15.来し方を株分けする
著者: ドミニク・チェン
情報技術には発酵の時間が足りていないのではないか――。代表作『未来をつくる言葉』(新潮文庫)で、ネット時代の「わかりあえなさ」をつなぐ新たな表現を模索したドミニク・チェンが、AIの時代にあるべき情報技術との付き合い方を問う。自身も主要なSNSを断ち、強い覚悟をもって新しい「情報技術の倫理」の可能性を探る。発酵と生成によって切り拓かれるけもの道。はたしてその先にはどんな風景が待ち受けているのか?
*バナーの画像は、人が発酵中の味噌と対話をするためのMisobot(「発酵文化芸術祭 金沢」の展示風景)
生成AIやスマートフォンに急き立てられるように生きている現代人は果たして、長い時間をかけてゆっくりと味わいを深めていく発酵食品のように、自らの思考を醸成させていくことはできるのか。
この問いについて考えるために、わたしはここまで「発酵するSNS」の姿を探ってきた。それがようやく像を結びはじめている。ジャーナリング支援ツールOryzaeの構想は、個々人の「思考の発酵」を促すだけではなく、さらには異なる人同士の「発酵」を自ずと媒介する場へと結実しつつあるのだ。
ちょうど今、Oryzaeの開発状況と、連載を通して考えてきた「望ましいテクノロジーの在り方」のイメージが同期しようとしている。この連載で書いてきたことは、ツールを開発する方向性を導くジャーナリングとして働き、それを受けてつくってきたツールは、思考に揺さぶりをかける反射板として機能してきた。
ここから先に進むためには、Oryzaeでのジャーナリングが何をもたらすのかを、より長期的に検証する必要がある。だから今回で、具体的な実装の展望についてはひとまず書き終えることにしたい。
問いとは「微生物の共生体」である
発酵のメタファーを人の思考に当てはめる上で、「問いが発酵する」とはどういうことかを考えてきた。当初PicklesではAIが生成する応答をメールで返す「手紙」という形式をとっていた。しかし、手紙を書くAIは擬人化されて受け止められる。それでは通常のチャット式生成AIと向き合う時と同じメンタリティにとどまってしまう。
だからOryzaeでは、より直接的に発酵食のイメージに沿うことにした。「瓶」の中に円形の「問い」が浮かんでいて、そこに「酵母」や「乳酸菌」、「コウジカビ」といった微生物が取り付いているビジュアルだ。第八回の記事で『微生物としての問い』と書いたように、わたしは「問い」を、それ自体が生命的な存在であり、人間が意識的にコントロールしなくても自ずと変容の過程を経るものとして捉えてきた。
しかし、生命的と書いたものの、いまひとつそれが具体的に何なのかを言い表せないでいた。コンセプトだけならそれでも良いのだが、具体的なソフトウェアのデザインに落とし込む上では混乱のもとになりかねない。この夏、共同開発者のアガちゃん(上妻優生さん)と議論を重ねる中で浮上したのが、「スコビー」という発想だった。
スコビーとは、コンブチャ(紅茶キノコの名称で、昆布茶とは関係がない)を仕込む時に液面に張る、半透明の円盤形の物質のことだ。Symbiotic Culture Of Bacteria and Yeast(細菌と酵母の共生培養体)の頭文字を取って「SCOBY」と呼ばれる。日本語では「菌膜」、ぬるりとした、クラゲのような手触りを持つ。我が家でも妻がスコビーを育てている。砂糖を溶かしたお茶でつくるスターター液にスコビーを漬けて、しばらく経つと、フルーツの香りと淡い酸味が微炭酸の中で混ざりあったコンブチャができあがる。2010年代に入って欧米で急速に広まり、今ではスーパーでボトル販売されたり飲食店で提供されたりもしている。日本でも街中で見かけることが増えてきた。
発酵食品の中で、わたしは糠床や味噌については勉強してきたのだが、コンブチャについては経験も知識も足りていない。そこで食品衛生管理の文脈で、引用数の多いレビュー論文(※1)を読んでみた。面白いのは、コンブチャが複数の微生物による発酵作用が連鎖してつくられる点にある。まず、原液に入れた砂糖の糖分を酵母がアルコールと二酸化炭素に分解する。続いて、アルコールを酢酸菌が酢酸に変え、余った糖分をもとにセルロースをつくる。このセルロースは、複数微生物が共生する菌床を保護し、かつ原液を乾燥や汚染から守るという二重の膜の役割を果たす。
思考の発酵を考える上で、スコビーには、二つの大事な性質がある。ひとつは、株分けができるということだ。育ったスコビーを一部切り取って人に渡せば、その人の家でまた新しいコンブチャが仕込める。もうひとつは、仕込みを重ねるたびに液面に新しい層が生まれ、古い層は下へ沈んでいくということだ。何度も仕込まれたスコビーは、幾重にも層が重なった、厚みのある円盤状の物体になる。
問いは、瓶の中に棲む生き物である。問いに含まれる微生物が日々書かれた文章を食べて、少しずつ育つ。そしてケアを怠ると、乾燥したり、カビてしまったりする。Oryzaeでは、使用者が立てた「問い」そのものを、この「スコビー」として表現できることに気づいた。
第八回でわたしは、問いとは「半ば自律的に意識の中を動き回り、記憶に取り付いて、新しい意味をつくり出す作用だ」と書いた。あの時は発酵のメタファーを概念として考えたが、いまはその文章がインタフェースのデザイン仕様書になろうとしている。実際、Oryzaeの画面上で問いの要素を真円の形でデザインしたのは、シャーレのような無機的な容器の上に、瓶の中の微生物を抽出するようなイメージを基にしていたからだ。だが、ガラスやプラスチック製のシャーレそのものは、中の微生物と影響を及ぼし合うことがない。一方、スコビーはそれ自体が複数の微生物の共生体として、環境と相互作用を続ける。そして自ら時間の経過とともに変化していく。
これは見た目の変更だけを意味しない。この方針に沿うと、重要な設計の変化が浮き上がってくる。わたしのつくったインタフェースとしての瓶やシャーレは、そのなかの問いの来歴を持っていなかった。「コウジカビ」、「酵母」、「乳酸菌」という三種類のAIエージェントが不定期的に生成する「発酵物」としての応答は、都度その時点でのスナップショットにすぎない。それらは過去の問いの履歴にはならなかった。
この「来歴」という言葉が頭に浮かんだ時、わたしはある古い記憶に引き戻された。
生命のプロクロニズム
わたしが「来歴」について深く考えさせられたのは、文化人類学者のグレゴリー・ベイトソン(一九〇四〜一九八〇)の著書『精神と自然』の一節を読んだときだった。ベイトソンは、生命の身体には、誕生してから成長してきた来歴のパターンが刻まれると表現する。その例として彼が挙げるのが巻貝だ。巻貝のかたちは、中心から外側に向かって渦を巻き、成長してきたパターンを表している。一目見て、人は巻貝がそれまで生きてきた時間の層を感じ取ることができる。ベイトソンはこのことをして、生物には「発生過程から、いかなるパターン形成をもって形態上の問題を解決し続けてきたかの記録」が刻まれているのだと表現している。そして、生物の成長過程がそのかたちに表れることを、「プロクロニズム」と呼んだ。「前」を意味するプロと「時間」を意味するクロノからつくられた造語で、平たく言えば、来歴が形に現れることである。
2006年頃、わたしはメディアアーティストの遠藤拓己さんと一緒に「タイプトレース」というソフトウェアを開発していた。文章がキーボードで打たれてから変換が確定するまでの時間を計測し、その長さに応じて文字のサイズを変える。遅く打たれた部分は大きく、素早く打たれた部分は小さくなる。すると、書き上がったテキストの上に、大小さまざまな言葉が踊るように現れる。一見して書き手の思考のリズムやテンポが把握でき、均一な活字では得ることのできない情報が喚起される。
当時のわたしは大学院でベイトソンの著書を読み込んでいた。そこから、「人間の思考」という抽象的な存在にも、プロクロニズムが宿るようにデジタルな記号を設計できるのではないかという考えを抱いた(※2)。
代々受け継がれてきた糠床の器、ないしは味噌や酒、お酢などを長い年月醸してきた木桶は、独特の色味や風味、香りを帯びるようになる。それは決して若い発酵食品をつくる器には宿らないものだ。長年、さまざまな蔵を訪れていると、感覚的にどれだけの年月のあいだ、そこで発酵が続いてきたのかを推測できるようになる。たとえば、百年を超える超熟成糠床は、若い糠床とは異なる乳酸菌種のバランスで構成されている(※3)。微生物叢にも、プロクロニズムは見出せるのだ。
Oryzaeでスコビーという発酵食の表象を借りて問いが生きた過程を表現できれば、デジタルなツール上に思考のプロクロニズムを表現できることになる。液面に層を重ねながら育つスコビーの円盤は、それ自体が発酵の履歴の積層である。厚みがそのまま、何度仕込まれたかの記録になっている。巻貝の渦や樹木の年輪と同じ構造をしているのだ。
問いをスコビーとして表現するというアイデアは、単に「問いが生きている」ということを表すためのものではなかった。問いが自らの育ってきた歴史をその身に刻む、ということでもあったのだ。
タイプトレースから二十年が経っても、わたしはまだ同じ問いと向き合っている。ただし今度は、ひとつの文章が書かれる数分間ではなく、ひとつの問いが育っていく数年間のスケールで、だ。
分類は、来し方を問わない
こうして考えると、新たなOryzaeが他のサービスと決定的に異なるものを持っていることがわかってくる。それは、使用者ごとの自己対話の履歴である。どんな問いが、いつ生まれ、何を食べて育ち、どこで分岐して別の問いに変異したのか。
もちろん、既存のSNSにもアーカイブ性はある。誰かのプロフィール欄を開けば、過去の投稿が並んでいる。しかしそれは羅列にとどまり、その人がどんな道を通っていまここにいるのかは、読む側が各自で読み解かなければならない。
第三回で、わたしは現在のSNSについてこう書いた。個々の利用者について「クリックしたリンクや検索ワードなどの行動履歴や、短文の投稿を基にした簡易的な分類(たとえば政治思想が右か左かとか、どの広告キーワードと合致しているか、など)といった表面的な理解しかできない」と。
いま思えば、ここに欠けていた概念こそ、プロクロニズムだった。分類は、その人がどうやってそこに至ったのかを問わない。右か左か、どの広告キーワードに合致するかを判定するのに、来歴の理解は要らないのである。いや、より正確に言えば、来歴まで考慮すると、膨大な数の「ユーザー」の分だけ計算すべき情報量が増えてしまう。収益を効率よく上げるためには、より少ない情報だけで分類したい。企業の論理に従えば、一人ひとりへの深い理解を求める手間は唾棄される。第十三回で書いたアテンション・エコノミーの論理も、同じことの裏面だ。互いの注意を奪い合う競争の中では、表層の情報しか交換されないからだ。
来歴のソーシャルネットワーク
それでは、人びとの問いのプロクロニズムは、どのようにやりとりできるのか。いくつかのアイデアはすぐに出てくる。たとえば、異なる使用者の関連の高い問い同士をアルゴリズムがゆるやかにマッチングできる。また、読む側と読まれる側の非対称を避けるために、書いた量や継続期間が一定以上の人同士がマッチングされるようにもできる。マッチングという「出会い方」については様々な案を試す必要があるが、それではその後では何が起こるのか。
もともと日誌自体を原文のまま共有することは考えていない。第七回で紹介した香港でのワークショップで、美大生のファットさんは、日記の唯一のルールは「自分に正直であること」だと述べた。セラピストにさえ話さない真実を書けるからこそ日記には意味があるのだ、と語ってくれた。同じ回で、デモに参加する前に家族への遺書をスマートフォンのメモ帳に書く香港の若者たちのことも書いた。誰にも読ませない前提があるからこそ書けるものがある。このジャーナリングの前提を崩したら、Oryzaeは自らの土台を壊すことになる。
そこで今、Oryzaeでは自分の問いと、その問いにどう向き合ってきたかという来歴を表現したストーリーだけを公開できるという仕様を考えている。使用者が書いたジャーナリング原文ではなく、あくまでAIが日誌を読み、その全体をひとつの物語として編集しなおしたテキストである。書き手は、公開する範囲も、匿名にするかどうかも、自分で決められる。内容の手直しもできる。
こうした設計を考えている最中に、これは、前回書いた向谷地生良さんの「弱さの情報公開」と通じることに気づいた。個人的な経験を自分で色づけせず、いったん「情報」として扱い、周囲に向けて手放して開いていく。Oryzaeはジャーナリングを使って当事者研究を行うコミュニティとして捉えられるかもしれない。
株分けという発想
先に書いたように、スコビーは糠床やパン種と同じく株分けができる。これは、発酵食の孕む歴史ごと、他者に分譲できるという交流の在り方だ。
わたしの糠床との付き合いは、2008年に会社を創業した日、先に触れた遠藤さんから、彼のお母さんが三十年ほど育てた糠床を百グラムほど「おすそわけ」していただいたところから始まった(連載第九回)。奇しくも、タイプトレースを一緒につくっていたのと同じ時期、同じ人から、わたしの糠床は始まったことになる。もともと発酵食の文化とは、そうやって伝わってきたものだ。糠床も、パン種も、そしてスコビーも、株分けされながら人から人へ渡っていく。ある家の菌が、別の家の台所で、その家の水と塩と手のなかで、異なる固有の風味を帯びていく。
「発酵するSNS」とは、意見を表明し合う場ではなく、生きた問いを、その来歴を含めて、株分けし合う場になるのかもしれない。
他者のスコビー(つまり誰かの問い)の一部を、自分の瓶に入れてみる。すると、自分が書いた文章が、他人の問いによって分解されはじめる。異なる菌が入り込むことで、風味が変わる。前回の終わりに書いた「互いの発酵を媒介する菌」の正体は、他者の問いだったのだ。
そして、ここで思いがけず、ケアの話とつながる。
第九回でわたしは、NukabotとPicklesが「人は不可視のプロセスにどう注意を向けられるのか」という同じ問題意識から出発していると書いた。糠床の底で息づく微生物は目に見えない。自分の意識や無意識の中を揺蕩う問いも同様に、目に見えない。だからつい、その存在を忘れてしまう。
ここに、三つめの項が加わる。他者の来歴もまた、目に見えないのだ。
第十一回で紹介した、Nukabotと十日間暮らした実験参加者の一人は、「Nukabotにかき混ぜてと言われたのにすぐにできなかった時、糠床が一人で死んでいく場面を想像してしまった」と語った。相手をケアをしたいという感覚は、その弱さや脆さの気配に気づいた時に、内側から湧いてくるものだ。他者のプロクロニズムに注意を向けるとは、その人がどんな道を通って、つまり、どんな困難や喜びを経て、ここまで来たのかに気づくということである。おそらく、ここからも、ケアの感覚が生まれる。
現在のSNSが陥ったアテンション・エコノミーのように、互いの表層を消費し合う場ではなく、互いの歴史と文脈の深層に、適切なかたちで好奇心を抱き、注意を向け、影響を交わし合う場。それが、わたし自身が生活したい環境だ。
日本語には「来し方行く末」という言葉がある。プロクロニズムとはまさに、来し方のパターンから、行く末もが垣間見えることを指している。発酵に携わる人びとを見ていても、この二つは地続きなのだと思わされる。杜氏は醪の来歴を知っているからこそ、この先どうなるかの見当をつけられる。第十一回で、八ヶ月の実験のあいだNukabotを介して糠床と触れ合ううちに、「ぬか漬けソムリエ」の資格まで取ってしまった技術スタッフのことを書いた。彼が獲得したのは、糠床の状態を「読む」という能力だった。読めるとは、来し方から行く末が見えるということである。
紙へ、そして外へ
最後に、まだ構想の段階だが書いておきたいことがある。
Oryzaeの使用者で日誌を書き続けた人には、その記録を一冊の冊子として編集し、印刷して送りたいと考えている。中身はやはり原文ではなく、問いとどう向き合ってきたかというストーリー集だ。製本された自分の思考のプロクロニズムは、本棚に入れておくだけでも安心感をもたらすだろう。親しい友人にだけ見せたり、または新しく出会った人にそっと差し出してみてもいいかもしれない。第七回で、香港のワイさんが、Picklesから毎週届くメールを印刷して紙で読むことで親密さを感じたと話してくれたことを思い出す。
考えというものは、画面の中だけで熟すわけではない。物理的な空間で人と会って話し、経験を重ねるなかで、少しずつ変わっていく。Oryzaeは、慌ただしい世界からの一時的な避難所でありながら、そこで醸された問いとその歴史を携えて、ふたたび世界へ帰っていくための道具でありたい。
ここまでがこの連載を通してたどり着いたデジタルなけもの道の、一旦の終点である。次回は最終回として、この道程を振り返ることで、そこから導かれる「倫理」をまとめることにする。



※1 D. Laavanya, Shivanand Shirkole, P. Balasubramanian, Current challenges, applications and future perspectives of SCOBY cellulose of Kombucha fermentation, Journal of Cleaner Production, Volume 295, 2021, 126454, https://doi.org/10.1016/j.jclepro.2021.126454.
※2 ベイトソンの思想との出会いとプロクロニズムについては、第十三回でも触れた『未来をつくる言葉——わかりあえなさをつなぐために』(新潮社、2020)に詳しく書いた。
※3 小野 浩, 中山 二郎, 次世代シーケンサーを用いた発酵食品の細菌叢解析 , 日本乳酸菌学会誌, 2014, 25 (1), pp. 3-12
*次回は、2026年11月27日金曜日に更新の予定です。
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ドミニク・チェン
博士(学際情報学)。NTT InterCommunication Center研究員、株式会社ディヴィデュアル共同創業者を経て、現在は早稲田大学文学学術院教授。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)Design | Media Arts専攻を卒業後、NPOクリエイティブ・コモンズ・ジャパン(現・コモンスフィア)を仲間と立ち上げ、自由なインターネット文化の醸成に努めてきた。大学では発酵メディア研究ゼミを主宰し、「発酵」概念に基づいたテクノロジーデザインの研究を進めている。近年では21_21 DESIGN SIGHT『トランスレーションズ展―「わかりあえなさ」をわかりあおう』(2020〜2021)の展示ディレクター、『発酵文化芸術祭 金沢』(2024、金沢21世紀美術館と共催)の共同キュレーターを務めた他、人と微生物が会話できる糠床発酵ロボット『Nukabot』(Ferment Media Research)の研究開発や、不特定多数の遺言の執筆プロセスを集めたインスタレーション『Last Words / TypeTrace』(遠藤拓己とのdividual inc. 名義)の制作など、国内外で展示も行っている。著書に『未来をつくる言葉―わかりあえなさをつなぐために』(新潮文庫)、など多数。(写真:荻原楽太郎)
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とは
はじめまして。2026年7月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、松本太郎と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただき、ありがとうございます。
2002年7月4日、季刊誌「考える人」が創刊されました。
目次には当代随一の執筆陣がずらりと並び、B5判240ページの誌面の隅々から知の香りが立ちのぼってくるかのようでした。
当時、入社3か月の営業部員だった私は、見上げるような思いで手に取り、発売日には編集長の松家仁之さんと創刊のご挨拶のために書店にうかがいました。
まだ書店訪問にも慣れておらず、編集長ともほぼ初対面の中、次のお店の約束の時間に間に合うだろうかと時計ばかりが気になって、終始、そわそわしていました。そんな私に松家さんがやわらかな笑顔で接してくれたこと、そして、新雑誌の門出を祝うようなすっきりと晴れた一日だったことを覚えています。
あれから四半世紀が過ぎ、ウェブマガジンとして衣替えした今でも、創刊時に掲げられた「Plain living, high thinking(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という言葉は古びていません。AIに尋ねれば瞬時に答えが返ってくる時代だからこそ、それらしい言葉に飛びつくのではなく、自分の頭で考え、心の声に耳を澄ませることの大切さは増しているように感じます。
創刊号には、養老孟司さんのロングインタビューが掲載されています。養老さんはその中で、恩師である中井準之助先生の口癖だった「人の心がわかる心を教養という」という言葉を紹介しています。
読んだ瞬間に立ち止まり、さまざまな思いが湧き上がってくるような文章に、楽しみながら出会える場であり続けたいと思っています。
「考える人」編集長
松本太郎
著者プロフィール
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- ドミニク・チェン
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博士(学際情報学)。NTT InterCommunication Center研究員、株式会社ディヴィデュアル共同創業者を経て、現在は早稲田大学文学学術院教授。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)Design | Media Arts専攻を卒業後、NPOクリエイティブ・コモンズ・ジャパン(現・コモンスフィア)を仲間と立ち上げ、自由なインターネット文化の醸成に努めてきた。大学では発酵メディア研究ゼミを主宰し、「発酵」概念に基づいたテクノロジーデザインの研究を進めている。近年では21_21 DESIGN SIGHT『トランスレーションズ展―「わかりあえなさ」をわかりあおう』(2020〜2021)の展示ディレクター、『発酵文化芸術祭 金沢』(2024、金沢21世紀美術館と共催)の共同キュレーターを務めた他、人と微生物が会話できる糠床発酵ロボット『Nukabot』(Ferment Media Research)の研究開発や、不特定多数の遺言の執筆プロセスを集めたインスタレーション『Last Words / TypeTrace』(遠藤拓己とのdividual inc. 名義)の制作など、国内外で展示も行っている。著書に『未来をつくる言葉―わかりあえなさをつなぐために』(新潮文庫)、など多数。(写真:荻原楽太郎)

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