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戦争の感性論

2026年9月11日 戦争の感性論

第3回 戦争ゲームはなぜ楽しいのか:シミュレーション、パズル、ストラテジー

著者: 難波優輝

 なぜ人々は戦争をするのか。人は言う、戦争は政治の延長であると。つまり、理性や合理や政治の力学といった、クールな理由で戦争は開始されると。果たしてそんなことはあるのか。戦争に惹かれる人間のありようを、感性の方から分析することで、「戦争的感性」を内側から壊せはしないか。

 本連載は、『物語化批判の哲学』(講談社新書)、『本とは何か』(新潮新書)等の話題作を次々執筆し、今大注目の若手哲学者/美学者・難波優輝さんによる、戦争の批判美学の試みです。

 「戦争を理解したい」と人々は願ってきた。なぜなら、理解することは支配することだからだ。戦争を支配する。つまり、どのようにすれば勝てるのか、どのようにすれば損害を減らせるのかを理解すること。

 軍人、為政者はもちろん、もしかすると市民たちもまた、戦争に対する支配としての理解を望んでいることだろう。

 しかし残念ながら、戦争は、もっとも予測不可能なプロジェクトである。

 天候は刻一刻と変化し、情報は妨害され、指揮系統は混乱し、予定していた物資はやってこない。第二次世界大戦において、天気に左右されたノルマンディー上陸作戦。撹乱のために干潮時のノルマンディー上陸を計画していた連合国軍に対して、ドイツ軍は「まさかこんな悪天候にはやってこないだろう」とたかをくくっていた。そして六月五日、無数の艦影が、オマハビーチに現れた。そして殺戮が始まった。

 もしこの日の天候が変わっていたら、歴史はどうなっていたのだろうか。

 戦争においては、人間同士が協調するのではなく、互いを出し抜こうとしているのだから、不確定要素は意図的に創造され、撒き散らされていく。

 だからこそ、そうした戦争を理解可能なものにして、支配したい、という欲求は止みがたい。だとすれば、人々はどうするのか。何もしないわけにはいかない。

 人間は、理解できないものを理解するための力を持っている。人間の持つ特異な能力の一つ、それは「シミュレーション能力」である。現実の戦争が起きる前に、戦争を想像し、予測し、実験すること。「戦争をシミュレートする」こと。それに人々は取り組んできた。あるときは盤面上で、現代ではデジタル空間で。

 いっけんしたところ、これらの戦争シミュレーションは、合理的で実利的なものにみえる。模擬戦や想定を繰り返すことで、敵の動きを予想する、戦争を勝つための手段だ。ここには、なるほど、綺麗な駒を使ってみたり、美麗な3DCGにこだわったりと、美的な感性の発揮はあるかもしれないが、主目的ではまったくないようにみえる。あくまで、戦争に勝つための手段としてのシミュレーションが行われているに過ぎない、と人は言いたくなるだろう。

 それゆえ、戦争シミュレーションそれ自体に関して、取り立てて美的に批判することはなくなる。

 もちろん、戦争を推進したい者にとっては「より適切なシミュレーションを作るべきだ」という批評はありえるだろうし、戦争に反対する者にとっては「戦争につながるものはすべて悪だ」と非難できる。私は戦争を解体したいのだから後者には近いかもしれない。けれど、戦争シミュレーションならではの怪しさ、戦争を作る力に注目したい。

 私はこう考える。戦争をシミュレートすることは「楽しい」がゆえに危険である、と。歴史をみていくと、戦争シミュレーションは、実利的なツールであるだけではなく、人々によって楽しまれてきた。一九世紀には、訓練や実利のためだけではなく、戦争ゲームそのものの楽しみに魅せられて熱中する軍人も現れ、ベルリンやイギリスにはこのゲームを遊ぶクラブが生まれ、市民も熱狂したという(Peterson 2016)。戦争シミュレーションは、それ自体が楽しい。

 この楽しさを「不謹慎だからけしからん」と言いたいわけではない。もっと重大な問題を生み出す。それは、戦争シミュレーションがいつしか現実に成り代わっていくという問題だ。シミュレーションをやりすぎると現実もそのようにみえてくる、という単純な推論ではない。シミュレーションが楽しいがゆえに、その楽しさがシミュレーションに説得力を生み出し、シミュレーションがいつしか現実の正しいモデルになっていく。

 第二回では、戦争のリアリズムを追求しようとしたとしても、最終的には、私たちは現実そのものを私たちを通してしか理解することはできない、と論じた。そこからさらに、今回取り組みたいことは、私たちがいかに現実を制作しているのかを、戦争シミュレーションを題材に探求していくことである。

 戦争シミュレーションが現実の戦争を模倣するのではなく、現実の戦争がシミュレーションを模倣する。戦争シミュレーションとは、戦争を正確に写す鏡ではなく、戦争をある特定の仕方で操作可能にする、「動く隠喩」である。この動く隠喩は、戦争を、奇妙な仕方で人々にとって把握可能なものにしてしまう。

 本稿は、そうした戦争シミュレーションの美的解体を目指す。美学の道具を使い、どうにか動く隠喩の怪しげな運動を捕捉することができるだろうか。

戦争シミュレーションの歴史

 古代の戦争と第二次大戦以前の軍事史家のヨリット・ヴィンチェスの紹介に基づくなら、ゲームのチェスは長らく、戦争の比喩として用いられてきた。「戦場における軍勢の動きや陣形を、チェスほどよく表現できるものはない」、と一八世紀の軍事的才能に恵まれたフリードリヒ二世が評価した逸話が伝えられている。ゲームは純粋に遊びとしてだけではなく、戦略や戦争を模倣するものとしても捉えられていた(Wintjes 2021)。

 とはいえ、チェスはチェスであり、ゲームである。チェスは戦争そのものではない。やがて、既存のゲームを流用するのでは飽き足らず、一八世紀末から一九世紀初頭にかけて、ヨーロッパでは、地形、部隊、兵站、偶然性など、戦争において重要とされる要素や仕組みを盤上に表現できるように、様々なオリジナルの「戦争ゲーム」が考案された。

 とりわけ、近代的な戦争シミュレーションの始まりは、一八二四年、プロイセン軍において正式に導入された、「クリークシュピール(Kriegspiel)」に遡ることができる。「クリーク」は戦争。「シュピール」は遊びないしゲームを意味するドイツ語だ。若き砲兵将校であるゲオルク・ハインリヒ・ルドルフ・ヨハン・フォン・ライスヴィッツによるものだった。

1824年にゲオルク・ハインリヒ・ルドルフ・ヨハン・フォン・ライスヴィッツが考案したルールセットに基づいた、プロイセン軍の軍事シミュレーションゲーム(Kriegsspiel)の様子。出典:Kurzon, Kriegsspiel-match.jpg (https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kriegsspiel-match.jpg)

 やがて、一八六六年の普墺戦争と一八七〇から翌七一年に勃発した普仏戦争におけるプロイセンの勝利によって、軍事力を高めるのに有効だとして各国に注目され、クリークシュピールとそこから生まれた卓上シミュレーションはプロイセン独自の訓練法から、近代軍隊に広く受容される戦争シミュレーションへと発展した(以上は、Wintjes 2021)。

 こうした戦争シミュレーションは、時代を下り、デジタル技術とも組み合わさって、いまや、米軍を始め、様々な現代的な軍事組織で用いられている。プロイセンの勝利によって各国の軍事組織に広まったように、具体的な「必要」によって開発され、取り入れられてきた。戦争シミュレーションは、戦争に勝ち、敗北を避け、将来の脅威を予測するため、さらには組織の有用性を示さなければならない、兵士を採用しなければならない、といった軍事組織の制度的な必要から発展してきたという(Caffrey 2014)。

 これだけをみると、冒頭で述べたように、戦争シミュレーションはあくまでも実利的なもの、合理的な学習のためのものであり、そこには感性的な側面はないようにみえる。そこにあえて本連載で論じたいような感性的側面は見当たらないようにもみえる。

 だが、ここで私がさらに問いたいのは、戦争シミュレーションは、それらが戦争のために必要だから行われているだけではないということだ。戦争シミュレーション自体が楽しさを生み出すこと、戦争をシミュレーションすることそのものを楽しむ人間の感性によって、行われている。

 現代の市井の人々もまた、戦争シミュレーションに熱中している。ロシアとウクライナの戦争において、様々な作戦の進行や勝敗を眺めながら「地政学」を語ったり、これからの戦争のゆくえをシミュレーションしてみたり、クリークシュピールに熱中した軍人たちのように戦争シミュレーションを遊んでいる。専門家のような語り口で、人々は様々な地政学的リスクを語り、戦争の趨勢を予測し、世界を把握しようとする。それは、未成熟な振る舞い、というより、戦争を理解することで支配し、安心したい、という人間の率直な欲求でもあるだろう。

 私が強調したいのは、戦争をシミュレートする楽しみが、市民にも軍人にもみられるということの重大さだ。つまり、一八世紀のフリードリヒ二世が、チェスを戦争シミュレーターとして扱っていたように、戦争シミュレーションの美学は、いままさに戦争を始めることができる統治者にもまた身につけられてしまいうる、ということだ。

 戦争を始めることができる統治者たちの「ふつう」の想像力をこそ、本連載では分析することを目指している。その想像力の出処は、なんてことはない、そこらじゅうで、誰しもがアクセスすることもできるような、様々なシミュレーションの感性でもあるのだ。それゆえ、なんでもないようにみえるシミュレーション、そこに美的な感性が働いていないようにみえる想像力に、批判のピントを合わせなければならない。

シミュレーションはプレイヤブルでなければならない

 これまで論じてきたものを眺めると、シミュレーションは、あくまで中立的で、合理的な現実のモデルだとみなされがちだ。人々は、現実を模倣するためにシミュレーションをする、と考えている。

 だが、戦争シミュレーションはたんなる現実の模倣ではない。戦争シミュレーションは、人々がどのように戦争を理解するのか、戦争の解釈の仕方を作り出すのだ。

普仏戦争の退役軍人であり、一八八五年から三年間、日本帝国陸軍参謀本部の顧問を務めたクレメンス・ヴィルヘルム・ヤコプ・メッケル中尉は、一八七五年の論文において、クリークシュピールの複雑なルールに不満を表明している。クリークシュピールをもっと現実の戦争を再現できるものにしたい、というのが彼の主張だ。

 ルールが審判を拘束し、その専門知識を活かすことを妨げていること、現実世界は複雑で絶えず変化しているため、ルールが硬直的すぎて戦闘におけるあらゆる可能性を現実的にモデル化できないこと、など。ここで注目したいのは、次の指摘だ。

 

第三に、敵の砲火による損害(losses)の計算は、ゲームを遅々として退屈なもの(uninterestingly)にしてしまう。また、計算に費やされる時間は完全に無駄である。なぜなら、その結果は試合の勝敗にほとんど影響を与えないからだ。(Heistand 1898, 267、強調は筆者)

 

 現実の戦争では、損害の計算こそが重要だ。メッケルの批判は、そんな重要な損害の計算が、ゲームのルールに関われていないことに向けられていた。戦死者の計算をしてもしなくても、その後の勝敗には関係ないような仕様になっていたのだ。

 メッケルの不満から私たちが見て取れるのは、戦争シミュレーションがつねに二つの要求のあいだで揺れているということだ。一方で、戦争をできるだけ現実らしく再現しなければならない。だが他方で、それはゲームとして進行がしやすく、退屈ではないものでなければならない。つまり、戦争シミュレーションは、現実に似ていさえすればよいのではなく、現実を遊べる程度には単純化しなければならない。

 メッケルは、損害を無視するのではなく、損害の計算をプレイヤーではなく、審判が行い、勝敗の判断材料にすることを新しいルールとして提案している。メッケルは、クリークシュピールに、損害の要素を取り込もうとしたという点で、現実の戦争に近づこうとしていた。つまり、シミュレーションの中の「システム」上で「損害」が勝敗にきちんと関わるようにすることで、同時に、シミュレーションの「内容」を現実に近づけようとしている。

 だが、メッケルのこの提案は、自身が批判していた「損害計算がゲームを遅くする」という問題を増幅してしまった。詳細な戦闘結果表を用いて勝敗を評価するようになり、ゲームはますます煩雑になっていった。つまり、メッケルはリアリズムを高めようとして、プレイヤビリティをさらに犠牲にしてしまう。それゆえ、その後のクリークシュピールでは、メッケル型の詳細な点数計算によるのではなく、審判が総合的に勝敗を決めるルールが主流となっていったのだ。

 戦争シミュレーションは、戦争をシミュレートするためのものだ。けれど、シミュレーションする際には、現実のすべての要素を反映させるわけにはいかない。もし現実のすべてを再現しようとしたら、現実そのものがもう一つ必要になってしまう。それではシミュレーションの意味がない。シミュレーションとは必ず、現実をどこかで抽象化しなければならない。

 戦争シミュレーションは、すべてのシミュレーションと同様、現実を特定の切り方で切り落とす。それは一つの「隠喩」だ。そして隠喩はつねに、特定の観点からなされるものなのだ。さらに、戦争シミュレーションの隠喩はつねに動的である。シミュレーションの隠喩は、つねに複数のパラメーターの変動から生まれている。例えば、ある武装を装備すると、身体が重くなり、身動きが取りづらくなり、ある攻撃をすると、相手からの反撃の可能性がこれくらい増える、といったようなしかただ。こうした隠喩同士がメカニクスで紐づいて連動しているために、シミュレーションは、隠喩のなかでも「動く隠喩」として特殊な性質をもっている。

 動く隠喩は、プレイヤーが動かす隠喩でもあることに注目したい。勝手にずっと動き続ける隠喩もなくはない。だが、とりわけ、戦争シミュレーションは、つねに、プレイヤーと隠喩とが相互作用する。それゆえ、メッケルの新ルールのように、現実に近づけば近づくほどよい隠喩になるのではなく、プレイヤビリティも重視されなければならない。その点で動く隠喩の多くは、特殊な制限を持つ隠喩である。戦争シミュレーションは「退屈(uninterestingly)」であってはならない。静的な隠喩の失敗は、斬新な関係を見つけられないことにあり、動的な隠喩の失敗は、それを遊び続けられないことにある。

魅力的なルールの貧しさ

 戦争文化を研究するアギー・ハーストの『Politics of Play』において、ハーストは、戦争シミュレーションを、たんなる軍事訓練や意思決定のための道具としてではなく、人間を作り変える装置として捉える(Hirst 2024)。戦争シミュレーションが人の死を抽象化していることが問題なのではない。人の死を抽象化された情報として処理できる主体を戦争ゲームが作っていることが問題なのである。ハーストは、戦争シミュレーションがプレイヤーの認知的次元と情動的次元の双方に介入すると論じる。認知的次元とは、状況を分析・判断する能力であり、情動的次元とは、何を脅威と感じるか、恐ろしいものと感じるか、そして何を欲望するか、という感情と価値判断能力の側面である。

 戦争シミュレーションは、プレイヤーの認知と情動を同時に作り上げる。死者と損害はたんなる数字やコストとして処理できるようになる。実際、現代の戦争の訓練ゲームにおいても、兵士たちは自分の死に対して苛立ちはするものの、恐怖を覚えることなどはない。それは当然ではある。たかがゲームなのだから。

だが、同時にそれは異常事態でもある。戦争をシミュレーションしようとして戦争ゲームが作られたのに、戦争でもっとも恐ろしいはずのもの、「戦争が守る」と謳う国民=兵士の死そのものが恐るべき死としてはカウントされなくなる。死は戦争ゲームや戦争シミュレーションのなかで、もっとも再現されていない、しかし、もっとも重大な現実である。

 戦争シミュレーターの中には、血や痛みや、絶望や苦しみ、家族を失うこと、育てて一緒に生きてきた子どもが死ぬことは入っていない。例えば、なるほど、私は、子どもを出産していない、母乳が出るわけでもない。ただ子どもにミルクをあげ、離乳食を作り、ご飯を食べさせ、おむつを替え、寝かしつけ、一緒に遊んでいるだけである。だが、この子どもが殺し合う、誰かを殺すということに、深い、不愉快さを覚える。何より、ここまでの労力をかけて生まれた者たちを互いに殺し合わせることに、悪しかない、と感じる。言ってしまえば感情の話でしかない。だが、突き詰めて考えると、戦争もまた感情の話でしかない。しょうもないプライドのために、人殺しを誰にもさせてはならない。

 戦争シミュレーションには、私が感じるような、共に人生の時間を過ごした存在が死地に向かわせられることの恐怖や絶望や怒りといった感情は、シミュレートされない。戦争シミュレーションの隠喩の中では、私の怒りは煙のように消える。

 こうしたシミュレーションは、現実に用いられている。アメリカ陸軍が用いる仮想環境に「One World Terrain」と呼ばれる戦争シミュレーションがある。軍事版Google Earthとも言えるこのシミュレーションでは、現実の地形が三次元的に再現され、兵士たちは同じ任務を何度も反復し、無数のヴァリエーションにあらかじめ遭遇できる。

(“One World Terrain: Geospatial Data at the Point
 of Need.” YouTube. https://www.youtube.com/watch?v=6Avi4CiZ-CU.)

 戦場は確かにある程度不確定ではあるが、しかし、慣れていくことができる。どのように「攻略」すればいいのかが分かってくるのだ。

 

その結果、実現可能な非軍事的な未来はより容易に脇へ追いやられ、「ワン・ワールド・テレーン」シミュレーションにおける数多くのリハーサルによってすでにその成功が検証されている軍事オプションが、予測不能で、遅々として進まず、煩雑な外交交渉の駆け引きよりも好ましい選択肢となる。(Engberg-Pedersen 2023, 152)

 

 戦争シミュレーションは、世界を軍事的問題へと圧縮する。戦争を把握可能なものにする。それゆえ、ちまちまとした交渉よりも、何度もシミュレーションした戦争の方が魅力的な手段になる。

 当たり前かもしれないが、言葉や非暴力的な交渉の方が、戦争よりも考えなければならないことが多いのである。相手のメンツ、相手の歴史、相手の思想、相手が大事にしているもの。だが、戦争は、これらの考えるべき人間が大事にしている価値を破裂させ、「勝利と敗退」あるいは「殺害と生存」に凝縮する。戦争自体が、世界の交渉や価値観の相談やコミュニケーションの、もっとも粗雑な「シミュレーション」なのである。戦争は、複雑な価値観のやり取りの貧弱なメタファーなのだ。それは、粗雑である分、分かりやすくなるが、その代償は、末端の兵士たち、市民たちの血で贖われることになる。

 ここでは、強烈な逆転が起こっている。現実を理解し、支配するための補助具としてのシミュレーションが、現実を飲み込む。シミュレーションがリアリティを上書きしてしまう。

 戦争シミュレーションの快楽は、そもそもシミュレーションできない非暴力的な交渉を想像することよりも強い中毒性があるのだ。戦争シミュレーションによって、価値観の違う不愉快でさえある他人と交渉することを楽しむのではなく、その不愉快な相手をやっつけ、沈黙させることに快楽を感じるように改造させられる。

 しかも、戦争シミュレーションの中では、しばしば、敵国は、ゲームの中のCPUのように、意志を持たない機械のような存在になる。こうした戦争シミュレーションの怪しい魅力を「ストラテジー/戦略」という概念から分析しよう。ストラテジーゲームの研究者であるサイモン・ドールは、ストラテジーには、二つの異なる遊びがあるという(Dor 2023, 354-355; Dor 2024)。それは、「解読(decoding)」と「予見(foreseeing)」の遊びだ。

 この違いは、ストラテジーゲームが、プレイヤー対環境(Player versus Environment: PvE)か、プレイヤー対プレイヤー(Player versus Player: PvP)かに対応している。

 ドールは、解読パラダイムについてこう説明する。

 

解読パラダイムとは、プレイヤーが人工知能の対戦相手 (ゲーム内では「コンピューター」と呼ばれる)の行動に傾向を見出し、将来の行動を予測しなければならない場合を指す。(Dor 2024, 10)

 

 プレイヤー対環境の場合、プレイヤーが対戦する環境とは一定の規則性にしたがって行動するコンピュータープログラムのことを意味する。プログラムにはかなりの「癖」がある。例えば、プレイヤーに対して一定の攻撃行動しかしない、だとか、プレイヤーの用いる駒が相手の駒に対して一定の距離に入るまでは絶対に気づかれない、といった特徴が固定されている。それは、かなりの程度不変であり、障害物のような存在だ。それゆえ、プレイヤーがゲームをクリアするためには、それらを「解読」すればよい。解読の遊びにおいては、「主な目標は異なるユニットを組み合わせたり、正しい動きを選択したりすることで戦力を最適化すること」になるのだ。

 この楽しみは、私の言葉で言い換えれば、「パズル」の楽しみだ。パズルを解くときの楽しみについて、ここで私は大きく四つ指摘したい。それは、正解があることを期待して、「原理的に解ける」という安心感をもって課題に挑める安心感、そして、謎や課題に対して、解けそうで解けない、という「じりじり」とした不快さからの「思いつき」の喜び。加えて、なるほど、このように解けるのか、と知ったときに覚える「すっきり感」、最後に、パズルがよくできている場合に、その仕組を鑑賞する「エレガンス」の楽しみだ(難波 2025)。

 戦争シミュレーションでも、このパズルの楽しみがある。とりわけ、軍事組織で用いられるデジタルシミュレーションの多くはプレイヤー対環境であり、そこでは、何度も繰り返し挑戦し、失敗しながらも、何らかの正解があることを信じ、それを目指して、じりじりとした不快さを経ながら、正解を思いつき、ハッとする快楽とすっきりする喜びをプレイヤーたちは得ているのだ。この喜びが悪さをする。

 先ほど見たように、戦争になると、戦争以外の交渉よりも、実のところ複雑さは縮小されている。そこでは勝利による相手国への交渉がもっとも重要な手段となっており、現実の他の非軍事的な交渉とは比べ物にならないほど粗雑な交渉の世界へと世界全体の複雑さが縮減されているのだ。つまり、戦争とは、現実の交渉を、殺し合いによる武力の交渉へと縮減する強烈な隠喩なのである。それは言い換えれば、戦争とは、それ自体、現実を戦争シミュレーションへと縮減する。戦争自体が一つの隠喩なのである。

 戦争シミュレーションは、シミュレーションする内容に偏りがあるだけではなく、その偏った世界観や思考法や感情に喜びを感じるように人々を作り変え、さらには現実の政治行動に影響を与える世界を作り出すという悪しき美的な力を持っているのだ。

 つまり、戦争シミュレーションという隠喩は、戦争に備えるため、という消極的な目的のみならず、むしろ、戦争に前のめりになるような、戦争に最適化されたものの見方を可能にしがちなのだ。

 遊びは「たかが遊び」ではない。遊びは動員される。そのため、これはゲームだから無害だ、ということはできない。ゲームはただの楽しみで、ゲームの中での人殺しが、現実の人殺しにつながっているとでもいいたいのか、と問われるかもしれない。もちろん、ゲームの中で人を殺すことと、現実に人を殺すことには、通常とてつもない違いがある。だが、私が言いたいのは、現実の環境が悪意を持って整えられてしまったなら、ゲームで人を殺す技術は、現実で人を殺す技術に転用可能であるというリアリズムである。

 ゲームは、現実とは異なるルールとフィクションでできている、と考えるのは、あまりにもナイーブである。私たち人間は、そのナイーブな想定を難なく裏切る現実をデザインすることができてしまうのだ。

 シミュレーションは、現実の世界の苦しみを捨象する。そして、シミュレーション上での分析やゲーム攻略のための一手一手を披露していく喜びを生み出す。だが、戦争シミュレーションの醜さとは、現実との衝突のなさである。現実がシミュレーションを否定することはない。

 配置され、エンティティとして設定できるのは、最初に設定できるだけのものであり、現実の戦争の不規則で予想外の存在たちは出現などしえない。その独り相撲性、すべてを見通そうとするくせに、最初から自分の見通せるものだけが配置されているという茶番に私たちは冷ややかな視線を浴びせるべきだ。

 戦争という隠喩は、価値観の交渉を暴力で縮約する隠喩なのだ。その隠喩に付き合う必要など私たちにはない。戦争には、生の豊かさなど微塵もありはしない。

 ゲームを楽しむことを批判したいのか、と問われるならば、もちろん、部分的にそう、と私は考える。なぜなら、これはゲームで、これは現実で、と私たちは簡単には区別する能力をもたないからだ。それゆえ、ゲームとして遊んでいるのだ、現実とは混じらせなどしないのだ、と自分の能力を高く見積もっている人ほど怪しい。むしろ、ゲームをプレイしつつ、いったい何をしているのかを訝しみ続ける方がよほど美徳がある。やましさを覚え、それがいかに私たちの生きている世界から隔たったものなのかを把握する必要がある。そこには、興奮と勇気と知力の発揮があるかもしれないが、愛と配慮と心配と悲しみはコマになって数え入れられてはいない。

 私たちは、楽しむことの無害さという神話を批判しなければならない。戦争の「遊び化」と、オランダの軍事化および軍事イノベーションにおける遊び的技術を研究するデニス・ヤンセンが指摘するように、遊び(play)は、戦争のために動員されていく。この様子をヤンセンは、「ルドロジスティクス(ludologistics)」という。「ロジスティクス」とは、物資の補給、戦争用語でいえば「兵站(Military Logistics)」を、「ルド」とは遊びを意味する。つまり遊びが戦争のための物資として補給されていく、「遊站」とも呼べる現象が起きているのだ(Jansen 2026)。

 遊びが戦争に動員されていく。シミュレーションは、いつでも無害な遊びなのではなく、ときに、戦争に動員される危険ももっている。いかにして、戦争の想像力と遊びとゲームプレイの境界を保ち続けることができるのだろうか。

 シミュレーションの中では、数えられるものしか存在することはできない。実際の交渉はストラテジーゲームにすることはできない。勝利条件も、何を用いればいいのかも明らかではない。現実の難しい割に、すっきりとした解決はなく、なんともいえない妥協を努力の末に選択するしかない営みに、人々は快楽を見出す訓練をまだまだ積むことができていない。

 こうした「交渉」の側面を再現するシミュレーションとして、対プレイヤーのストラテジーゲームを挙げることができるかもしない。対戦相手の裏をかいて、自分の作戦を成功させる。相手の振る舞いを予見して、それを見事出し抜く。その楽しみが、ストラテジーの醍醐味だと言えるだろう。、対プレイヤーのストラテジーは、より複雑で、予測が難しく、相手の意図の裏をかいたり騙したりする駆け引きの面白みに満ちている。

 こちらの方が、より現実の戦争に近いとは言えるだろう。だが、それにしてもやはりシミュレーションである限り、何が要素に入るのかの取捨選択は避けられないし、現実の戦争のようになんでもありで、戦争以外の交渉も可能な世界の再現は不可能である。

 それゆえ、あらゆる戦争シミュレーションは、当たり前かもしれないが、戦争以外の現実をシミュレーションできない。そこで、困難な物事を理解し、交渉することを快楽とするような感性を出現させ、維持し、サポートし続けることが大切になる。それはどのようにして可能なのだろうか。一つの仮説は、いっけん無意味なことを議論することそれ自体に味わいを感じられるようなトレーニングを楽しむ文化がヒントになるかもしれない。

 例えば、哲学においては、容易に決着がつかないことが熱心に議論されている。「世界が存在するのか」「自由意志はあるのか」。これらは、あまりにも哲学的だ。それが解決したとして、何が起こるのか。暴力で相手を黙らせることに意味がなさすぎる。それゆえ、哲学の議論は、今まで暴力沙汰にはなっていないようだ。もちろん、戦争が口実とするのは、具体的な資源の分配や占領をめぐるハードで喫緊のものだ、とみなされている。しかし、そうした喫緊のものほど、言葉を使って交渉する堪え性を身につけなければならない。そのためには、暴力で相手を黙らせることが無意味に思えるほどいっけん無意味なトピックについて自分の立場を設定し、それを維持したり、部分的に相手の意見を取り入れたりする「信念のゲーム」が、役に立つようにも思える。

 もう一つは、シミュレーションを遊びながら、そこでは何が省略されているのか、そのルールを批判的に検討する、メタゲーミングを楽しむことかもしれない。ゲームの批評を楽しむということだ。私たちがどんなルールに縛られてその中で遊んでいるのかを明るみに出す批評的な試みだ。

 戦争シミュレーションは、私たちを定められたルール以外のことをいかにして想像させないかに腐心している。

 こうしたシミュレーションによるルールの強制を表現した作品に、アーティスト集団「Total Refusal」による「どうやって消えるか(How to Disappear)」(二〇二〇年)がある。

 これは、世界でもっともプレイされている戦争をモチーフとしたビデオゲーム『Battlefield』を用いた映像作品だ。このウォーゲームは、『戦場』というタイトルの通り、兵士たちとなって、戦争に参加する。そして、敵を倒すことをプレイヤーとして楽しむ。楽しむためにゲームをプレイする。

 だが、このゲームでできないことが一つある。それは、「脱走」することだ。ゲーム内で敵前逃亡しようとすると、警告が発され、そして、誰もいないはずの空間に逃げても、狙撃手に撃たれてプレイヤーは死んでしまう。脱走を防がなければ、ゲームが成り立たない。脱走者は射殺される。

 どうやって、この戦場で殺し合うことなく過ごすことができるだろうか、と、「どうやって消えるか」の中のプレイヤーは試行錯誤する。そして、プレイヤーが集まって奇妙なダンスを踊ってみたりする。

 ゲームのルールでできないことは、ゲームの中でできないことに過ぎない。『Battlefield』でさえ、私たちは、不戦することができる。そして、何より、現実には、ほんとうはルールは操作不可能ではない。ルールは従わないこともできる。だが、ストラテジー的想像力は、ルールに従わないことを恐怖する。

 ゲームの楽しみはもちろん、明確なルールの元でプレイし、様々な計画を練り、相手を出し抜き、技術を高め、勝利することにある。そのためには、ルールは揺らぎすぎてはいけないし、ともかくもゲームの試合に参加しようと意志しなければならない。ゲームに参加する気がなければ、それは、ゲームを台無しにする行為でしかない。

 だが私たちは戦争シミュレーションをスポイルすることを楽しむことができる。それはゲーマー失格かもしれない。けれど、誤ったルールに違反し続けることは、戦争に対する力強い批評になるのだ。

参考文献
Caffrey, Matthew B., Jr. 2016. “The Engine of Wargaming.” In Zones of Control: Perspectives on Wargaming, edited by Pat Harrigan and Matthew G. Kirschenbaum, 107–112. Cambridge, MA: MIT Press.

Dor, Simon. 2023. "Strategy" The Routledge Companion to Video Game Studies.

Dor, Simon. 2024. StarCraft: Legacy of the Real-Time Strategy. University of Michigan Press.

Engberg-Pedersen, Anders. 2023. Martial aesthetics: How war became an art form. Stanford University Press.

Heistand. "Foreign War Games". Selected Professional Papers Translated from European Military Publications. Translated by H. O. S. Heistand. Washington D.C.: US Government Printing Office. 1898. pp. 233–289.

Hirst, Aggie. Politics of Play: Wargaming with the US Military. Oxford University Press, 2024.

Jansen, Dennis. "From Military Simulation to Ludic War: A Generational Typology of the Mobilization of Play." Abstract Proceedings of DiGRA 2025: Games at the Crossroads. 2025.

Jansen, Dennis. "Ludologistics and the politics of playful military technologies." Playing Politics in Digital Spaces. Routledge, 2026. 64-79.Peterson, J. 2016. A game out of all proportions: how a hobby miniaturized war. Zones of control: Perspectives on wargaming. MIT Press, 3–31.Wintjes, Jorit. "A school for war–a brief history of the Prussian Kriegsspiel." Simulation and Wargaming (2021): 23-64.https://totalrefusal.com/home/how-to-disappear

難波優輝、二〇二五年『物語化批判の哲学:〈わたしの人生〉を遊びなおすために』講談社。

 

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考える人とはとは

 はじめまして。2026年7月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、松本太郎と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただき、ありがとうございます。

 2002年7月4日、季刊誌「考える人」が創刊されました。

 目次には当代随一の執筆陣がずらりと並び、B5判240ページの誌面の隅々から知の香りが立ちのぼってくるかのようでした。

 当時、入社3か月の営業部員だった私は、見上げるような思いで手に取り、発売日には編集長の松家仁之さんと創刊のご挨拶のために書店にうかがいました。

 まだ書店訪問にも慣れておらず、編集長ともほぼ初対面の中、次のお店の約束の時間に間に合うだろうかと時計ばかりが気になって、終始、そわそわしていました。そんな私に松家さんがやわらかな笑顔で接してくれたこと、そして、新雑誌の門出を祝うようなすっきりと晴れた一日だったことを覚えています。

 あれから四半世紀が過ぎ、ウェブマガジンとして衣替えした今でも、創刊時に掲げられた「Plain living, high thinking(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という言葉は古びていません。AIに尋ねれば瞬時に答えが返ってくる時代だからこそ、それらしい言葉に飛びつくのではなく、自分の頭で考え、心の声に耳を澄ませることの大切さは増しているように感じます。

 創刊号には、養老孟司さんのロングインタビューが掲載されています。養老さんはその中で、恩師である中井準之助先生の口癖だった「人の心がわかる心を教養という」という言葉を紹介しています。

 読んだ瞬間に立ち止まり、さまざまな思いが湧き上がってくるような文章に、楽しみながら出会える場であり続けたいと思っています。

「考える人」編集長
松本太郎

著者プロフィール

難波優輝

1994年生まれ。美学者、会社員。修士(文学、神戸大学)。専門は分析美学とポピュラーカルチャーの哲学。newQ / 立命館大学衣笠総合研究機構ゲーム研究センター客員研究員 / 慶應義塾大学SFセンター訪問研究員。『SFプロトタイピング』(共著、早川書房)、『物語化批判の哲学』(講談社)、『なぜ人は締め切りを守れないのか』(堀之内出版)、『本とは何か』(新潮新書)など、著書多数。


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