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2023年10月7日 小林秀雄賞

第二十二回小林秀雄賞

受賞のことばと選評

平野啓一郎『三島由紀夫論』

著者:

受賞者の平野啓一郎氏(水田学©︎NOSTY)

受賞作品

三島由紀夫論』(2023年4月 新潮社)

受賞のことば

尊敬する選考委員の皆様に拙作をご評価戴き、大変光栄に存じます。長い年月を費やしての執筆となりましたが、その間、文芸誌での掲載、単行本化を通じ、多くの関係者にご尽力を賜りました。改めて御礼を申し上げたいと存じます。三島由紀夫同様、少年時代には小林秀雄からも大きな影響を受け、その克服を自分の批評の課題とした時期がありました。感慨深いです。

(受賞者プロフィール)
平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)
1975年6月、愛知県蒲郡市生まれ。小説家。1999年、デビュー作の『日蝕』で芥川賞を当時最年少(23歳)で受賞。2009年に『決壊』で芸術選奨文部科学大臣新人賞、2018年に『ある男』で読売文学賞を受賞。2014年、フランス共和国芸術文化勲章シュヴァリエ。他の著書に『葬送』『マチネの終わりに』『滴り落ちる時計たちの波紋』『顔のない裸体たち』など。2020年より芥川賞選考委員。

選評

三島由紀夫大清算

片山杜秀

 「この永遠に滞留し続けるもの、超歴史的な絶対者としての天皇の性格は、『仮面の告白』で、決して変わり得ない「天性」として主題化されたホモセクシュアリティと、日常に対しては、相似的な配置を取る」。受賞作の9頁の一節です。若き三島の『仮面の告白』を論じているのですが、最後の三島の『文化防衛論』で披瀝された天皇観も持ちだされ、組み合わされている。この箇所から窺えるように、平野さんの大著の特徴は、三島の文学と政治、文と武を、決して切断しないということです。むしろ一体的把握を目指している。執筆期間がかなりの長きに及んでいるのにぶれていません。さて、冒頭に引いた「永遠に滞留し続けるもの」とは何でしょうか。歴史を超えて文化的多様性をこの国に保障するものとしての天皇ということでしょう。その多様性にはもちろん性的多様性が含まれる。『万葉集』の時代から天皇は異性愛も同性愛もおおらかに包み込んで揺らがぬはず。その土俵上でこそ同性愛という「天性」も活かされる。めでたしめでたし。ところがそうは問屋が卸さない。天皇は「超歴史的な絶対者」としてばかりでなく“歴史的な相対者”として兵に“死なねばならぬ”と命令した時期もあった。三島も「天性」で完結しているわけではない。異性を“愛さねばならぬ”と内的命令にも支配されるし、それを実行できた。だからどうした? 両性愛も天皇の肯定する文化の多様性に入るのだろうから、天皇も三島も絶対や天性から逸脱したとしても、そこでも調和し得るのではないか。いや、そうは行かない。三島は天皇に“死なねばならぬ”と命じられた時代の青年なのに、入隊日に体調不良だったせいで、つまり精神でなく肉体の問題で兵にならず、そこでの負債を返しようがないまま、戦後に生き残ってしまう。負債ある限り均衡なし。返せない負債から免れるためには少なくとも己の精神のうちから天皇という実在を観念的に抹消するしかない。そこで平野さんの論に従えば『金閣寺』で天皇に擬された金閣寺を焼くことで天皇から自由になろうとする。『豊饒の海』では、唯識思想を咀嚼して、一切は識、すなわち天皇も含めて非在の仮象ということにして、ある種の解放を求める。しかし上手く行かない。なぜなら昭和天皇はやはり実在しているように見えるし、三島の「天性」がエロスと肉の人だからでしょう。文学や思想という観念のフィクションでは三島は何も解決できない! 腹という肉を切るところに行くしかないのか。三島という存在の持続不能性、基本設定の歪みゆえの必然的破綻を、従来の三島論の及ばぬ全的展望を切り開きつつ、示唆してやまぬ名著誕生。平野さんは本書で己にのしかかり続けてきた三島由紀夫をついに清算したのです。

苦闘の公開

國分功一郎

  人が何ごとかにこだわってしまうのはとても不思議なことである。他人にも自分にもその理由を明らかにすることは困難である。だが、すぐれた批評や研究の根底には、いつも、何ごとかにこだわってしまう自分に向き合わんとする自己検証があると思う。たとえその自己検証が明示的に語られずとも、明確な答えには到達できなくとも、その姿勢が人の心を打つのである。
 平野啓一郎氏にとって、三島由紀夫はどうしても自分がこだわってしまう何ごとかであったと思われる。平野氏自身がそのことを明かしている。この『三島由紀夫論』はその意味で平野氏の自己検証の達成の一つである。では、平野氏はその自己検証の末に一つの答えに辿り着いたのか。おそらくそうではなかろう。これは批判ではない。二十三年をかけて書かれたこの分厚い書物そのものが、自分に向き合わんとする平野氏の姿そのものであり、平野氏は自らの苦闘をむしろ公開したのである。
 平野氏はあとがきで、三島に対して深い理解のある、とある人物が発した「結局、引っ込みがつかなくなったんでしょう」という言葉を紹介している。もしかしたら、この言葉はこの本の中でもっとも説得力のある一言であったかもしれない。ここから論を説き起こすことも可能だったようにすら思う。しかし、平野氏はそれをあとがきで紹介するに留め、あくまでも自らの苦闘を記録することに踏みとどまった。その姿勢は人の心を打つ。
 平野氏の世代にとって、三島は決して誰もが関心をもつような作家ではなかったはずである。その世代の雰囲気は平野氏に孤独な苦闘を強いただろう。そのことは橋本治氏の『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』と読み比べるとよく分かる。橋本氏のあの明晰さは、やはり三島を直に知る世代だからこそ到達しえたものだったのではなかろうか。三島を知らない世代だからこそ書かれたのがこの本であり、この本は三島を直に知らない人びとが三島に取り組むにあたっての一つの礎となったことは間違いない。私は以上の理由から、この本は小林秀雄賞を受賞するに十分な仕事であると判断した。

三島由紀夫の「転機」

関川夏央

 倍速で生きたような三島由紀夫の人生は、45年のうちに普通の作家の30年分の成果を詰め込んでいるようだ。急ぎながらも緻密に生きた彼の「転機」のひとつは、1957年、32歳での半年のアメリカ体験だっただろう。
 ミシガン大学からの講演の依頼と、『近代能楽集』を翻訳出版したニューヨークの出版社から、その脚本を舞台化したいという申し出が重なった結果の渡米であった。
 ミシガン大学での英語講演は「日本文壇の現状と西洋文学との関係」だったが、聴衆にはまったく受けなかった。才能にあふれた作家なのに、外国人向けのレクチャーでは教養科目のおさらいのようにくどくなる弊があった。
 ニューヨークでは出版関係者たちが食事やパーティに誘ってくれたが、肝心の芝居の方の準備は全然進んでいなかった。日本では、たとえば文学座が舞台にのせたいといえば必ず実行されるのに、と三島はいらだった。
 秋には舞台は実現するといわれたので、8月、三島はカリブ海とメキシコを周遊する旅に出た。原因不明の発熱やひどい下痢に悩まされながら10月にニューヨークへ戻ったが、芝居は停滞したままだった。文字通り分単位で切り分けるような生活を送っていた三島にとって、その生涯ではじめて経験する「空白」の苦痛であった。
 時間を持て余した三島は芝居を見た。『マイ・フェア・レディ』のブロードウェイ上演からセントラルパークでの素人の野外劇まで、見られる芝居はすべて見た。おかげで英語の聞き取りは格段に進んだが、芝居がはねたあと声をかけられ、いっしょにバーをはしごした一見田舎者の白人女性には、財布から300ドル抜かれた。
 冬が近づき、手持ちの金も心細くなったので、グリニッジ・ビレッジの安宿に移ると、養老院がわりに住み着いている老女の話し相手をさせられ、閉口した。セントラルパークでは、そこだけ暖房された建物に集うホームレスの老人たちの無残さに衝撃を受けた。
 結局、『近代能楽集』の舞台は実現しないまま、大晦日の深夜、三島はニューヨークを去った。三島がこの半年の旅で得たものは、演劇に関するアメリカのシステムへの失望と、「老醜」への強烈な恐怖であった。「老い」こそ自分の「敵」だという認識であった。

倒錯の論理の功徳

堀江敏幸

 三島由紀夫はなぜあのような死に方をしなければならなかったのか。一九七五年生まれの著者に、同時代的な生々しい記憶はない。『仮面の告白』『金閣寺』という、あくまで言葉でつくられた世界から受けた衝撃を作家活動の土台とし、創作の芯のひとつとして三島作品との対話を二十年以上持続しただけでなく、その過程をこれだけの大著にまとめあげた力量を、まずは言祝ぎたい。
 生前の三島を知る人たちの証言、先行する文芸批評の蓄積、最新の近現代文学研究、ジェンダー論の成果を視野に入れつつも祖述を避け、目の前の作品との真摯な対話に徹することによって、これからの世代の三島の読み方にひとつの指針を示したと言ってもいいだろう。
 作品構造と思想のシンメトリックな「せり持ち構造」を重視し、左右いずれかによる超克ではなく、ぎりぎりの均衡を保つためにこそ空虚な絶対者としての天皇が必要だとした三島が、やがて「天皇抜き」の世界として『豊饒の海』を構想するにいたる、その途上に置かれた未完の『日本文学小史』を重く見ることで、四部作のせり持ちの不具合を明らかにす中間部が要になる。
 四部作の構造を、輪廻転生、阿頼耶識の理解から丁寧に解き直していく後半部を浸しているのは、三島作品を前にした両義的な想いである。あれほど頭脳明晰だった男が、なぜ体感と理論のずれを修正できなくなってしまったのか。ある人物の感懐としてあとがきで触れられている、結局は引っ込みがつかなくなったのだという見方が正しいとしても、後戻りできなくなるポイントを、作品の内部に入って理路整然と突き詰めていく著者の姿勢は誠実である。同時に、そのような姿勢をとらざるをえないことに対して、いらだちを感じているようにも見える。
 小林賞の第一回受賞作、橋本治氏の『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』から四半世紀近く経ってもたらされた本書は、ある意味で、三島由紀夫の小説が好きだからこれを書いたというより、こういうものを書き切れるのだから自分は三島を愛し、理解しているにちがいないという「倒錯の論理」で成り立っているのではないか。それは、平野啓一郎とはなにものなのかという問いに等しい。「『仮面の告白』ノート」の一節をかりれば、書き手が書き手でありつづけるための「生理学的証明」なのだ。だから本書の感触は小説に似ている。読み終えると、著者の小説を開きたくなる。そういう本はまことに少ない。

とうに死んでいた三島が生き返る

養老孟司

 八月が嫌な月なのは、過去が生き返るからである。暑い夏に、厚くて熱い本だった。小林賞の最初の橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』を想起し、著者の平野が丁寧に三島のテキストを追うのを読んで、加藤典洋が生きていたらなんと言うか、を想った。年寄りは過去を封印するから生きられるので、あれこれ過去が甦ると、体力が保たない。自分の中ではとうに死んでいた三島が生き返り、まだ死んでないと迫る。著者が三島を扱わざるを得ないことは了解できたが、道連れにはされたくない。そんな思いで、六百頁を読了した。疲れた。
 さまざまな部分が印象に残ったが、日本文化論という主題を扱うのに、なぜか三島には花鳥風月が欠けるという点が私には響いた。樹海体験、水仙体験という表現もあった。外部の自然が幻想化してしまうために、三島にとっての自然は自己の身体という「内部の自然」だけに固着せざるを得ない。こういう部分は人としてまさに抜き差しならない。その意味では三島は現代の都会人の究極型であり、そこに三島の現代的意義があるかもしれないと感じた。三島のテキストこそ三島GPTなのである。そこを追及しても出てくるのは機械の動きだけである。
 三島は身を挺して日本社会の未来を予見した。 早すぎた人だった。著者の労を多とする。

三島由紀夫論

平野啓一郎/著

2023年4月発売

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

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