っても「マリちゃんちに行くと、怖いおばさんの絵があるからいやだ」「十字架怖い」と露骨に拒まれるのである。けれど、母がそんなことを気にもせず毅然とやりくりをしているのを見ていると、自分の家が特殊なのは仕方のないことなのだと、子供でありながらも諦めがつくのだった。
異邦人の「Big Wave」
イタリアへ出発する1週間ほど前、当時私は北海道ではなく、東京の母の実家で叔母家族と暮らしていたが、急に母に呼び出されて北海道へ向かい、札幌市内のカトリック教会で母が懇意にしていた司祭から、私の洗礼証明書なるものを受け取った。
この人はのちに札幌司教区の司教となる人だが、かつてローマの神学校に8年間留学していた経験があり、司祭でありながらもススキノのバーのママとスキーに行っただの、酒飲みの女好きだのと噂されがちだったが(母談)、会ってみると厳しさと穏やかさを潜めた仏像のような、達観したオーラを放っている人だった。イタリアかあ、懐かしいなあ、まあ色々あると思うけど何かあればこの人を訪ねなさい、と今でも繋がりがあるというイタリア人の司祭の連絡先も渡された。
「イタリアで住む場所が決まったら、すぐに最寄りの教会の司祭に会って、この洗礼証明書を渡すのよ」と母は私に念を押した。イタリアでの私の身元引受人的立場はマルコが担っていたが、母にしてみればマルコより、教会からの認知のほうがカトリック信者としては重要だった。日本でカトリックはマイノリティかもしれないけど、あなたはその意識から解放される土地に行くのよ、よかったわね、という母の激しい意気込みは、娘を慮ってというよりも、カトリックであること、そして周りから反対されても音楽家という道を選んだ自分自身への励ましでもあったのだろう。
私にしてみても、たとえ全てが母とマルコの間で勝手に進められたことだったとしても、14歳の旅の経験の影響で餓死も覚悟の道を進もうと決めていた私に、日本の高校という環境が居心地の悪いものになっていたのは確かだし、ことごとく学校の規則に従うのが嫌で、髪を切れと言われれば、「わかりました」と全て剃って坊主頭にしてしまう、そんなとんでもない生徒は学校の方でも辞めて欲しかったに違いなく、その空気感は自分でもなんとなく察していた。
私という人間はどうしても、どこにいても、何をしても異端になってしまう。目立ちたいどころか、自分としてはなるべく人の神経を逆撫でるような存在ではありたくないし、一般的な家庭や”普通”というものにどれだけ憧れていたかしれない。しかし、家に十字架があることも、母がヴィオラ奏者であることも、シングルマザーであることも、私が絵描きになりたいことも、無難であることや調和が重視される日本においては全て異質なことと捉えられてしまう。だとすると、ヨーロッパへ行ったほうが、日本にいるよりは普通の人間でいられる可能性は高い。そう思うと潔く気持ちもふっきれた。
当時アルバイトをしていたお茶の水にある「ウィーン」という喫茶店のとなりにあったレコードショップの店先に、ちょうどリリースされたばかりの山下達郎さんの新譜「Big Wave」が並んでいた。山下さんの曲は小学校の時から聞いているが、日本で買える新譜はこれが最後かもしれないと思い、迷わずにカセットを購入した。そしてローマへ向かうアエロフロート・ソビエト航空の中で、何度も繰り返し、この全曲英語で歌われているアルバムを聴き続けた。冒頭の歌ではひとりぼっちで大海原に浮かびながら、大きな波が来るのをひたすら待つ孤独なサーファーの心情が歌われているが、孤独だけどそれが落ち着く、という歌詞には強く励まされた。
母と同様、どうせ私の人生にも予定調和など無い。海に一人きりでたゆたうサーファーと自分の人生にはそれほど違いはないように感じられた。今でもこの曲を聞くと、私の脳裏にはソビエト航空の客室に漂う独特な匂いと、ローマの遺跡群、そしてマルコ爺さんの記憶が立ち上がってくる。
日本を経って十数時間。数年を要する400年前の移動とは全く訳が違うが、とにかく私の乗った飛行機は、母にとっては“仲間がたくさんいる場所”であり、マルコ爺さんにとっては“全ての道が通ずる”イタリアのローマに着陸するのである。
*次回は、7月28日月曜日に更新予定です。
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ヤマザキマリ
漫画家・文筆家・画家。日本女子大学国際文化学部国際文化学科特別招聘教授、東京造形大学客員教授。1984年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。97年、漫画家デビュー。2010年、『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞を受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。2017年、イタリア共和国星勲章コメンダトーレ綬章。2024年、『プリニウス』で第28回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞。著書に『プリニウス』(新潮社、とり・みきと共著)、『ヴィオラ母さん』(文藝春秋)、『パスタぎらい』(新潮社)、『扉の向う側』(マガジンハウス)など。現在「少年ジャンプ+」で、「続テルマエ・ロマエ」を連載中。撮影:ノザワヒロミチ
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はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
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それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
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漫画家・文筆家・画家。日本女子大学国際文化学部国際文化学科特別招聘教授、東京造形大学客員教授。1984年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。97年、漫画家デビュー。2010年、『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞を受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。2017年、イタリア共和国星勲章コメンダトーレ綬章。2024年、『プリニウス』で第28回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞。著書に『プリニウス』(新潮社、とり・みきと共著)、『ヴィオラ母さん』(文藝春秋)、『パスタぎらい』(新潮社)、『扉の向う側』(マガジンハウス)など。現在「少年ジャンプ+」で、「続テルマエ・ロマエ」を連載中。撮影:ノザワヒロミチ
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