シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
知の楽しみにあふれたWebマガジン。
 
 

カレー物語

2026年9月4日 カレー物語

9. オニオングレイヴィの功罪

著者: 稲田俊輔

人気の南インド料理専門店「エリックサウス」総料理長にして、レシピ本から食文化にまつわるエッセイまで文筆家としても活躍中の稲田俊輔さんが、その原点である料理=「カレー」について考える連載です。おうちカレーから南インド料理の衝撃まで、私的な経験をベースにその進化や変遷を語っていきます。「もはやカレーは文化である」を合言葉に、国民的料理の真髄に迫る「活字カレー」の決定版!

カレーの宿命

 前節を読まれた皆さんの、心のツッコミが聞こえてくるようです。
「それじゃあ全部同じような味になるのでは?」

 はい、その通りです。『ザ・カレー・シークレット』のほとんどのカレーは、共通のカレーソースがベースです。そこに追加されるスパイスは基本、チリ・クミン・ガラムマサラ・カスリメティの4種に限られます。当然ながら着色料は(赤だろうが黄だろうがオレンジだろうが)、味には全く影響を及ぼしません。

 しかし、話を先に進めていく前に、この「全部同じ味問題」に関しては、先に擁護をしておくべきでしょう。

 カレーソース、すなわちこの種の汎用ベースソースは「ボイルドオニオングレイヴィ」ないし「オニオングレイヴィ」とも呼ばれます。こちらの方が名称として明快ですので、ここからはオニオングレイヴィで行きます。

 オニオングレイヴィは、確かに多くのインドレストランで使われています。ただ先に触れた「ガチ系」つまりインド伝統料理の店では、全く使われないか、使われたとしてもあくまで補助的だと思われます。逆に言えばこれは、ガチ系以外のほとんどの「インドレストラン料理」のカレーに必須のアイテムということになるでしょう。

 じゃあそういう店のカレーが「全部同じ味」かと言うと、必ずしもそうではありません。オニオングレイヴィをベースに(あるいは補助的に)使ったとしても、他の素材や様々なスパイスとの組み合わせ方、そして調理工程の工夫によって、いくらでも個性的なカレーに展開できるからです。そして実際少なくとも、名店と言われるようなレストランであれば、そのようなカレーを念入りに作って提供しています。

 ただしそこにはコストもかかります。ここで言うコストとは、良質の食材をふんだんに使用することだけでなく、熟練した調理人を雇用することや、彼らが日々手の込んだ工程で調理を行うことも含みます。逆に言えば、そのコストがかけられない場合、やはり「全部同じ味」化は避けられなくなっていきます。

 そしてそこにはもうひとつの問題があります。オニオングレイヴィを使おうと使うまいと、手の込んだ個性的なカレーになればなるほど、その味を受け入れられない人もまた増えていく可能性がある、という問題です。これはカレーの宿命とも言える問題です。

「70点×90人」を目指すか、それとも

 その宿命とは何か。カレー研究家の水野仁輔氏はこんなことを言っています。
「ある時70点のカレーを作ったら、90人がおいしいと言ってくれた。ならばと奮起しておいしさを90点にまで高めたら、おいしいと言ってくれる人は70人に減った。カレーの世界ではこのようなことが往々にして起こります」

 僕も実感として、これはとてもよくわかります。氏は続けます。
「70×90でも90×70でも、スコアは同じ6300。ならばどちらを選ぶのかが、店や作り手の決断です」

 まさにその通り。もちろん僕自身も含めて作り手は、理想を言うならおいしさ90点だけど好きな人が80人、いやできれば85人くらいにまでしか減らないカレーを作るために頑張ります。しかしそれは決して容易なことではありません。

 だから、オニオングレイヴィを使ってあえて個性の尖らない、食べやすいカレーを作るということには、確かな意味があるのです。むしろそれこそがプロフェッショナリズムということなのかもしれません。

 正直なところ、かつて初めてこの本を偶然入手した時、僕は笑いました。大仰な序文からページをめくってみたら、そこには「インド料理をつまらないものにする元凶」のノウハウがひたすら並んでいると感じたからです。和食に例えて言い換えるなら「プロの和食の秘密を暴く」と謳う本を手に取って開いてみたら、そこに「麺つゆクッキング」がずらりと並んでいるようなものです。

 僕だけでなく多くのインド料理マニアは、同じように感じるでしょうし、それが間違った見解だとも思いません。しかし同時に、話はそんな単純なものでもないぞ、ということでもあります。

 オニオングレイヴィを使えば、なめらかかつまろやかで、食べやすいインドカレーが効率よく作れます。大量の玉ねぎにより強い甘さと程よいとろみが得られるのも、いかにも日本人好み。確かに頼りすぎると全てのカレーが似たような味になりかねませんが、それだって逆に言えば、何を選んでも安心感のあるおいしさがいつでも失敗なく得られるということでもあります。

 そうやってこの十数年で、インドカレーは日本ですっかり市民権を得ました。しかしその一方で、(かつての僕のように)食べやすさ重視のインドカレーに飽き足らない、マニア気質の人々も出てきます。そんな人々は、あえてあまりソフィスティケイトされていない、「ガチ系」のインド料理を求め始めます。現代のインド料理界を取り巻く状況というのは、だいたいこのような構造になっています。

 ちなみに僕はその後『インドカレーのきほん、完全レシピ』(世界文化社、2023年)という本で、オニオングレイヴィとそれを使った10種類ほどのカレーのレシピを公開しました。おそらく国内のカレーレシピ本では初めての試みだったのではないかと思います。特に料理界を追放される心配はしませんでした。このような一技法が「厳重に守られた秘密」として扱われるような時代は、もうすっかり過去のものだからです。

 

*次回は、9月18日金曜日更新の予定です。

稲田俊輔『お客さん物語

2023/09/19

レストランは物語の宝庫だ。そこには様々な人々が集い、日夜濃厚なドラマを繰り広げている―。

人気の南インド料理店「エリックサウス」総料理長が、楽しくも不思議なお客さんの生態や店の舞台裏を本音で綴り、サービスの本質を真摯に問う。また、レビューサイトの意外な活用術や「おひとり様」指南など、飲食店をより楽しむ方法も提案。食にまつわる心躍るエピソードが満載。人生の深遠さえも感じる「客商売」をめぐるドラマ!

amazonはこちら

公式HPはこちら

この記事をシェアする

ランキング

MAIL MAGAZINE

「考える人」から生まれた本

もっとみる

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき
  •  

考える人とはとは

 はじめまして。2026年7月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、松本太郎と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただき、ありがとうございます。

 2002年7月4日、季刊誌「考える人」が創刊されました。

 目次には当代随一の執筆陣がずらりと並び、B5判240ページの誌面の隅々から知の香りが立ちのぼってくるかのようでした。

 当時、入社3か月の営業部員だった私は、見上げるような思いで手に取り、発売日には編集長の松家仁之さんと創刊のご挨拶のために書店にうかがいました。

 まだ書店訪問にも慣れておらず、編集長ともほぼ初対面の中、次のお店の約束の時間に間に合うだろうかと時計ばかりが気になって、終始、そわそわしていました。そんな私に松家さんがやわらかな笑顔で接してくれたこと、そして、新雑誌の門出を祝うようなすっきりと晴れた一日だったことを覚えています。

 あれから四半世紀が過ぎ、ウェブマガジンとして衣替えした今でも、創刊時に掲げられた「Plain living, high thinking(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という言葉は古びていません。AIに尋ねれば瞬時に答えが返ってくる時代だからこそ、それらしい言葉に飛びつくのではなく、自分の頭で考え、心の声に耳を澄ませることの大切さは増しているように感じます。

 創刊号には、養老孟司さんのロングインタビューが掲載されています。養老さんはその中で、恩師である中井準之助先生の口癖だった「人の心がわかる心を教養という」という言葉を紹介しています。

 読んだ瞬間に立ち止まり、さまざまな思いが湧き上がってくるような文章に、楽しみながら出会える場であり続けたいと思っています。

「考える人」編集長
松本太郎

著者プロフィール

稲田俊輔

料理人・文筆家。南インド料理専門店「エリックサウス」総料理長。鹿児島県生まれ。京都大学卒業後、酒類メーカーを経て飲食業界へ。南インド料理ブームの火付け役 であり、近年はレシピ本やエッセイなど、旺盛な執筆活動で知られている。著書に『南インド料理店総料理長が教える だいたい15分!本格インドカレー』(柴田書店)『おいしいものでできている』(リトルモア)、『お客さん物語』(新潮新書)、『ミニマル料理』(柴田書店)、『異国の味』、『東西の味』(ともに集英社)、『稲田俊輔のおそうざい十二カ月 旬を味わう一汁三菜』(暮しの手帖社)など。

連載一覧

著者の本


ランキング

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき

  • ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号第6091713号)です。ABJマークを掲示しているサービスの一覧はこちら