ひところは「小ローマ」とも呼ばれた長崎

 1614年の全国的な禁教令の後も、信仰を続ける者が多かったが、1629年ごろに踏絵(絵踏み)、1634年に諏訪神社の大祭「くんち」が始まると、町民は全員どこかの寺に属し、かつ神社の氏子とされた。長崎のキリシタンは、建前上はすべて「転んだ=棄教した」のである。
 一方で、1637年に起きた島原の乱は、幕府に衝撃をもたらした。ポルトガル船追放など、長崎への影響も大きく、それまで年に数ヶ月、江戸から “派遣”されていた長崎奉行は“常勤”となった。それは、農民一揆の側面も強かったとはいえ、蜂起した多くがキリシタンだったからである。
 長崎の人々も、表向きは転んでいるが、元々は“筋金入り”である。乱から15年も経った時の長崎奉行でさえ「(南蛮船が入港するようなことがあれば)転んでいた者たちが精神バランスをくずして、万が一のことがあるのではないか」と、老中に伝えている。(『長崎奉行の歴史』木村直樹/角川選書)
 乱は、3万7000人ともされる一揆軍の「皆殺し」で終わった。南部を中心に人口は激減。村によっては無人となり、九州各地や小豆島などからの移住が、半ば強制的に進められた。これにより、いまも島原半島では、隣り合った地域で方言や生活習慣が大きく違うことがある。
 ひとたび長崎のキリシタンたちがまとまり、意を決して立ち上がれば、おなじような事態になった可能性があるだろう。

 また、禁教後に棄教したキリシタンは「転びキリシタン」とされ、本人だけでなく、3代から6代に渡る親族までもが特別な監視と管理の下に置かれた。場合によっては「非人身分」とされ、住む場所が厳しく制限されることもあった。
 ほぼ全員がキリシタンだった長崎では、もちろん監視と管理の制度は徹底していたが、町を“解散”させ、流配の方針が取られてもおかしくなかったかもしれない。幕末から明治にかけての「浦上四番崩れ」では、実際に3000人を超える潜伏キリシタンが、各地に流された。
 ただしこの町には「外国との貿易」という、特別な役割と能力があった。いくら転びキリシタンの集まりとはいえ、大きな利益をもたらしてくれる者たちを、幕府としても、無下にするわけにはいかないだろう。
 長崎の人々にしても、信仰を棄てたのは本意でなかったにせよ、一揆を起こしたくなるほど、食うに困ってもいなかった。殉教や潜伏を選ぶ人もいたが、それなりの生活の魅力は、どんな時代や社会でも、大多数の人にとっては抗しがたいものだ。
 幸いにして長崎の町は、外国船を受け入れる港以外は、三方を山に囲まれている。大きなトラブルが起きないよう、起こさないよう、為政者と住民がバランスを取り合いながら存在していくことになった。
 
 そうして成り立つ鎖国時代の長崎は、しばし「会社」にたとえられる。町全体が、唐船や阿蘭陀船との貿易を円滑に行うための業務を一手に引き受ける、企業体のようなものだ。
 長崎にはいまも、貿易品を積むのに必要な籠を作っていた「籠町」や、船の修理をした「船大工町」、あるいは輸出品の銅を作った「銅座町」などの町名が残るが、つまりは「籠課」「船大工課」「銅製造課」で、町民すなわち“社員”である。18世紀に入ったころには、盆と暮れの「箇所銀・竃銀(かしょぎん・かまどぎん)」という“ボーナス”までもが制度化された。支給の減額や滞りもあったようだが、この時代に年貢を納めるどころか、女性や子どもも含む住民全員に支給される手当である。長崎に暮らす特権と言っていいだろう。

 ただし、条件がある。踏絵だ。

 キリシタン禁制の世では、寺への所属を記す「宗旨改帳」が、現在の戸籍や住民台帳にあたる。長崎では、これに加えて踏絵がセットになっていた。
 踏絵については、禁教初期の摘発や棄教の手段として、一時的に行われたというイメージがあるかもしれない。しかし実際には、1629年ごろから江戸時代の終わりまで、約230年も続けられた。
 日程も決まっている。毎年のお正月明けだ。
 長崎のお雑煮には、鶏肉やブリ、唐人菜と呼ばれる独特の菜っ葉など、多い家では十数種類の具が入る。寛政の改革以前は、干しアワビや干しナマコも使われていたという。「今年の雑煮も旨かったバイ」などと言っていると、踏絵がやってくるのだ。
 まずは一月三日に町年寄が行い、四日から町の踏絵が始まる。
 町の役人が、奉行所から真鍮板の聖像を受け取り、家々を一軒ずつ回る。家では掃除の上、みな着飾って待つ。聖像が到着すると、主人から順番に名を呼ばれ、役人の前で踏む。まだ歩けない乳幼児は、大人が抱いて足を下ろす。起き上がれない病人や老人の足には押し付ける。江戸後期の出島の商館長・メイランは「いかなる口実をもってしても、誰もこれを免れることはできない。……日本人の間では、物に足を当てることほど大きな軽蔑のしるしはない」(『日本』「日本人の十二箇月について」/『長崎県史』史料編第三)と記している。

 強制と軽蔑の儀式は、繰り返されるうちに年中行事となる。丸山の遊女たちは、この日のための衣装をあつらえて盛大に着飾った。多くの見物客を集めたことで「踏絵は一種のお祭りだった」と言われたりすることもある。

 果たしてそうだろうか?
 自分だったら、踏めるだろうか?

 私はクリスチャンではない。でも、イエスさまやマリアさまを「踏め」と言われたら、とても嫌だ。「殺す」と脅されたら踏む可能性は高いが、本当は嫌だ。
 でも、一度やってみようかと考えたことがある。踏絵をしていた長崎の人の足の感触だけでも……と思いついたのだが、踏んだ瞬間を想像すると、なにか一生取り返しのつかない“傷”のようなものが、足の裏に刻まれそうで、とても実行する気になれなかった。

 お祭り騒ぎの遊女見物もたしかにあったが、踏絵が終わった家々では、お正月とはまた別の祝宴が催された。「長崎独特のもので絵踏厄払万歳とでも言ふべきもの」たちが「あたかも諏訪神事の踊りが庭先へ踊り巡るやうに、家々を踊り回るのであつた。」(『長崎市史 風俗編』古賀十二郎)
 初期の踏絵は生死を賭したものだったろうし、時代が下っても、決して心待ちにしていたわけではなかった。長崎の人々のお正月は、踏絵が済んで初めてやってきたのだ。

 真鍮板に刻まれた聖像には、磔刑や茨の冠のイエス、十字架から下ろされて聖母に抱かれるイエスなどの図柄があったのだが、「幼子イエスとマリアの像が回ってきた町には良くないことが起きる」などとささやかれていたそうだ。元をたどれば、自分が、親が、先祖が信じ、祈り、愛した存在である。愛憎のベクトルこそ逆だが、「特別なもの」と思うことに変わりはない。
 「足で踏む」という、あまりにひどい方法ではあるけれど、年に一度「イエスさまやマリアさまに会える日」と思う人もいたのではないか。毎年正月の踏絵は、長崎の人たちの過去や信仰を、とてもいびつな形で守り続けたのかもしれない。
 
 江戸時代の長崎には、帯刀を許された地役人から日雇いの荷運び人足まで、様々な人々が暮らしていた。華やかな港町ではあったけれど、ひとたび地面に目をやれば、目には見えないマリアさまが刻まれた無数の足が、どこか不安げに右往左往していたのである。つづく