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石内都と、写真の旅へ

2016年4月4日 石内都と、写真の旅へ

Mexicano――「フリーダ・カーロ」を撮る その1

著者: 与那原恵

 石内都が、メキシコ近代を代表する画家フリーダ・カーロ(一九〇七~五四)の遺品を撮影するためにメキシコに向かうと言ったのは、二〇一二年二月のことだった。

 フリーダと石内、その組み合わせを聞かされて、私はあっと声をあげたのを覚えている。これまで考えてもみなかったのに胸にすとんと落ちたのは、アーティストとして共通するものを感じたからだ。ともにパーソナルな体験から発した創作活動であり、人間の痛みや苦しみ、悲しみに光をあてながらも、根底にあるのは生の時間を肯定するまなざしというべきものだろう。

 フリーダはその生涯に約二〇〇点の絵画を描いたが大半は自画像である。一度、目にしたら忘れられない強い印象を残す顔。眉毛は一本につながり、黒い瞳は射るような光を放つ。メキシコ伝統衣装に身を包む彼女の身体は、時に血にまみれ、矢が突き刺さり、無数の釘が打ち込まれるなどどれも痛ましい。たびたび描いた骸骨、胎児など生と死のイメージも強烈だ。それらの作品は衝撃的で、じっと見つめているうちにさまざまな感情を呼び起こす。その作品が見る者ひとりひとりに問いかける強い力、それも石内作品に通じている。

 激動のメキシコ近代史とともにあったフリーダは、きわだつ美貌の持ち主で華やかな恋の話にも彩られたけれど、その四十七年の人生は痛苦が絶えることはなかった。彼女は身体的に大きな痛みを抱えて多くの時間をベッドに横たわって生き、生涯に二十数回ともいわれる手術を受け、そのうえ心の痛みも絶えることはなかった。彼女は自身の作品について、「私は夢を描いたことはない。自分自身の現実を描いている」、「私にわかっているのは、絵を描くことが私には必要だということ。いつも、頭の中に通りすぎるものを描く。その他には何も考えずに」と述べている。フリーダにとっての絵画表現は、生きていくための切実な行為であった。それが痛ましいモチーフでありながら人の力強さと生きる希望を感じさせるのかもしれない。それもまた石内に重なる。

 フリーダの芸術を「爆弾に巻かれた一本のリボン」と評したアンドレ・ブルトンなどシュルレアリストからも高く評価されたが、没後しばらくは忘れられた存在になっていた。ドイツのフェミニストたちを発端に、母国でもフリーダの再評価の機運が高まるのは一九七〇年代後半になってからだ。日本では一九八九年に初の「フリーダ・カーロ展」(主催・西武美術館)が開催され、広く知られるようになった。私もこの展覧会を見て、こんな絵画があったのか、こんな人生があったのか、と打ちのめされた記憶がある。あらためてそのカタログを見ると、展示作品の充実ぶりに驚くとともにあの時の衝撃がよみがえってくる。

 その後もフリーダの世界的評価は高まる一方で、今日のメキシコでは「作品がメキシコ芸術の大いなる資産であるばかりでなく、わが国の偉大なる芸術大使」(メキシコ国立文化芸術審議会総裁のコメント)と位置付けられている。作品貸し出し条件が厳しくなっているため、メキシコ国外ではフリーダ作品を一堂に展示する展覧会の開催さえ困難になっているといわれる。フリーダ人気は絵画作品のみならず、その劇的な人生、さらには鮮やかな伝統衣装をまとったファッションも若い世代を引き付けているようだ。フリーダの熱烈なファンのひとりに、絵画作品「私の誕生」を所蔵し、一九九〇年代末にフリーダの生涯の映画化を企画していたこともあるアメリカのスーパースター、マドンナがいる。フリーダは時を超え、国を超え、現代にも語りかける強い力を放っている。

 そのフリーダの遺品を通して石内は彼女をどう見つめるのだろうか。石内に撮影のいきさつを尋ねると、一年半ほど前にメキシコのフリーダ・カーロ財団から撮影のオファーがあったという。

 財団が運営するフリーダ・カーロ博物館の建物はフリーダが生まれ、死を迎えた家「ブルーハウス」である。フリーダが生きていた時の調度品や、彼女が愛用した伝統衣装などが多数保管され公開されている。また二〇〇四年にはフリーダの没後五十年間封印されていたバスルーム内の遺品が日の目を見て、これらの遺品も含めた展覧会が二〇一二年に開催されることになった。この展覧会のカタログのための撮影を石内は依頼されたのだった。

 石内に白羽の矢を立てたのはメキシコ生まれの女性キュレーターで、シンガポールの美術大学でファッションとアートを教えるシルセ・エネストローザだ。彼女は二〇〇五年のヴェネツィア・ビエンナーレで、石内が母の遺品を撮影した「Mother's」を見て心が揺さぶられ、フリーダ遺品の展覧会とカタログ刊行のプロジェクトが立ち上がった際、石内ならばこれまでにないフリーダが表現されるのではないかと考えた。

 最初のオファーから時が過ぎていき、あの話は立ち消えになったのかと石内が考え始めたころ、突然シルセから日本に行くという連絡があった。彼女は母親とともに石内の横浜・金沢八景の家にやってきて語り合った。石内はこう振り返る。

 「シルセがお母さんと一緒に来てくれたというのがうれしかった。<Mother's>を見てくれていたというし、シルセの私への強い期待がよく伝わった。私はフリーダ・カーロの特別なファンでもなく、常識的にしか知らなかった。フリーダの遺品を撮影したこれまでの写真も見ていたけれど、何か違うなとは感じていたのね。男性写真家が撮ったものが大半なせいなのか、フリーダをスキャンダラスで強靭な意思を持つ女というイメージでとらえていた。そのイメージはフリーダ自身が意図的に作りあげたものでもあったけれどね。シルセが私に依頼したのは、そうではないフリーダを見たかったからだと思うし、私もそれは同じ。私はすでに広島原爆資料館の原爆犠牲者の遺品を撮る<ひろしま>の撮影をしていて、遺品と語り合っていたけれど、この撮影も<Mother's>がきっかけだった。母がつぎに私をメキシコへ連れていこうとしているのかもしれない、そう感じた。<Mother's>、<ひろしま>、そしてフリーダ。それは女たちのつながりでもあったのね。そうして、私自身がフリーダに会ってみたい、と思ったのよ」

 メキシコへ出発するわずか二週間前、ドキュメンタリー映画監督の小谷忠典が、石内をテーマにドキュメンタリーを制作したいと連絡してきた。一九七七年生まれで誰よりも影響を受けたのは石内だったという彼は、即座にメキシコ行きを決断する。石内がどのようにしてフリーダにアプローチしていくのか強い興味を持った。こうしてメキシコでの石内に密着した小谷は自ら撮影も担当し、 「フリーダ・カーロの遺品―石内都、織るように」(二〇一五年)を完成させることになる。

 メキシコでの石内の撮影を語る前に、波乱に富んだフリーダの人生を追っておきたい。革命と、愛と、芸術。熱気にあふれたメキシコがその舞台だ。

石内都「Frida by Ishiuchi#86」©Ishiuchi Miyako

 マグダレーナ・カルメン・フリーダ・カーロ=イ=カルデロンは一九〇七年七月六日、メキシコ市コヨアカン(コヨーテが地名のもと)地区に生まれた。魔除けの意味もあるという青壁のブルーハウスは、彼女の誕生の三年前に父ギリェルモ・カーロが新築した家だった。

 ギリェルモはユダヤ系ハンガリー人の子としてドイツのバーデン・バーデンに生まれ、十九歳で単身メキシコに渡った。ウィルヘルムという名をスペイン語の読みギリェルモに変え、二度と故郷に帰ることはなかったが、ドイツ風の強いアクセントは消えなかったといわれる。職を転々とし、やがてマティルデ・カルデロンと恋に落ちて結婚する。マティルデは、メキシコ先住民の血をひく写真家の父とスペイン人の母の間にオアハカ州イスモ地方に生まれた。

 ギリェルモは妻の父と同じく写真家に転身。写真スタジオを構え、政府嘱託として国内各地の伝統的建築の撮影などを手がけた。ギリェルモ夫妻の三女として生まれたフリーダは父に溺愛され、強い影響を受ける。西欧文化を根にする芸術家肌の父と、メキシコ先住民の文化を受け継ぐ母。それらがフリーダのなかで融合し、独自のフリーダになっていった。

 フリーダが三歳になった一九一〇年十一月二十日、メキシコ革命が始まる。

 さかのぼれば一五二一年にスペイン人がアステカ帝国を滅ぼし、約三〇〇年にわたって支配した。メキシコ独立の機運が高まっていき、メキシコ独立革命(一八一〇~二一)を経て独立を果たしたが、そののちも混乱がつづいた。一八七六年にクーデターによって大統領に就任したのがポルフィリオ・ディアスだ。

 ディアス大統領は近代化を推し進めたが、あらゆる産業部門において外国資本の進出と土地取得を許す政策をとった。当時のメキシコ人口の八割以上を占めていた農民のうち、九九・五%が土地を持たなかったのだ。やがて三十五年にも及ぶディアス政権への不満が高まり、反ディアスを訴える人物が民衆の結集を呼びかけた日が「メキシコ革命」発端の日となる。広範な階層を巻きこんだラテンアメリカ初の社会革命となり、民族意識を形成していった。のちにフリーダは誕生年をこの革命の年だと偽ることもあった。実際にはその三年前の出生だが、「革命の娘」であるとしたのも彼女自身によるフリーダ伝説のひとつだろう。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

与那原恵

ノンフィクション作家。1958年東京都生まれ。『まれびとたちの沖縄』『美麗島まで 沖縄、台湾 家族をめぐる物語』など著書多数。『首里城への坂道 鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』で河合隼雄学芸賞、石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞(文化貢献部門)受賞。

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