長崎の町を、ずーっと潜って降りていくと、キリシタンの町が現れる。
 いまは小さな官庁街にすぎない「長い岬」には、教会が並んでいたし秋の大祭「くんち」は、禁教に抗した行列によく似ていた
 現代にもつながる“長崎の基礎”が築かれた時代を、あらためて巡ってみよう。

 1549年にキリスト教が日本に伝えられると、為政者たちは、宣教と貿易を天秤にかけながら、保護や黙認、弾圧のあいだを行ったり来たりした。キリシタンへの対応は地方によっても温度差があったが、長崎は、キリシタン大名の家臣が治める、西の果ての隠れ家のような土地だった。その港へポルトガル船が入ることになり、1571年に新しい町が作られはじめると、故郷での生活よりも信仰を求める人が続々と集まってきた。

 しかしこれで安泰だったわけではない。南蛮貿易の利を持つ長崎は、周辺勢力からたびたび激しい攻撃を受けた。
 1580年に長崎の町と茂木(長崎と島原方面をつなぐ港)がイエズス会に寄進されたのは、その対策でもあった。宣教師たちの指導により、町の防衛が強化された。「長い岬」の回りは堀と柵で固められ、砦と大砲が据えられて、小さいながらもヨーロッパ的な城塞都市となった。火縄銃を扱う兵士も相当数いたという。
 「キリシタンの町」と聞けば、朝夕に鐘の音と祈りの声が響くおだやかなイメージが湧くかもしれないが、実際には、信仰と生活と自由を、命がけで守る日々だったのである。

「長い岬」だったところ。石垣は後の時代に作られた部分も多いのだが、そそり立つ“要塞”が想像できる。


 長崎の「イエズス会時代」は、1588年に秀吉が天領とするまで、約8年間続いた。「伴天連追放令」や教会取り壊しの命で水を差されることもあったが、そこは、故郷を捨てる覚悟でやってきて、その後も戦いぬいてきた人たちである。教会が壊されれば、次にはもっと立派な教会を建てた。道には石畳が敷かれ、パン屋があり、牛肉も日常的に食べられていたという。1607〜8年のものとされる排耶書(キリスト教を否定する書)の『伴天連記』には、「日本にては長崎が良摩(ローマ)なり」と記された。
 いまでこそオランダの町並みを再現した「ハウステンボス」なるものがあるが、400年以上も前に、テーマパークではない、自分たちが住む町として「小ローマ」を作っていたのである。建物自体は木造の瓦葺き、板葺きなので、見た目こそ“和風”だが、中世の日本において、キリスト教の価値観と生活様式による、ひとつの町が存在していたのだ。
 そこで世界的な事件が起こる。1597年、町外れの西坂(にしざか)の丘で、二十六聖人が殉教した。宣教師たちを大阪や京都から連れてきてまで処刑したのは、長崎への見せしめの意図もあったようだ。処刑に際しては外出禁止令が出されたものの、多くの人が西坂を目指して道にあふれ、あるいは家の屋根や山にのぼって、殉教の丘を見つめた。
 当時、長崎に暮らしていたスペイン商人のアビラ・ヒロンは、こんな「現地レポート」を残している。

「すべてその場にいた人々の叫び声、泣き声、すすり泣き、うめき声などのどよめきはすさまじいものだったので、そこからはるか遠くまでとどろき渡っていた。……人々の悲痛な叫びは、天までどよもし、こだまして鳴りわたっていた。」(『日本王国記』)

 これは決して、オーバーな表現ではないと思う。三方を山に囲まれた狭い長崎の町では、一度大きなサイレンが鳴れば、その音はしばらくこだまを重ねるし、山の上の家に住んでいても、港の船の汽笛や小学校の校内放送がありありと聞こえてくる。見渡す限りの人々が叫び、嗚咽したのなら、そのあいだは間違いなく、町全体が声に包まれ、ひとつになって震えたはずだ。
 強い信仰心を持つ長崎の人々にとって、二十六人の処刑は見せしめどころか、殉教という栄光の“実物”を目の当たりにし、胸に刻み付ける、この上ない“祝福”の機会だったのではないだろうか。

二十六聖人殉教地


 その後、信仰について特に厳しい政策は取られなかった。長崎はますますキリシタンの町となり、イエズス会だけでなく、ドミニコ会、フランシスコ会、アウグスチノ会などの教会が、次々と建てられた。教会だけでなく、病院や福祉施設、それを運営する組織も作られていた。中でも、1583年創立の「ミゼリコルディア(慈悲)の組」には、町のお偉方や豪商たちも加入しており、禁教前には7つの病院や、老人、孤児の養護施設などを経営していたという。

 しかし、1614年に徳川幕府が出した全国的な禁教令は、さすがの長崎も例外とはならなかった。
 もちろん長崎の人たちが、それをすんなり受け入れたわけではない。その年の5月には、10回もの「聖行列」が激しい抗議と信仰への決意を込めて行われた。数百人から数千人、多い時で1万人を超える人々が、十字架や聖像を掲げ、自らを縛り、血を流しながら町中を練り歩くのである。しかも沿道には、歓喜と憧れの目でこれを見る人が鈴なりだった。当時の長崎の人口は2万5千人ほど。つまりはほぼ全員が、なんらかの形で参加していた可能性が高い。

聖行列を思わせるくんちの行列が、元サン・フランシスコ教会の前を通る。


 その甲斐もなく、11月のたった2週間ほどのあいだに、ほとんどの教会が壊された。

「神々しい天主堂が倒された時、帰依心あついキリシタンたちが抱いた悲しみも、信仰心厚い女たちの泣き声、抑え得ずしてすべての人々が流した涙は、実に大変なものであった。」(『日本王国記』)

 開港から43年。いくつもの試練を乗り越えて信仰を守ってきた人たちが、禁教令ごときで心を変えるだろうか? 西の果ての最後の砦の町からは、もう逃げていく場所もない。「教会は倒されたけれど、目を閉じればいつでもよみがえる。殉教を遂げた方たちに誓って、キリシタンとして生きていこう……」くらいのことは、だれもが思っていただろうし、実際、その後も信仰を続ける人が多かった。
 しかし、迫害と弾圧は、じわじわと厳しさを増した。ミゼリコルディアの病院などは、その重要性から5年ほどは残されていたが、ついには壊された。捕縛、拷問、処刑。懸賞をかけた密告の奨励。1622年には五人組の制がキリシタン摘発にも使われるようになり、1629年ごろには踏絵が開始された。住民すべてがどこかの寺に属する「寺請制度」ともつながって、長崎の町民である以上、表向きはもはやキリシタンではなくなっていた。地下組織となっていたミゼリコルディアも、1633年に最後の組長が殉教し、解散した。“町民総参加”のくんちが始まったのは、その翌年である。

 一口に「禁教」と言っても、そこには長く深いグラデーションがある。長崎の町も人も、はじめは抗いつつ、やがては押し流された。殉教の栄光に憧れながら、大多数の人はそれを自分のものとはできないまま、聖像に足をかけ、生きていくしかなかったのである。つづく)(写真 ©Midori Shimotsuma)