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石内都と、写真の旅へ

 コヨアカンのブルーハウスに暮らす陽気で活発な美少女フリーダは、一九一三年、六歳の時に小児麻痺に冒された。九カ月もの間ベッドを離れることができず回復後も右足は細いままで、左足より二センチ短い。彼女の痛みの人生の始まりである。

 足のことをからかわれることもあって友人たちから孤立していったが、それでも父の勧めによりスポーツをこなし、聡明な少女に成長していく。十五歳、当時の最高レベルである国立予科高等学校の入学試験に合格。一学年三〇〇人の学生のうち女子はわずか五人だったという。フリーダは医学部進学を志しながら友人たちと活発な議論を戦わせ、恋もした。

 だが悲劇が訪れる。一九二五年九月、十八歳のフリーダは学校の帰路に乗車したバスで大事故に遭ってしまうのだ。バスの手すりが彼女の身体を貫き、脊柱、鎖骨、肋骨、さらには骨盤が砕かれた。奇跡的に一命をとりとめたものの、身体は石膏のコルセットで固定された。自宅療養をつづけるフリーダのために両親が用意したのが天蓋付きのベッドだ。天蓋に鏡を取り付け、特製のイーゼル、絵の具をそろえ、絵を描くよう勧める。しばらく歩くことも不可能になったフリーダは、鏡に映る自分を描くことしかできなかった。こうして徹底的に自己を見つめて自身の存在意義を問うていくことになる。

 そのころメキシコ市街には巨大な壁画が続々と生まれていた。

 誰もが目に触れることのできる街路に面する建物に描かれた壁画は、メキシコの歴史と伝統、革命の意義をパノラマ的に見せ、識字率が低い社会での教育的視覚メディアとしての側面もあった。文部省方針のもとに「壁画運動」を牽引した大立者のひとりが、ディエゴ・リベラ(一八八六~一九五七)だ。のちにフリーダの夫となり、愛憎まみれた激しい歳月を送ることになる。中央高地グアナフアト市に生まれた彼にはスペイン系、メスティソ(先住民と白人の混血)の血が流れている。十歳で国立美術学校に入学、二十歳で奨学金を得てスペインで学び、ヨーロッパ各地を旅しながら政治活動にも傾倒した。パリではピカソとモディリアニと深く親交を結んだことで知られる。一九二一年に帰国した祖国は社会変革の嵐の中にあり、ディエゴはメキシコ共産党に入党。ほどなく壁画制作プロジェクトの中心人物となり、国民誰もが知る巨匠になっていた。

 フリーダは高等学校在学中に、壁画制作中のディエゴを見かけていたという。それから五年後、イタリア生まれの女性写真家ティナ・モドッティの家で再会して間もなく、ふたりは恋に落ち、一九二九年に結婚する。小柄なフリーダは二十二歳、三度目の結婚となるディエゴは四十二歳、体重一五〇キロを超える巨漢だった。周囲から「象と鳩の結婚」といわれるほど、あらゆる意味で対照的なふたりだが、互いの作品を高く評価したこと、革命への信頼、メキシコに対する忠誠心という点では一致していた。

 ディエゴはマッチョな人物だが、早くから女性芸術家を正当に評価しており、妻に対しても同様だった。フリーダを励まし、大胆な絵を描く勇気を与えたのはディエゴだ。彼はフリーダの作品について「群小の宝石にかこまれたダイヤモンドのように燦然と輝いている。透明で、硬質で、正確にカットされたダイヤモンド…フリーダの芸術は個人的であり、同時に集合的だ」と評している。夫妻は互いに理解し合う芸術家カップルとして知られていくが、実際の関係は当初から複雑きわまりないものだった。

 結婚の翌年から一九三三年まで、夫妻は主にディエゴの創作活動のためアメリカに渡り、サンフランシスコ、ニューヨーク、デトロイトに滞在した。メキシコ民族衣装をまとい英語を話す美しいフリーダは、メキシコのミューズとして脚光を浴びるが、それは巨匠ディエゴの妻としての立場でしかなかったのかもしれない。けれどフリーダは工業文明を突き進むアメリカを批判的に描いたり、滞在中の流産の体験を作品にしたりしており、このアメリカ滞在は画家としての自己を自覚する契機になったのではないだろうか。

 フリーダ夫妻の結婚生活は平穏ではなかった。ディエゴは女たちとの浮名が絶えず、その相手がフリーダの妹であった時期すらある。その苦しい体験さえも作品のモチーフにしたフリーダだが、浮気性の夫にただじっと耐えていただけではない。彼女も奔放な恋を重ねている。

 その相手は、国際交流の舞台ともなった一九三〇年代のメキシコにやってきたさまざまな分野の男たちだ。まだ無名の若者であった彫刻家イサム・ノグチとの一年間の恋はディエゴがピストルを手にして乗り込んできて終わりを告げる。それからハンガリー生まれのファッション写真家ニコラス・ムライはフリーダの美しさがしたたるようなポートレートを多数撮影していて、ふたりの濃密な愛を感じさせる(余談だが、ニコラスのニューヨークのスタジオで一九二八年に働いていたのが大阪出身の先駆的日本人女性写真家、山沢栄子だ)。

 そしてフリーダの恋の相手でもっともよく知られるのが、一九三七年に妻とともにメキシコへの亡命を余儀なくされたロシアの革命家レオン・トロツキーだろう。ディエゴと親しかったトロツキーは一時ブルーハウスに暮らし、近くの転居先の家で一九四〇年に暗殺される運命をたどることになる。

 ニューヨークでフリーダの初個展が開催されたのは一九三八年、その翌年にはパリでマルセル・デュシャンらが企画した展覧会にも出品。カンディンスキーやピカソから熱烈な賛辞を受けた。

 その年、フリーダとディエゴは一度離婚し、翌年に再婚するなど波乱の日々にあったもののフリーダは精力的に創作活動を展開していく。だがフリーダの病状は一九四四年ごろから著しく悪化していき、一九四六年には渡米して脊柱の大手術を受け、その後も手術が重なった。鋼鉄や石膏、皮革のコルセットに身を固め、薬物中毒ともいわれるほどの大量の鎮痛剤を飲み、「悲しみをおぼれさせるために」酒をあおり、たばこをふかし、そして絵筆をとった。

 一九五三年四月、メキシコにおけるフリーダ生存中最初にして最後の個展「オマージュ」が開催される。企画したのはフリーダの長年の友人である写真家、ローラ・アルバレス・ブラボ(一九〇五~九三)だ。彼女はブルーハウスで疲れ切り孤独感を漂わせるフリーダの肖像を多数撮影することができたほど親密な仲だった。

 ブラボが営む画廊に救急車で運ばれたフリーダは、ベッドに横たわり、約二〇〇人の来場者の挨拶を受ける。ベッドの周りでフリーダに詩が捧げられ、メキシコ伝統の歌が歌われた。それは別れの儀式のようでもあった。

 その年の八月、医師はフリーダに壊疽が進行しているため右足を切断しなければならないと告げた。切断手術を受け入れた彼女は気丈な言葉を日記に書いている。

翔ぶための翼があるのなら
足なんて、なぜ欲しいのかしら

 それから十一カ月後の一九五四年七月二日、米国のグァテマラへの内政干渉に抗議するデモにディエゴとともに車椅子で参加。その十一日後の七月十三日、ブルーハウスで死去した。日記の最後のページにつづられた言葉は「出口は幸福であってほしい。私は二度と戻りたくない」だった。

 死の八日前に完成した遺作は、瑞々しい真っ赤な西瓜を描き、大文字で「ビバ・ラ・ビダ」(生命万歳)と書き込まれていた。

石内都「Frida by Ishiuchi#2」©Ishiuchi Miyako

 石内はフリーダが最期に残した言葉にとくに惹かれたという。

「フリーダは死んだら火葬にしてほしいと言い残していた。土葬では亡骸を棺に横たえ埋葬されるけれど、彼女は横たわった姿勢のまま、あまりに苦しみすぎた、死んでまで横たわっていたくない、と言っていたのね。なんてかっこいい女なんだろう、と思った。フリーダに会うのが楽しみになってきた」、そうして石内はメキシコへ旅立っていった。

 私はこのメキシコに同行することができなかったのだが、ほどなく現地にやってきた小谷忠典と映画クルーが石内の撮影の日々をつぶさに記録している。

 石内は、フリーダが生まれ死を迎えたブルーハウスで 三週間におよぶ撮影にとりかかった。メキシコの光がふりそそぐブルーハウス、中庭の木々が木洩れ日となって青い外壁に映えていた。家の内部は赤や黄色など鮮やかな色に彩られているが、このようにメキシコ風に改装されたのはディエゴとの離婚を経て再婚した時期だったといわれる。すでにベッドに横たわる時間が一日の大半となっていたフリーダを取り巻く多彩な色が彼女の生きる意志を支えたように思える。

 ブルーハウスにはフリーダが愛した約三〇〇着の衣装が保管されている。それもまた色鮮やかな絹のスカート、ブラウス、刺繍がほどこされたテワナドレス、レースの縁取りのペチコート、レボーソ(ショール)…。それらは美しいフリーダによく似合った。ディエゴと結婚するまではヨーロッパ風のワンピースやマニッシュな装いもしていた彼女だが、メキシコ独自の文化を愛したディエゴは、民族衣装を着ていないメキシコ女性は「異国に憧れて心理的かつ感情的に依存しているだけだ」と述べているほどだった。彼の影響もあってかフリーダのクローゼットは民族衣装一色になっていき、ネックレスや指輪、イヤリング、ブレスレットなど派手なアクセサリーで身を飾った。彼女がメキシコ女性以上にメキシコ風に、過剰ともいえる装いになったのは、民族衣装にはメキシコの歴史、記憶が織り込まれていることを強く意識したからだろう。石内はその装いはフリーダにとって「身を守る防御のような、魔除けのような役割もあったと思う」と話している。

 フリーダが愛用した華やかな刺繍がほどこされたテワナドレスは、母の出身地オアハカ州イスモ地方に伝わってきたものだ。イスモの地名は「花の咲く場所」(イスタ・ソチトラン)を語源にするように、豊かな自然に恵まれている。テワナドレスにオリエンタルなデザインの刺繍が採り入れられるようになったのは近代以降といい、フリーダが愛用したことで広く知られるようになった。メキシコ伝統の服飾文化の中に新たな要素を取り込み、それでもメキシコらしさが損なわれないのはフリーダその人とも重なる。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

与那原恵

ノンフィクション作家。1958年東京都生まれ。『まれびとたちの沖縄』『美麗島まで 沖縄、台湾 家族をめぐる物語』など著書多数。『首里城への坂道 鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』で河合隼雄学芸賞、石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞(文化貢献部門)受賞。

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