異国情緒たっぷり、絢爛豪華な長崎くんちは、元をたどれば、キリシタン禁制にともなう“人心荒廃”への“対策”であった。
 くんちが始まった1634年は、禁教から20年経ったころ。それでも信仰を守るキリシタンへの弾圧はいっそう厳しくなり、処刑、殉教が後を絶たなかった。1633年には天正少年遣欧使節だった中浦ジュリアンが殉教している。
 信仰だけでなく、渡航や貿易の自由も制限された。1635年、日本人の海外渡航と帰国が全面禁止となる。1636年には出島が完成し、それまで市中に暮らしていたポルトガル人を収容。混血の人々はマカオに追放された。
 長崎といえば、中国やヨーロッパからの船が珍しい物を積んで「やってきた」というイメージが強いかもしれないが、この時代までは、自前の船で東南アジアに出かけ、莫大な利益を得る豪商が何人もいた。それが、信仰を奪われた上に、自らの才覚による事業もできなくなってしまったのだ。広い海から狭い町に上がり、唐船やポルトガル船の“荷さばき業務”をこなすだけ。食いはぐれることはないにしても、過ぎし日への思いは、悶々とつのるばかりだったろう。
 くんちへの参加を強いられたのは、そんな人たちだった。

 ところで、くんちのメイン・イベントは、昔も今も、神輿渡御である。龍踊、阿蘭陀船、唐人船、本踊、コッコデショといった「奉納踊り」を「主役」だと思う人が多いだろうが、そうではない。
 諏訪神社に祀られている「諏訪」「住吉」「森崎」の神さまが、10月7日の朝に踊りの奉納を受けられたあと、大勢のお供を引き連れ、港の「お旅所」へ2泊3日の旅に出る。7日の往路は「お下り(おくだり)」、9日の復路は「お上り(おのぼり)」として親しまれている。

猿田彦を先頭に進む神輿渡御の行列
神輿


 神輿を担ぐのは、初期のころから「神輿守町(みこしもりちょう)」が担当している。奉納踊りを出す「踊町(おどりちょう、おどっちょう)」を取り囲むように広がるエリアで、江戸時代には「長崎村」と呼ばれた。そして踊町は、別名を「お供町(おともちょう)」ともいう。踊りの人たちはあくまで「お供」に過ぎず、神さまが乗る神輿を担ぐことはない。 
 いまとなっては奉納踊りが“主役”であるし、神輿渡御の世話も取り仕切る踊町なしにくんちは成立しないのだが、元々の骨組みを考えれば、踊町の役割はあくまで表面的なもの。元・キリシタンの町に求められたのは、賑やかしの行列だけなのである。

 くんちのごく初期には、神輿への投石や進路妨害が度重なったというが、その石を投げた者も、結局は「お供」の行列に連なるしかなかった。
 その一方、長崎奉行の交代はくんちの時期に合わせられていた。神輿渡御や踊りの奉納は、「この町を司っているのは誰なのか」を確認させるかのように、新旧の奉行や名代が見守る中で行われた。

 江戸時代のくんちは、するほうもさせるほうも切実な、一種の「お祭りプレイ」だったのだ。

 それはそれでと気を取り直したのか、長崎の町の人たちは「お供の行列」を、自分たちの祭りに育て上げてきた。長崎らしい異国の飾り物や龍、宝を運ぶ船が、まずは行列の飾り物として現れた。時代が下ると、それぞれが独自に動くようになり、行列を飛び出し、町中を空や川や海に見立てながら駆けめぐるようになった。

川船。根曳きの衣装は『川の流れ』を表している


 この変化と発展は、現在もなお、むしろ年々強まりながら続いている。鎖国時代に公認だった唐船や阿蘭陀船があるのは納得だが、近年、かつて禁じられたポルトガル船(『南蛮船(なんばんせん)』)や、安南国の王女の輿入れ行列を伴った豪商の船(『御朱印船(ごしゅいんせん)』)までもが現れたのは、この地に眠る人々の遠い日の夢が、今になって叶ったのかな、と思わずにいられない。長崎の人たちは、くんちを通して、自分たちが何者であったか、どんなふうに生きたのかを、見せようとしているのではないだろうか。

御朱印船。帆の文様はオランダ東インド会社のマークを逆さにしたもの

 
 その上で、あらためて「行列」に注目したい。
 龍や船が、どれだけ独立したものに見えても、くんちの奉納踊りは、やはり「行列」である。奉納の場所には「傘鉾(かさぼこ)」という町印を先頭に、多い町では200人近い人々が延々と列をなす。踊りだけでなく、行列自体が演し物である。これとは別に、神輿渡御の「お下り」「お上り」の行列もある。三体の神輿を中心に、総勢約1000人が、諏訪神社からお旅所までの道を練り歩く。くんちの3日間は、あっちでゾロゾロ、こっちでゾロゾロ、とにかく行列だらけである。

神輿渡御の年番町の行列。紋付袴に山高帽が正装


 くんちの行列は、神輿のお供の行列。それは間違いないのだが、長崎には、また別の行列の記憶がある。

 「聖行列」だ。

 くんちの始まりから20年前の、1614年5月。長崎の町には、禁教令に抗議、抵抗する千人単位の行列が次々に現れた。当時のスペイン商人、アビラ・ヒロンの記録によれば、人々は、グループごとに揃いの衣装を着け、旗印や十字架、聖具、聖人たちの作り物を手にしたり、山車を担いだりした。また、自らを縛り、お互いに鞭打ち、血を流しながら歩く者たちも多かった。沿道には、歓喜と憧れの目で行列を見つめる人たちが、屋根の上まであふれていたそうだ。

 くんちの行列と、なんとよく似ていることか。足を腫らし、喉をからしながら町を回る「庭先回り」までもが、「縛ったり鞭打ったり」の「苦行感」に通じている。歓喜する群衆も、まったくそのままだ。

 キリシタンの心を抑えるために始められたくんちの行列が「キリシタンの聖行列と重なる」などと言う人は長崎ではほとんどいないし、言ったところで、あまり歓迎はされないだろう。
 しかし「長崎学の父」と称される古賀十二郎は、くんちの行列と「吉利支丹行列(プロシッサン=聖行列)」の間には少なからぬつながりがあることを示唆する。「吉利支丹宗門の行われていた時代から行列に慣らされた長崎人は今なお行列を好むのである。」(『長崎市史 風俗編』「吉利支丹の行列」)
 初期のくんちに参加した人たちと、聖行列に加わり、見つめたのは、おなじ人たちである。新しい祭りの行列に20年前を思い出し、歩みを進めながら、「あの時」の気持ちがよぎったとしても不思議ではない。
 「彼らはもうキリシタンではなかった」と片付けるのは簡単だが、400年近くにも渡ってくんちが続き、過剰とも思えるパワーが注ぎ込まれ続けていることについて、単純な楽しみや感動への欲求で割り切ることが、どうしてもできないのだ。

 キリシタンの町だった長崎と、それが失われるころをたずねてみたい。
つづく)(写真 ©Midori Shimotsuma)