小林秀雄先生は、桜も好きだった。六十歳を過ぎてからだが、ほぼ毎年、花見に出かけた。昭和三十七年(一九六二)、六十歳、長野県高遠城の「血染めの桜」に始まり、三十九年、青森県の弘前城、四十年、岐阜県根尾谷の「淡墨桜」、四十一年、秋田県角館の枝垂桜、四十二年、京都・常照皇寺の「九重桜」、この「九重桜」は見頃に会えず、翌四十三年、再び常照皇寺、四十四年、神奈川県小田原郊外長興山の枝垂桜、四十五年、京都の黒谷、四十六年、栃木県日光の東大植物園、四十七年、福島県三春の「滝桜」、四十八年、再び「滝桜」、四十九年、島根県三隅の「大平桜」、五十年、三たび「滝桜」、五十四年、岩手県盛岡の「石割桜」、この「石割桜」も見頃に会えず、翌五十五年、再び「石割桜」、五十六年、山梨県武川の「山高神代桜」……。遠路を厭わず、ものともせず、だった。山高神代桜を見に行った年は、七十九歳だった。

 昭和三十七年、長野県高遠の「血染めの桜」は、先生が永年関わった出版社、東京創元社の社長小林茂氏に誘われてのことであったが、この旅が、その後の二十年、桜の虜となって暮らす発端だったようだ。昭和三十七年といえば、「本居宣長」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27、28集所収)を始める三年前である。三十五年七月には、助走とも言うべき「本居宣長――『物のあはれ』の説について」(同第23集所収)を出していた。本居宣長その人の桜好きも夙に知られているが、昭和四十年六月、『新潮』に連載を始めた「本居宣長」では、のっけの第一章で宣長という人がどんなに桜の好きな人であったかを言い、しかもその愛着には何か異常なものがあったと言って、桜との契りが終生忘れられなかった宣長の歌を引いている。

我が心 やすむまもなく つかはれて 春はさくらの 奴なりけり
此の花に なぞや心の まどふらむ われは桜の おやならなくに
桜花 ふかきいろとも 見えなくに ちしほにそめる わがこころかな

「奴」はしもべ、召使い、「おやならなくに」は親ではないのに、「ちしほ」は色濃く染めることを言う。
 先生自身から聞く機会はなかったが、おそらく、先生の桜への思い入れは、「本居宣長」を書くと決めて本腰入れて宣長を読み始めた昭和三十四、五年の頃、宣長の桜との契りに眩暈(めまい)をさえ覚え、宣長を知ろうとするなら宣長が抱いていた桜に対する愛着がわからないでは始まらない、そう気づいた瞬間からだっただろう。高遠に次いで弘前、さらに根尾谷と訪ねるうち、先生自身、物狂おしいまでの愛着を覚えていったにちがいない。
 しかし、桜も一言では語れない。桜というと、私たちはほとんど反射的に、ソメイヨシノの満開を思い浮かべるが、小林先生はそうではなかった。まずいちばんに山桜、次いで八重と枝垂れであった。ソメイヨシノはエドヒガンとオオシマザクラの雑種で、徳川時代の末に江戸の染井、今日の豊島区駒込の植木屋から出たという。育てるのに手がかからず、花付きもよいところからあっというまに各地に広がり、桜といえばソメイヨシノというほどの繁盛になった。しかし、先生は、ソメイヨシノは品がないと言っていた。昭和四十五年八月、九州の雲仙で行った講演「文学の雑感」(新潮CD「小林秀雄講演」第1巻所収)では、本居宣長の最も知られた歌、「しき嶋の やまとごころを 人とはば 朝日ににほふ 山ざくら花」を取り上げ、「山ざくら花」とはどういう花か、それが「におう」とはどういうことかを丁寧に説いているが、その流れのなかでソメイヨシノにふれ、ソメイヨシノは品がないどころか、冗談めかしてではあるものの「俗悪」とまで言っている。
 山桜は、単に山に咲く桜、の意で言われることもあるが、宣長や小林先生の心をつかんだのは、野生する桜の一品種としての「山桜」である。高さは十メートルにも達し、若葉は赤褐色、春には葉と同時に淡紅色の花をつける。知られた名所は吉野だ。宣長は、四十代の初めに吉野の桜を見た。宣長の桜を見る目が、この頃から変ったと言われる。宣長の地元、三重県松阪市の本居宣長記念館の館長、吉田悦之さんは、近著『宣長にまねぶ』で、この吉野への旅で、宣長はあらためて自分と桜との浅からぬ因縁を自覚しただろうと言われている。そして宣長は、晩年、随筆集「玉勝間」の六の巻に書いている、「花はさくら、桜は、山桜の、葉あかくてりて、ほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲きたるは、またたぐふべき(匹敵する)物もなく、うき世のものとも思はれず……」。小林先生も、山桜はやはり吉野がいいと言っていた。先生が雲仙で講演した昭和四十五年の夏、「本居宣長」の連載は六年目に入っていた。山桜に寄せる先生の愛着は、もはや宣長の愛着と寸分違ってはいなかったであろう。

 桜は、一言で語れない。私たちの桜に対する誤解は、もうひとつある。今年、ソメイヨシノの開花は東京では三月二十一日だったが、桜の開花と聞けば満開が気になる、だが、先生は言っていた、――花にも見頃というものがある、そういうことを知っている人も少なくなった、花の見頃は、七分咲きだ、満開となるともうその年の盛りは過ぎている、花に最も勢いのある時期、それが七分咲きだ、昔の人は皆それを知っていた……。そして、こうも言った。――春になると、作家や絵描きが、あそこの桜は見事だとか、どこそこの桜はこうだとか、得意げに書くだろう、みんな嘘っぱちだね、桜の見頃はそう易々と行き会えるものではない、見頃を見ないで見たとは言えぬ、彼らはそんなことも知らずに書いているのだ……。
 したがって、先生の花見の用意は周到だった。今年はあそこのあの桜を見ようと思い定めると、正月明けから現地に問い合せ、見頃は例年、どれくらいの時期になるかをまず訊く。そしてその見頃の時期に素早く動けるよう、花見旅最優先で仕事の段取りを調える。やがて三月彼岸の頃、冬の冷え込み具合や春風の吹き方などから現地では今年の見頃をいつと読んでいるか、それを訊き出し、見頃が近づくと毎日のように電話をかけ、いよいよ明日あさってのこととなるや一目散に現地へ向かう。
 だが、しかし、思惑外れも避けられない。昭和四十二年、六十五歳の年、京都・常照皇寺の「九重桜」がそうだった、五十四年、七十七歳の年の「石割桜」もそうだった。「石割桜」のときのことは私も先生から聞かされたが、先生に同行した那須良輔さんが書いている、――昭和五十四年四月十九日、盛岡に赴いて石割桜を見る、その名の通り、大きな石の真ん中を割って育った有名な古木だが、この年はまだ二分咲きだった、何日も前から何度も現地へ問い合せ、見頃を狙ったにもかかわらず、急な寒波のぶり返しで花が萎縮してしまったらしい、小林さんは、たしかに落胆した様子だった、けれど、花見というものはこういうものなんだよ、見頃に出会える機会は、五年六年足を運んで、やっと一度、あるかないかというのが本当だ、見頃というのは一瞬だ、その一瞬に花の下に立っていられるかどうかだ、そんな絶好機に、そうそう簡単に出会えるわけはないはずだろう、また来ようよ……(「好食同伴記」)。
 翌五十五年春、先生と那須さんたちは、再度「石割桜」を見に行った。見頃に会えた。一日に七回眺めて帰ってきたと那須さんは書いている。

 先に引いた宣長の歌を、ここでもう一度、読んでいただければと思う。あの三首は、小林先生が宣長の逸る気持ちを読者に伝えようとして引いたのだが、そこには、小林先生が、桜に寄せる自分の気持ちを宣長に代弁してもらう、そういう思いが重ねられていたとも読めるだろう。
 先生の桜との契りは、あの歌の調べのままに、まだ続く。昭和五十一年一月、三十年にわたって住んだ「山の上の家」から鶴岡八幡宮の前の平地に移るが、新居に手ずから植えた枝垂れ桜と、旧居に残した八重桜、この二本の桜に、先生との契りの深さをあらわす出来事が起るのである。

(第十三回 了)

★小林秀雄の編集担当者・池田雅延氏による、
   小林秀雄をよりよく知る講座

小林秀雄『人生の鍛錬』を読む
4/6(木)18:30~20:30
新潮講座神楽坂教室


 「小林秀雄『人生の鍛錬』を読む」と銘打ったこの講座では、新潮新書『人生の鍛錬――小林秀雄の言葉』をテキストとして、小林秀雄の名言名句を素読します。素読とは、文章中の単語の意味を調べたり、文章の意味を解釈したりすることは一切せず、何人かが集まって声に出して何度も読む、それだけで書いた人の思いや訴えたいことを身体で感じ、察知するという、小林秀雄が強く勧めていた読書法です。
 小林秀雄の活動時期を3期に分けて、第1期は24歳~37歳、第2期は38歳~51歳、第3期は52歳~80歳とし、講座の前半は池田講師がそれぞれの回に該当する時期の小林秀雄について語ります。後半はそれと同じ時期の小林秀雄の言葉を『人生の鍛錬』から出席者に選んでいただき、全員で素読します。
 さあ、この素読でまた、小林秀雄がいっそう身近に姿を現します。一般には難しいと言われている小林秀雄が、実は簡潔、明快で、生きるパワーをふんだんに与えてくれることを知って背筋が伸びる、この講座はそんな感動と驚きの120分です。
 4月から新たに始まる3回シリーズは次のとおりです。
 第1回 4月 6日(木) 第1期(24歳~37歳)
 第2回 5月11日(木) 第2期(38歳~51歳) 5月のみ第2木曜日です
 第3回 6月 1日(木) 第3期(52歳~80歳)

小林秀雄と人生を読む夕べ
【その6】〈文学を読むIII〉『文学と自分』

4/20(木)18:50~20:30
la kagu(ラカグ)2F レクチャースペースsoko

 平成26年(2014)10月に始まったこの集いは、第1シリーズ<天才たちの劇>に<文学を読むⅠ><美を求めて><文学を読むⅡ><歴史と文学>の各6回シリーズが続き、今回、平成29年4月から始まる第6シリーズは<文学を読むⅢ>です。

*日程と取上げる作品 ( )内は新潮社刊「小林秀雄全作品」の所収巻
第1回 4月20日 文学と自分(13) 発表年月:昭和15年11月 38歳
第2回 5月18日 対談・大作家論(16)対談者=正宗白鳥
                       同23年11月 46歳
第3回 6月15日 中原中也の思い出(17) 同24年8月 47歳
第4回 7月20日 「白痴」についてⅡ(19) 同27年5月~ 50歳  
第5回 8月17日 人形(24) 同37年10月 60歳
第6回 9月21日 生と死(26) 同47年2月 69歳
☆いずれも各月第3木曜日、時間は18:50~20:30です。
 
 第1回は「文学と自分」です。昭和15年8月、朝鮮と満州で行った講演がもとになっています。日中戦争を強く意識しながら、表現とは、言葉とは、伝統とはと、嚙んで含めるように語った小林秀雄名講演の一つです。
 第2回の「大作家論」は、正宗白鳥との対談です。戦後まもない頃で、好きな酒に不自由していた小林の前に、酒が出されました、たちまち乱酔かつ酩酊、敬愛してやまない大先輩に向かって……という、伝説的武勇伝で聞こえた一大対談です。
 第3回「中原中也の思い出」は、若くして逝った天才詩人、中原中也との間で織りなした悲劇と友情に思いを沈めます。あの日、中原とふたりで見上げた海棠(かいどう)は美しく哀しく、そして今、悔恨の穴は深くて暗いと記す小林の心が心にしみます。
 第4回の「『白痴』についてⅡ」は、20年もにわたって苦闘したドストエフスキーの作品論のうち、小林自身が一番よく書けたと言っている力篇です。クライマックスの原文はすっかり頭に入っていて、まったく原文は見ないで書いたといいます。
 第5回の「人形」は、400字詰め原稿用紙でわずかに3枚、しかし、感動の大きさは計り知れません。ある時、私は大阪行の急行の食堂で遅い夕食を食べていた、前の席に六十格好の老人夫婦が腰を下ろした、細君は、人形を抱いていた、その人形は……。
 第6回の「生と死」も講演文学の白眉です。死は前からではない、後ろから迫るのだと言った「徒然草」の兼好、また亡くなったばかりの志賀直哉の骨壺、獅子文六の牡丹などを引いて、それぞれの死を得るさりげない工夫を小林秀雄もさりげなく語ります。

◇「小林秀雄と人生を読む夕べ」は、上記の第6シリーズ終了後も、小林秀雄作品を6篇ずつ、半年単位で取り上げていきます。