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2010年10月4日 小林秀雄賞

第九回小林秀雄賞

『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』加藤陽子

著者:

インタビュー 加藤陽子

歴史の言葉に耳を澄ませる

父の戦争体験、古代エジプトへの憧れ…、
いかにして、歴史家に至る道を歩んできたのか。
決意と自戒を込めて、来し方、行く末を語る。

 私の父も戦争に行きました。一九二三年、大正一二年の生まれで、この年代は、徴兵適齢の二十歳で太平洋戦争ど真ん中の一九四三年を迎えますから、徴集者数も戦死者数も多く、最も割をくった世代といえます。司馬遼太郎さんも同じ生まれ年ですね。父は鉄道の専門学校を修了し、ソ満国境近くの要塞地帯、虎頭要塞の西南にあたる牡丹江は東寧というところにいました。直近で500メートル先がソ連という場所ですから、まあ、東寧に着いたときには、「日本に帰れることはよもやあるまい」と思ったといいます。
 お約束の新兵教育を受けた後、専門学校修了者ということで、予備士官学校の受験資格があったものですから、どこの学校に行きたいか、一応聞かれた。通常ならば満州の南、河北省の保定軍官学校などで学び、すぐまた牡丹江に戻るはずなのですが、父は駄目もとで、「熊本」と書いて出した。内地など希望したら、「貴様、内地などに色気があるのか!」といって殴られるのがオチなのに、そのときは、なぜかそれが通ってしまった。司馬さんも満州に持ってかれた後、栃木県佐野の戦車部隊に、たしか、四五年に戻されていましたね。これは、本土決戦準備のため、第一線の二十歳代の現役兵を、次々と内地に戻していた時期に当たります。
 本来はソ満国境で死ぬか、輸送船が撃沈されて南方で死ぬか、その二つの道しかなかったはずが、熊本の予備士官学校に入ったために、生き延びるチャンスを得た。さらに、一九四五年八月のちょっと前に広島を通過し、四国に移動、そこで終戦を迎えます。父の軍隊経験には、なぜか、偶然と幸運がついてまわった。
 小さい頃、テレビの戦争ものなどを家族で見ていて、私が「ホント、日本って野蛮だね」と決めつけますと、父は「お前、そう言うけどな、石油や物資を断たれてどうやって生きていく。本当に真綿で首を絞められるような感じがしたんだよ」と、ぽつりと漏らす。偶然と幸運の積み重ねで生還できた、父には父の、戦争への複雑な想いというのがあるのだなぁと、かえって訥々とした言葉であったために、子供心にも感じるものがありました。
 小学生のときは、ベトナム戦争が泥沼化した時代で、朝、テレビをつければ、特派員が現地の戦況をレポートしているといった具合。激戦地の一つ「鸚鵡おうむくちばし地帯」という言葉の響きは、今でも耳に残っています。また、小学校の高学年、一九七一年ころになると、四次防、第四次防衛力整備計画のことですが、男子の同級生など、昼休みなどしきりに、「四次防はすごいぞー」などと得意になって解説を始める、不思議な時代でした。
冷戦ではない、熱戦のベトナム戦争が、手を伸ばせばすぐそこに在るという時代。防衛力倍増計画を、普通の公立の小学校の生徒が話題にしていた時代。戦争は、遠く離れて在ったのではなく、まだ近くに在る、そういった時代に育ちましたが、日本史の研究者になろうとは全然思っていなくて…。
 むしろ、考古学者になりたかったですね。当時はミイラやピラミッドブームで、ハワード・カーターの『ツタンカーメン王のひみつ』を幼稚園か小学校低学年の頃に読んで、いつも「朝、目が覚めたらそこがピラミッドの中だったらいいのに」などと祈りつつ寝る。何でそんな馬鹿なこと考えていたんでしょうね。この世がおもしろくなかったのかな。父や母に「お前は大人になってホント明るくなった」と驚かれるほど物憂い子供で、食事するのが面倒で、ご飯にお塩だけかけて食べていたら、どうも調子が悪い。病院に行ったら栄養失調だといわれて母親の立場がなかったという事件も。どこか違う場所、違う時代に行ってみたいという気持ちはずっとありました。
 でも、考古学者になりたいという夢は早々と潰えます。まあ、嫌な子供で、中学に進むときに、考古学科なら東大だと考える。嫌な奴です。ただ、色々聞いて見ると、女は採らない、お風呂に入れないという噂があった。それを信じて、すぐ断念しました(笑)。
 中学高校と通った桜蔭学園という女子校では、社会科部という大変地味なクラブに入っていました。理数系の強い学校でしたし、部長の村山女史という強烈な個性もあって、非常に変わった集団でした。中学二年のとき、その村山先輩のところにいって「夏休みの研究テーマは、世界恐慌後のアメリカにしたいんですが」といいますと、「一九三〇年代のルーズベルト大統領の施策は面白いですね。では、これこれの本を読んでおいて」とテキパキ指示して、レポートを書いて持って行けば行ったで、先輩が赤字を入れてコメント付きで返ってくるという凄さ。
 その研究成果なるものを、秋の文化祭で報告するわけですね。文化祭というのは、我々の世代にとっては、素敵な出会いの場でもあるわけで。しかし、「世界恐慌と一九三〇年代のアメリカ」というテーマでは、素敵な男子学生は引き潮のように引いていきますね(笑)。当時は、そんな女学生でした。現在も興味を持ってやっている研究テーマの一つが一九三〇年代の日米関係なので、本当に、進歩がない。いや、中学二年でテーマを見つけたのですから、先見性があったということにしておきましょう。
 日本史の近代を専攻しようと決めたのは、大学の二年生ぐらいでしょうか。戦争と革命の時代である一九三〇年代に迫るのに、日本という国から眺めるのは面白いなと。一九三〇年代を眺めると、ヨーロッパ式の連盟秩序にそぐわないアンチ・システムの国が二国あったことに気づきます。これが、日本とアメリカでした。こういいますと、アメリカ人は怒るでしょうが。しかし、実際、日本とアメリカは似ている。ここに、日本史という土俵から迫りたかったわけです。第二外国語はロシア語でした。ロシアと明治日本の同時代的比較も面白いものでした。ツルゲーネフの『父と子』に描かれる近代性と家族の問題は、明治日本の文学のテーマでもありました。そうしたロシア文学から触発された、ロシアと日本という比較の視点からも、日本の近代の面白さに気づかされました。
 その頃、本郷の文学部の教授であった伊藤隆先生の「持ち出し」講義が、駒場の教養学部生向けにありました。伊藤先生は私の学問上のお師匠さんとなる方です。先生はその頃、後に『近衛新体制』(中公新書)としてまとめられる研究をしておいでで、関連の一次史料を配りつつ、昭和戦前期の知識人が、近衛内閣にいかにコミットしたか、説得力ある講義をされていました。戦争と知識人というテーマは、実に面白かったです。
 当時、一九八〇年代においては、歴史系の学界はマルクス主義の唯物史観の影響を強く受けていました。そのなかにあって、東大文学部の国史学研究室、今は日本史学研究室といいますが、ここの学問的な特徴は、一次史料に依拠する実証主義にあったわけです。ですから、伊藤先生を右寄りだとする批判は、たしかにありました。ただ、伊藤先生という方は、留学生や女性研究者など、立場の弱い研究者を常にエンカレッジする方で、学問的な真摯な姿勢ともども、私には非常に深い学恩をくださったと思っています。
 日本の近現代史、特に「戦争」を語るのに、二〇〇一年の9.11テロ事件以降は、それまでと潮目が変わったといいますか、格段に話がしやすくなったのを感じました。傲慢に聞こえるかもしれませんが、時代が私に近づいてきたな、と感じました。
 9.11テロ後のアメリカの「戦争」と、私がずっと調べていた一九三〇年代の日中戦争が、戦争の「かたち」という点でつながったなぁと。つまり、研究対象だった時代と現在の「戦争」が否応なくリンクし、読み手や聞き手の問題意識が変化してきた、と。日中戦争は、盧溝橋事件という偶発的な武力衝突から始まりましたが、日本も中国も宣戦布告をおこないませんでした。アメリカに中立法というものがあって、日本と中国ともに、アメリカ中立法の適用を受けるのを避けたかったからです。そして、日本は中国を戦争の相手国と認めずに、中国との戦闘を「匪賊」の討伐、つまり、ならず者を退治する「討匪戦」だと位置づけました。近衛内閣のブレインが作成した記録に、この言葉があります。戦争相手国を当事者として認めない感覚は、「世界の警察官」を自認する現代のアメリカが起こした、アフガンやイラクへの「テロに対する取り締まり」のための侵攻、と似ていると思いませんか。一九三七年の日中戦争と、二〇〇一年以降のアメリカが、戦争の「かたち」ということでつながる。歴史を考える醍醐味を味わった瞬間です。
 リアルタイムで、テロへの討伐戦を見たことで、日本の三〇年代の戦争への評価が、相対化され普遍化された瞬間を味わったのです。「日本軍の暴走」といったこれまでの一面的な解釈では収まり切らない、むしろ、いつでもどこにでも起こり得る戦争の形態が、時を隔てて、太平洋の双方の側で起こったんだ、と。昭和戦前期の日本を語る上で、同時多発テロ後のアメリカで起こった事態は、非常に示唆的でした。
 裏を返していえば、それまでの私の学問は非常に窮屈だった、ということでもあります。『模索する一九三〇年代』(山川出版社)という最初の本を出版したのが一九九三年でした。その頃はすでにソビエトが崩壊し、第二次世界大戦中の史料が続々と公開され始めていた時期にあたります。ベルリンの壁の崩壊で東ドイツ側にあった軍事関係の史料も公開され始めました。また、台湾でも国民政府関係の史料の公開が始まる。史料的な意味での学問環境は著しく改善されたわけですが、いかんせん、社会が、第二次世界大戦を見る目、こちらはいまだ古いままでしたから。日本の軍部の考え方を内在的に論理的に説明するのは、そぐわない、という雰囲気がまだありました。
 一方では、日本だけが悪かったのではない、という、九二年以降から注目され始めた「新しい教科書をつくる会」などの動きも出始めました。まさに前門の虎、後門の狼といった感じで、私の立ち位置は非常に窮屈でした。丸谷才一さんが、戦争責任を語る論調について、それはどうしても「誠実を装つた感傷主義か、鈍感な愚かしさか、それとも威張り散らした居直りか」(『雁のたより』朝日文庫、絶版)になってしまう、と喝破したような事態そのもので、そのどれにも陥ることなく、戦争について論じるのは難しかった。
 私は、いろいろなところで、歴史学というのは「歴史を相対化することで正当化し、正当化することで相対化する」と、繰り返し書いたり、言ったりしています。これは、もともとはヘーゲルの言葉で、相対化というのは、後世からみれば、てんでおかしなことでも、当時の「文脈」に則せば、複雑かつ内在的な理由がある、ということですね。そして、そのプロセスを史料で追っていけば、過去の歴史は正当化できる。「あ、日本陸軍というのはただの体力自慢の集団じゃないのだな」というのは、この本を読んで感じていただきたい部分でもあります。そのためには、当時の意思決定の過程をできるだけ再現する。その上で、今度は、それでも、これはどうしてもおかしい、歴史的にも同時代的にも無理があったという評価が導ける。この瞬間が、正当化して相対化するということです。
 歴史家というのは、死んでいった人の言葉に耳を澄ます職業です。さまざまな歴史上の人物の言葉を、その、発せられたのと同じ速度で、想像力をめぐらせつつ聞く。史料を読んでいて、ふと、あるキーワードが、紙の上に光を伴って浮かび上がるような瞬間がやってくることがあります。これは、本当に嬉しい瞬間ですね。
 この体験は、この本に登場する、松岡洋右、汪兆銘、胡適、水野廣徳、すべての事例に当てはまります。私は元来が「物憂い人」ですから、どうも性格的に声の大きな人よりは、言葉を胸に秘めたまま静かに歴史の闇へと去ってゆく覚悟をもった人に目がいってしまう。よく妄想します。私がもし駆逐艦の艦長で、撃沈された輸送船から放り出された人を救うとしたら、と。そのようなとき私は、大声で助けを求めている人よりも、黙って沈んでいきそうな人を最初に救いに行くだろう、と。こう申し上げると格好良すぎですが、同時にこのような性癖が私の弱点でもあることは自覚しています。この本でも、戦争の時代にあって、まず分析しなければならない対象である、天皇と国民について、実のところ、満足に書けていません。これは、私の今後の課題だと思っています。
 この本は、神奈川県にあります、栄光学園というキリスト教系の学校にお邪魔して、中高校生と一緒に日本近代の「戦争」を考えたものです。きっかけは、二〇〇二年の「中央公論」に発表した、「私が書きたい『理想の教科書』」という論考を読んだ編集者の鈴木久仁子さんに、「それを是非実現しましょう」と熱心に口説かれたことにありました。この原稿は、実は私自身の「敗戦の辞」だったのですね。というのはその前、一九九九年ぐらいから、高校日本史の教科書(『詳説日本史B』山川出版社、二〇〇三年)を初めて書く体験をしまして、書きながら非常に苦しかった。納得のいく出来ではなかった。何で駄目なのかとずっと自問して、その苦衷を素直に書いたものがその論考でした。
 その「敗戦の辞」で私は、高校生が歴史を切実なものとしてとらえられるように、「ある歴史研究が生み出される原初の場の『凄み』をみせるところからスタートするしかない」と書きました。結果的に、私がその「凄み」を栄光学園の生徒さんに提示しえたとはとてもとても思えないのですが、普段、大学で講義しているのとは違い、新鮮な風が吹き抜けたといいますか、むしろ彼らからこちらの方が学ぶことが多かったですね。
 私は近代日本の歴史を、戦争の歴史を、多様な人の前で話したいと思っていました。“多様な”というのは、大学で日本史学に志す人と比較して、ということで、東大文学部で日本史を専攻する学生たちからは、あの中高生が発したような生の質問はでてきません。むろんそれは、賢い、賢くないということ、あるいは年齢的なこととは関係ありません。日本の教育が惜しいのは、すべての科目を公平に均等に教授しなければならないので、日本史は高校三年生になってようやく選択できる。必修である世界史が重宝されるのは当然です。となると、理系の人はほとんど選択しない。これは非常に問題で、医学や薬学、例えば、情報系のシステムエンジニアになろうとする人、こうした“多様な”人こそ、歴史が生き物だということを直感的に理解できるのではないでしょうか。文学部の授業は、それはそれで意義深いものですが、今回のようには授業がスイングしない。それは、私にマイケル・サンデルさんのような能力がないことにもよりますが、やはり歴史は、多様な集団の方たちと学ぶべきものなのだ、ということに負う部分も大きいと思っています。

『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』。この「それでも」という接続詞には、日本には最後の最後まで合理的な選択肢は残されていたのに、という、悔いの思いが込められています。
 本当に不思議です。アメリカとの開戦を準備する書類、外務省の日米交渉史料や調書、陸海軍の作戦課関係の会議録などを見ますと、英米をともに対象とした戦争では勝算はないと、曖昧な言葉ではありますが、書かれています。しかし、武力戦での勝利に最後まで確信を持てない天皇を説得するため、南方から運びうる石油の見積もり量、船舶の損失見積もり量の二つに、微妙に手を加えて甘く積算して、御前会議まで持ってゆく。
 何で自らの欺瞞に慄然とすることがなかったのか。最後は理屈を超えた、何かわけのわからないものに押し切られて、太平洋戦争に突き進む。その過程の九割九分までは歴史学で追えるけれども、最後の一分はどうしてもわからない。暫定的な答えではありますが、日本人自身、明治維新期以降の国民国家としての近代日本の歴史に、惚れ込んでしまっていたのではないかと。明治天皇を担いでこまで来た。この、「ここまで来れた」という、深い満足感と達成感が、合理的な最終判断を縛ったわけです。この一点だけを考えてみても、国民の歴史意識というものが、深く深く国家の将来を縛る怖さに思いいたるはずです。ただ、この解答ではなお不十分でありまして、その最終的な選択の「わからなさ」が、タイトルの「それでも」に現れていて、それは、私の中での留保でもあります。
 だから、今後の課題は明らかです。太平洋戦争全般について、誰でもが腑に落ちる説明を構築すること。特に、この本の弱点でもある天皇と女性。いずれも難しいテーマですが、全力でぶつかるに値するテーマだと思います。

(受賞者プロフィール)
一九六〇年、埼玉県生まれ。東京大学大学院博士課程修了。山梨大学助教授、スタンフォード大学フーバー研究所訪問研究員などを経て、現在東京大学大学院人文社会系研究科教授。専攻は日本近現代史。著書に『模索する一九三〇年代』『戦争の日本近現代史』『戦争の論理』『戦争を読む』『満州事変から日中戦争へ』など。(受賞当時)

 

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選評

批評としての「いらだち」

堀江敏幸

 歴史の必然は、つねにあとづけである。あらゆる通史はあとから再構成されたものであり、現場の感覚はけっして再現できない。再構成の材料となる諸々の事件は、何の因果関係も見えない状態で突発的に起きて突発的に終わる。最初の衝撃は徐々に薄れ、振り返ることが必ずしも予防になるとは限らない、という都合のよい空気のなかで、やがてなにもなかったかのような日々が繰り返されてゆく。
 だからといって、当時は見えなかった出来事のつながり、正確に言えば出来事と出来事をつなぎうるかもしれない言葉を探し出し、丁寧に読み返すことは、言葉を差し出す側にとってもそれを受け入れる側にとっても、有益なことだ。その際に必要なのは、与える側が自分の主義主張を押しつけるのではなく、思考の方法の一例を提示するにとどめ、素材の組み合わせ方が唯一無二でないことを示しながら、開かれた新しい言葉を呼び込む触媒に徹することである。
 著者は、それをみごとに実践した。表向きは静かに。しかし、心の底ではいらだちながら。「なぜ」という答えのない問いかけを前にした空しさを理由に、現在と過去を断ち切ろうとする人に対して。「どのように」を示すことの意義を見ないようにしている人々に対して、また、そのいらだちをいらだちとして受け止めてくれない人々に対して、さらに言えば、受け止めてくれないことを嘆きそうになる自分に対して、あえてやってみせた。いらだちを抑えるには、ひとつひとつの言葉を、丁寧に口にしていくしかないのである。
 もちろん、いらだちを抱えていることは外からは見えないし、見せる必要もないだろう。しかし、本書を支えているのは、学識やジャーナリスト的な方向感覚ではなく、物事を徹底的に考えるという批評の圏域にある不可欠なこの「いらだち」である。優秀な中・高校生たちへの語りかけ、対話、相互のやりとりというかたちを取っているのは、序章でのべられているとおり教育的な配慮でもあるだろうけれど、解答ではなく思考の方法を示そうとする開かれた意志に基づくものでもある。ここで著作として提示されている方法は、過去の事例と現在との類似や接点をあとづけで見出し、それを現代の事象の状況判断に供するためのものではなく、もっと根本的な思考の道筋の開示にほかならない。つまり、口当たりのいい参考書の対極にある、十二分に過激な読みである。
 私はその、表面には出てこない過激さに惹かれた。

スリリングな語り

関川夏央

 近年、選挙における高齢者の投票率は常ならず高い。ひるがえって青年層は著しく低い。
日本が世界一国民の平均年齢の高い「老いた国」となったこと自体は「戦後」の輝かしい達成であるのだが、政策は実際の人口構成比以上に高齢者の希望を反映しがちとなる。それは一九二八年の普通選挙実施まで、選挙人たる条件、直接納税額を緩和しつづけて選挙人中の地主の比率を低下させたことと、動機は違っても結果はよく似る。
 一九三〇年代、選挙による社会民主主義的改革は実現不可能と国民が見切ったとき、政策実行への希望の担い手として登場したのが、軍であった。そうして、軍による事実上の一党独裁下の天皇制社会主義体制が実現し、国民の希望とともに日本は破滅に向かってひた走ったのだという「物語の筋」は、軍部の「蠢動」と「独走」を強調する従来の近現代史研究者の「だまされた」史観、通俗大マスコミの「いつか来た道」作文とはまったく正反対である。
 このように一九三〇年代と現代は地つづきなのだが、一九三〇年代に日華事変を遂行する日本と、二〇〇〇年代「テロとの戦い」に邁進したアメリカも、それが戦争ではなく「報償」(リタリエーション)なのだと信じたという意味で、やはり地つづきなのである。
 というようなスリリングな考えを、むかし「できる高校」(桜蔭)の生徒であった加藤陽子が、現代の「できる高校生(一部中学生)」(栄光)相手に実証的に展開した。その講義は、話した通りに記録されたのではなく、周到な手入れの末にあたかも話したように書かれて、かくあるごとくスリリングかつ批評的な読み物として完成した。   
 時は移った。近現代史研究もその受け取り手も、もう若い世代ばかりなのだ。そんな無常の思いも、私はいま、なしとせずにいる。

批評家の素性

加藤典洋

 今回は海外滞在のため、書面回答となったが、加藤陽子さんの受賞作、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』は、自分で滞在先に持参した書籍中の本でもあり、私の評価は高かった。でも私は推さなかった。これなら他の賞もいただけるはず、と考えた。
 この本は、歴史学の醍醐味というものを教えてくれる。歴史に対する興味の核心が、日頃の生活の場面から生まれる素直な〈問い〉と、綿密、着実、誠実な考察と調査に立つ〈答え〉からなること、そしてそれが、歴史を作る人間像への興味と、統計数値、グラフ、地図として現れるものへの探求心=好奇心を、縦糸と横糸にして織りなされるものであること。
 この本を成立させている、中高生を霊媒者に、語り、結像させる企画も悪くない。人物としては、ケインズによるロイド=ジョージとウィルソンの比較、E・H・カー、陸奥宗光、松岡洋右、とりわけ胡適、汪兆銘など、浮かび上がる人物に生彩がある。グラフとしては、日本政府の外交政策指針決定時の連合国、枢軸国、米ソの戦力比較図、中国の輸入相手国の変遷など、目のつけどころと選択が、スマートである。長野県飯田市の『満州移民』という本への言及、戦死者総数が戦時期に掴めなかった事実の発掘と復元、水深のない真珠湾の特殊性と外務省・参謀本部作戦課の北進論への対抗上、陸軍省軍務局、海軍から南進論が出てきて一九四一年七月二日の方針が出てくる経緯の紹介など、「消化」と「応用」の度合いが、半端でなかった。
 中で、明治期の部分に、私としては、物足りなさがある。福沢の見方、戦争を重ね選挙の有権者の層が変更していくという着眼のゆらぎなさ。第一次世界大戦以後、日本が世界のなかで動いていくようになると、俄然、動きが出てきて、この本はダイナミックになる。でもこのあたりに、ちょっと「優等生」的な一面性を感じたことが冒頭の感想につながった。
 何だといわれそうだが、実は、以前から、この人は批評家だな、と思っている。文章の頬の曲線のエンタシスのふくらみ。先入観に左右されない、独立した自分の判断を公にする勇気。そういう人の、ふさわしい受賞を、心から喜ぶ。

論述の新しい方向

橋本治

 加藤陽子さんの『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』は、ある意味で「不思議な本」である。選考会では、加藤さんへの授賞に対して「少しオーソドックスすぎないか」という消極的な声も上がった。その声は同時に「内容には不満がない」ということでもあって、私はオーソドックスであることを満足させている加藤さんのこの本に新しさを感じた。それは論述の方法、あるいは方向についてである。
 『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』という書題を見れば、人はどうしてもそこに「なぜ?」の文字を感じてしまう。つまり、「どうして日本人は戦争を選び続けたのか?」という問いに対する答が、この本の中に提出されているのではないかと思ってしまいがちだということである。しかしこの本は、その「なぜ?」に対する答を慎重に回避している。「高校生を相手にする講義」という体裁を取ったこの本が言うことは、「その答を出すのはあなたです」だからだ。
 近現代史の本に限らず、一人の著者が対象のすべてをカヴァーし結論を出すというのが、評論の前提になってはいる。しかしその実現が、今やむずかしい。結論を急ぎすぎて、多くのデータが論者の手からこぼれ落ちたり、結論を出しやすいように、提出されてしかるべきデータが欠落しているということが、とても多い。加藤さんの新しさは、「一人の論者が結論を簡単に出してしまうことへの疑義」でもある。早急に、そしてその結果恣意的になってしまう結論を出すことよりも、考えるべき対象をまず見据えることが大切であるということを、この本は明白に言っている。結論を一方的に提示するのではなく、結論へ続く扉の方向を明示する——それはつまり、読者に対して評論を開かれたものにするということでもある。その方法を、一冊の本の中で体現している。その点に於いて、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』は、小林秀雄賞の本質に合致するものでもあろうと、私は思う。

若者に語ること

養老孟司

 今回はどの候補作が受賞することになっても、個人的にはまったく異義がないという状況だった。しかも著者たちの年代が、ほぼ団塊よりさらに一世代若くなってきており、年寄りとしては時代の移り変わりを感じざるを得なかった。
 受賞作は出版当時から話題になり、私もすでに一度読んでいた。今回もう一度読み直して、内容がすばらしいなあと再度感じた。退屈させないのである。中・高校生に語るという形式も、橋本治選考委員の意見を聞いて、そういう見方ができたかと感心した。私は平易に語るという枠を、著者が上手に必然として設定したと、ただ思っていたからである。
 栄光学園は私の母校でもあるが、なにしろ時代がズレた。教育も私が在校した当時とはまったく違う面があると思う。だから舞台がそうなったこと自体は、私にとっては、じつは選考の邪魔だっただけである。私がいま高校生だったらどう思うか。それを考えただけで、どれほどの懸隔がすでに生じてきたかを思い知らされた感がある。
「それでもなぜ戦争を選んだか」という主題は、大げさにいえば、私にとって日本社会を考えるときに抜き差しならない。私には私の万感があるが、それはこの著作の評価とはもはや無関係というしかあるまい。あの戦争の背後には石油があり、それが戦後の高度経済成長を支え、いまだに人類をある種の狂気に陥れている。そう思う人間にとって、ある時代に人々がどう考え、どう行動したかを、詳細に若者に語ることは、タイトルとはまったく違った意味を含むことになる。
 私の在学した栄光は、神父が校長を務め、修道院が同じ敷地にあった。歴史を定めるものはなにか。つねにどこかに神が存在した世界に対して、それが意識から消えた世界では、すべてがあまりにも人間くさくなるなあ。それが私の個人的感慨である。

 


 

『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』加藤陽子

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
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