13.感覚に言葉を接地させる
著者: ドミニク・チェン
情報技術には発酵の時間が足りていないのではないか――。代表作『未来をつくる言葉』(新潮文庫)で、ネット時代の「わかりあえなさ」をつなぐ新たな表現を模索したドミニク・チェンが、AIの時代にあるべき情報技術との付き合い方を問う。自身も主要なSNSを断ち、強い覚悟をもって新しい「情報技術の倫理」の可能性を探る。発酵と生成によって切り拓かれるけもの道。はたしてその先にはどんな風景が待ち受けているのか?
*バナーの画像は、人が発酵中の味噌と対話をするためのMisobot(「発酵文化芸術祭 金沢」の展示風景)
ジャーナリングを支援するWebサービス「Oryzae(オリゼー)」の設計について書いた前回の終わりに、わたしは「移動」の比喩を持ち出した。世界を上空から俯瞰して地図として把握することと、その地形のただなかを一歩ずつ歩くことは、まったく別の経験だ、と。そして、AIがもたらそうとする時間の「圧縮」に対して、発酵から学んだ時間の「熟成」を対置した。そして、過程を一つひとつ「歩く」ことで得られる手応えのなかに発酵的な時間がどう宿るのかを見ていきたい、と書いた。
では、その「歩く」とは、具体的にどういう営みなのだろうか。わたしはそれを、自分の経験から得た「感覚知」を言葉へ翻訳する営みだと考えている。Oryzaeは生成AIとの適切な距離を保ちつつ、孤独なジャーナリングを支援するために開発した。まさにこの翻訳を反復し、自らに固有の感覚受容器を育てるための「トレーニング器具」として構想したものだ。そもそも、感覚を言葉へ「翻訳」するとは、いったいどういうことなのだろうか。
記号接地とは何か
わたしは以前、『未来をつくる言葉―わかりあえなさをつなぐために』(新潮社、2020)という本で、子どもが生まれた時に抱いた、言葉にできない不思議な感覚を捕まえることを書いた。それがこの本のテーマであり、そこでわたしは、言葉とは感覚を捕まえるための網である、と書いた。
言葉は、対象によって網目が粗かったり細かかったりする。粗い網目では、うまく感覚を言い表せない。たくさんの経験が記憶からこぼれ落ちていくのは、網目の細かさが足りないからだ。言葉、もしくは言語以外の表現方法の網目で感覚を捕まえられなければ、自分の経験を他者に伝えることはおろか、自分自身で納得することすらできない。
前作でも引用した哲学者のジル・ドゥルーズは、既知と未知の境界の上でしか、本当に「書く」ことはできない、と述べた(※1)。うまく名付けられない経験を振り返りながら、まだ綴ったことのない言葉を探す。このままならなさを伴う過程を経ることではじめて、経験の意味が体に浸透していく。
感覚を言葉に翻訳することの意味は、「記号接地」という概念によって説明できる。記号接地とは、言葉のような記号(シンボル)の意味が、感覚と結びつく(グラウンドする)ことを指す。もともとは1990年代に、認知科学者のスティーブン・ハルナッドが、「AIは言葉の意味を理解できない」という問題を論じるためにつくった概念だ。形式的な記号の操作をいくら続けても、いつまでも現実の世界そのものには触れられない。辞書の中である言葉が別の言葉で説明されるように、記号が宙吊りのまま回転し続けてしまう。これがハルナッドの見た問題だった(※2)。
たとえば、幼い子どもが「ごはん」という言葉を覚えるとしよう。それは親や保育士が食べ物を指差す時に使う言葉だから、食べ物に対応する記号なのだろう、と子どもは推測する。発達心理学者のマイケル・トマセロは、こうして他者の意図を汲み、同じ対象へ一緒に注意を向ける「共同注意」の能力こそが、人間の言語習得を支える社会的な土台だと論じている(※3)。これは、言葉の社会的な意味を理解する最初のステップだ。
だがこの時、「ごはん」という言葉には、それだけにとどまらない奥行きが生じる。その言葉を聞いたり、もしくは自分で口にしたりする時、わたしたちの内には、定義的な意味だけでなく、食事をした時の個人的な感情の記憶が喚起される。心理学者のローレンス・バーサルーによれば、わたしたちが言葉を理解する時、脳は辞書的な定義を引くのではなく、その言葉にまつわる過去の知覚や身体の状態を部分的に「再演」するのだという(※4)。意味とは静的な情報ではなく、その都度立ち上がるシミュレーションなのである。これは、記憶にも当てはまる性質だと言える。
つまり記号接地とは、ある言葉が特定の文脈に紐づいた経験と結合することを意味する。空腹な時に「ごはん」と聞けば、食欲が湧いてお腹が鳴るかもしれないが、満腹時には何の感慨も生まないだろう。これは、状況によって言葉から立ち現れる意味が変化する例だ。他方で、食べることが嫌いな子どもにとっては、同じ言葉から負の感情が立ち上がるかもしれない。これは、同じ言葉が人によって違う意味を持ちうることを示している。
ここで付け加えておきたいのは、これは「言葉の正しい意味」とは別の話だということだ。それぞれの人が好き勝手な意味で受け取ればよい、という話ではない。他者とコミュニケーションしながら社会で生きるためには、同じ意味で言葉を使っているという共通理解を築くことが前提になる。それでもなお、同じ言葉に対して個々人がイメージする感覚の質は異なっている。そして、このズレこそが、各人に独自な思考を醸成し、対話を豊かにする上で欠かせないものなのだ。
だから記号接地とは、ある言葉を自分のものにしていく過程とも言い換えられる。あまり理解していない言葉を口にする時、どこかふわふわと浮ついた感じがするのは、感覚という名の地面に足が着いていないからだ。逆に、よく体に馴染んだ言葉を使う時には、しっかりと感覚に根を張った話し方や書き方ができる。
記号接地は終わらない――思考の発酵
このプロセスは当然ながら子どもに限られない。成長した後も、わたしたちは本を読み、時事に触れて、実に多くの新しい言葉を覚えていく。覚えたての言葉をさまざまな局面で聞いたり、自分で使ってみたりしながら、人は自分なりの記号接地を続ける。
思えば研究者や物書きとは、多かれ少なかれ記号接地を常に意識している職種だ。何かを研究するということは、よくわかっていない事象を理解するための新しい切り口を探し続けることだ。分野を問わず、そのためにはデータを収集して分析し、考察を行うという方法が有効だが、その過程で新しい言葉(もしくは言葉の組み合わせ)が生まれることが往々にしてある。いや、未知の概念を組み立てるために新しい言葉を生み出す必要に駆られる、というほうが正確かもしれない。
言語学者の今井むつみと秋田喜美は著書『言語の本質』のなかで、人はごく少数の接地した言葉を出発点に、そこから芋づる式に新しい言葉の意味を手繰り寄せていくと述べ、この雪だるま式の過程を「ブートストラッピング・サイクル」と呼んだ(※5)。最初の小さな足場さえあれば、言葉は自らを手がかりにしながら増殖していくのだ。
今井と秋田はまた、このように手持ちの知識からまだ見ぬ意味へと飛躍する推論を「アブダクション(仮説形成推論)」と呼び、言葉のブートストラッピング・サイクルを駆動させる原動力と位置づけている。研究の現場で新しい言葉が立ち現れる瞬間とは、まさにこのアブダクションが働く時なのだといえる。
この連載自体も、発酵と思考という異なる性質のものを結びつけるアブダクションによって、『思考の発酵』という未知の表現を自身の身体感覚に接地させる試みだといえる。これまでの実験の数々を通して得た経験を基に起きたブートストラッピング・サイクルによって、わたしの体の中で新しい言葉が生まれているのだ。
ここでいう言葉の新しさとは、読者に驚きを与える場合もあるが、まずは書き手自身にとって予想外のものとして出現する。そのような言葉の誕生に立ち会う時、自分の思考が豊かになったという実感が湧き、次に考えるべきことの輪郭が明瞭になる。わたしが「思考の発酵」と呼ぶのは、この感覚を指しているのだと思う。「思う」と曖昧に書くのは、「思考の発酵」という言葉自体がまだわたしの感覚と完全には接地しきっていないからだ。
記号接地とはつまり、「腑に落ちる」ということだ。「腑」とは内臓のことだが、英語にも「直感」を意味するgut feeling(ガット・フィーリング、直訳すれば「腸の感覚」)という言葉がある。そして、人間を含め動物の腸内環境では無数の微生物たちが食物を発酵させ消化を助けている。腑に落ちた後には、微生物たちによって分解されて、異なる形に変化していく。これが、わたしのイメージする記号接地の発酵バージョンだ。
なぜ自力で書くのか
わたしがなぜジャーナリングの道具をつくり、「思考の発酵」を促そうとしているのか、疑問に思う人がいるかもしれない。それは、自らの経験を自分なりの「言葉」で表現したいという欲求を常に抱えているからだと思う。
本連載の第三回でも述べたように、わたしが「発酵するSNS」を標榜するようになった背景には、主流SNSでは言葉の重層性が軽視され、わかりやすい言葉ばかりが流通している現状への違和感がある。限られた短文だけで言葉との付き合いが終始してしまえば、いかに効率よく互いの注意を奪い合えるかというアテンション・エコノミーの論理に閉じ込められてしまう。
自分は何者か、どんな土地の上に立ち、どんな時代を生きているのか。これらの問いに真剣に向き合う時にこそ、自分の体に言葉が根付いていく。誰の注意も奪おうとせず、自分だけに向けて書かれた日誌を継続するジャーナリングは、現代にあって言葉との関係性を回復させる営みでもある。重要なのは、書く人の数だけ異なる記述があるという点だ。唯一の正解はないからこそ、一人ひとりが自らの言葉を育てる余地が生まれる。
そのためには、言葉の意味を他者と共有しつつ、自分なりの経験とも結びつけられるようになることが必要だ。その方法は、感覚と言葉を接続する試行錯誤を反復することに尽きるだろう。具体的には、人と話すこと、そして文章を読み、書くことの繰り返しだ。同じ言葉を、異なる場面で、異なる感覚とともに繰り返し使えば使うほど、その言葉は体の奥底へと深く根を下ろしていく。そうしてやがて、その言葉の網目では掬いきれない現象があることに気づき、また新しい言葉を探しはじめる。記号接地とは一度きりの出来事ではなく、長期的な反復のなかでゆっくりと醸成されるものなのだ。
熟成と歩くこと
言葉を感覚に接地させていくには時間がかかる。
前回、わたしはテクノロジーがもたらす時間の「圧縮」と、発酵から学んだ時間の「熟成」を対比した。記号接地とは、まさに熟成を要する営みだといえる。体を糠床のような発酵の媒質とみなせば、記号(言葉)が体内に「定着」し、増殖していくさまが想像できるだろう。生成AIは、この時間をまるごと圧縮する。問いを投げれば、整った文章が一瞬で返ってくる。けれども圧縮された言葉は、書き手自身の感覚をひとつも経由していない。だから体に根付かないのは当然なのだ。
冒頭で触れた「歩く」ことも、同じ対比のうちにある。ジャーナリングとは、自分の経験の記憶を歩きなおすことだと言える。書きあぐねて立ち止まり、思いがけない連想の脇道へ逸れ、うまく名付けられない感覚を前にして何度も引き返す。その道中でこそ、自分の感覚にぴたりと寄り添い「腑に落ちる」言葉が、足元から生えてくる。
他方、AIに言語化を委ねることは、ゲームにおいて目的地へ一足飛びに移動する「ファストトラベル」に似ている。先に挙げた今井むつみは別の論考で、確率論的な推論機械である生成AIは原理的に記号接地もアブダクションもできないと指摘し、創造的な逸脱こそが人間に特有の能力であると述べている(※6)。AIによる思考のファストトラベルが省略してしまうのは、まさにこの逸脱が生まれる道中なのだ。
もちろん、根気よくさまよい歩いても、見晴らしのよい場所にたどり着けるとは限らない。それでも、言葉にならない感覚を抱えたまま歩き続けることには意味がある。逸脱を試み、さまよい歩いた経験そのものが、新たな言葉を呼び込む感覚の源泉になるのだ。一足飛びに圧縮された道からは何も生まれないが、自分の足で一歩ずつ踏みしめた道の先にこそ、まだ名前のない感覚へと続く、新しいけもの道が拓けていく。
ただし、こうして自分の足で歩いて得た言葉も、自分ひとりの内に閉じているわけではない。先に見たように、記号接地は他者と注意を共にすることから始まり、人それぞれの感覚の「ズレ」を抱えたまま、対話のなかで擦り合わされていくという側面がある。自分に向けて書いたはずの日誌が、いつしか他者へとひらかれていく契機はどのようにして生じるのだろうか。
これは「発酵するSNS」を目指す道程で避けることのできない問いだ。このことを考えるためには、人びとがジャーナリングを通じて自分の言葉を感覚へ接地させて思考の発酵を経験する瞬間を、より細やかに観察する必要がある。次回は、自らの、そして他者の思考の発酵の現場へと降りていきながら、この問いを歩いてみよう。
※1 Gilles Deleuze, Différence et répétition, Presses universitaires de France 1968, P4
※2 Stevan Harnad, The Symbol Grounding Problem, Physica D: Nonlinear Phenomena 42, nos. 1–3 (1990): 335–346.
※3 邦訳:マイケル・トマセロ『心とことばの起源を探る——文化と認知』大堀壽夫ほか訳、勁草書房、2006年
※4 Lawrence W. Barsalou, Perceptual Symbol Systems, Behavioral and Brain Sciences 22, no. 4 (1999): 577–660.
※5 今井むつみ・秋田喜美『言語の本質——ことばはどう生まれ、進化したか』中公新書、2023年
※6 今井むつみ「生成AI時代に求められることばの力と思考力」三田評論オンライン、2026年6月5日公開。URL: https://www.keio.ac.jp/ja/about/public-relations/mita-hyoron/features/20260605-2/
*次回は、2026年8月28日金曜日に更新の予定です。
-
-
ドミニク・チェン
博士(学際情報学)。NTT InterCommunication Center研究員、株式会社ディヴィデュアル共同創業者を経て、現在は早稲田大学文学学術院教授。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)Design | Media Arts専攻を卒業後、NPOクリエイティブ・コモンズ・ジャパン(現・コモンスフィア)を仲間と立ち上げ、自由なインターネット文化の醸成に努めてきた。大学では発酵メディア研究ゼミを主宰し、「発酵」概念に基づいたテクノロジーデザインの研究を進めている。近年では21_21 DESIGN SIGHT『トランスレーションズ展―「わかりあえなさ」をわかりあおう』(2020〜2021)の展示ディレクター、『発酵文化芸術祭 金沢』(2024、金沢21世紀美術館と共催)の共同キュレーターを務めた他、人と微生物が会話できる糠床発酵ロボット『Nukabot』(Ferment Media Research)の研究開発や、不特定多数の遺言の執筆プロセスを集めたインスタレーション『Last Words / TypeTrace』(遠藤拓己とのdividual inc. 名義)の制作など、国内外で展示も行っている。著書に『未来をつくる言葉―わかりあえなさをつなぐために』(新潮文庫)、など多数。(写真:荻原楽太郎)
この記事をシェアする
ランキング
MAIL MAGAZINE
とは
はじめまして。2026年7月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、松本太郎と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただき、ありがとうございます。
2002年7月4日、季刊誌「考える人」が創刊されました。
目次には当代随一の執筆陣がずらりと並び、B5判240ページの誌面の隅々から知の香りが立ちのぼってくるかのようでした。
当時、入社3か月の営業部員だった私は、見上げるような思いで手に取り、発売日には編集長の松家仁之さんと創刊のご挨拶のために書店にうかがいました。
まだ書店訪問にも慣れておらず、編集長ともほぼ初対面の中、次のお店の約束の時間に間に合うだろうかと時計ばかりが気になって、終始、そわそわしていました。そんな私に松家さんがやわらかな笑顔で接してくれたこと、そして、新雑誌の門出を祝うようなすっきりと晴れた一日だったことを覚えています。
あれから四半世紀が過ぎ、ウェブマガジンとして衣替えした今でも、創刊時に掲げられた「Plain living, high thinking(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という言葉は古びていません。AIに尋ねれば瞬時に答えが返ってくる時代だからこそ、それらしい言葉に飛びつくのではなく、自分の頭で考え、心の声に耳を澄ませることの大切さは増しているように感じます。
創刊号には、養老孟司さんのロングインタビューが掲載されています。養老さんはその中で、恩師である中井準之助先生の口癖だった「人の心がわかる心を教養という」という言葉を紹介しています。
読んだ瞬間に立ち止まり、さまざまな思いが湧き上がってくるような文章に、楽しみながら出会える場であり続けたいと思っています。
「考える人」編集長
松本太郎
著者プロフィール
-
- ドミニク・チェン
-
博士(学際情報学)。NTT InterCommunication Center研究員、株式会社ディヴィデュアル共同創業者を経て、現在は早稲田大学文学学術院教授。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)Design | Media Arts専攻を卒業後、NPOクリエイティブ・コモンズ・ジャパン(現・コモンスフィア)を仲間と立ち上げ、自由なインターネット文化の醸成に努めてきた。大学では発酵メディア研究ゼミを主宰し、「発酵」概念に基づいたテクノロジーデザインの研究を進めている。近年では21_21 DESIGN SIGHT『トランスレーションズ展―「わかりあえなさ」をわかりあおう』(2020〜2021)の展示ディレクター、『発酵文化芸術祭 金沢』(2024、金沢21世紀美術館と共催)の共同キュレーターを務めた他、人と微生物が会話できる糠床発酵ロボット『Nukabot』(Ferment Media Research)の研究開発や、不特定多数の遺言の執筆プロセスを集めたインスタレーション『Last Words / TypeTrace』(遠藤拓己とのdividual inc. 名義)の制作など、国内外で展示も行っている。著書に『未来をつくる言葉―わかりあえなさをつなぐために』(新潮文庫)、など多数。(写真:荻原楽太郎)

ランキング





ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号第6091713号)です。ABJマークを掲示しているサービスの一覧はこちら



