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随筆 小林秀雄

 小林秀雄先生の住まいは、鎌倉・鶴岡八幡宮裏手の山の上にあった。庭に面した居間からは眼前はるかに相模湾が光り、右手前の山裾向こうには伊豆大島が浮かんでいるというすばらしい眺望の住まいだったが、昭和五十一年(一九七六)一月、七十代も半ばとなってさすがにここには住みきれなくなり、八幡宮前の平地に移った。山の上の家は、大通りから入って玄関までがおよそ百五十メートル、とはいえいきなり上り坂で、わけても最後の三十メートルほどは急だった。
 山の上の家は、昭和二十三年六月、四十六歳の初夏、すでにそこに建っていた家を買って住み始めたのだったが、新居は更地に新しく建て、庭も先生自らデザインした。なかでも、最も気合が入ったのはやはり桜だった。横浜郊外の戸塚まで、出入りの植木屋と一緒に軽トラックに乗って探しに行った。戸塚の植木屋の広い畑に、親爺が実生から育てたという枝垂桜の若木があった。先生は、その枝ぶりがたいそう気に入り、買って帰って庭の真中に植えた。翌年、若木はさっそく花をつけた。花弁は純白で大きく、八重ではないのに八重と見紛うばかりのふくよかさである。先生は、この枝垂れ、品種が何かは植木屋にもわかっていないんだと言いながら、そのことをも楽しむように目を細めていた。

 しかし、それから六年、昭和五十七年三月の末、先生は体調に異変をきたして入院した。長女の白洲明子(しらす・はるこ)さんが書いている(「最後のお花見」、新潮社刊「小林秀雄全作品」別巻3所収)。
 ―八十歳の誕生日まであと十日余りの一昨年の三月末、父は入院しました。大好きな桜の便りがそろそろ聞かれる季節でした。父が桜が好きな事を主治医に漏らしましたら、では病状も落着いた事だし、週末にお花見をさせれば回復も早くなるかもしれないと言って下さいました。その時、庭の桜は満開でした。八十歳の誕生日に自宅で花見が出来る事になりました。父は興奮していました。ところが前の晩風雨が強く、帰宅した時地面は真っ白でした。家の者は本当にがっかりし、昨日まで庭の桜はどんなに綺麗だったかを父に説明していました。しかし父はこの花見をとても喜び、病院に戻り主治医に、今年はお花見を諦めていたのに素晴しい花見が出来ましたと、何度もお礼を言っていました。父が主治医の好意に感謝し花見を喜ぶ様は、前夜の風を憎らしく思っていた私には異様に感じられました。
 先生は、風雨に散った桜を、どういう思いで見たのか。秋になって、自宅に帰った先生が、見舞いに届けられたセザンヌの絵に夢中で見入る姿を見て明子さんははっとする。
 ―その時の父の目が、春の桜に向けた目とはぜんぜん違うのに気付いた時、私の中を風がすっと吹き抜けて行きました。そしてあの前夜の風のお陰で、父は素晴しい花見をしたのだと確信しました。/当時の体力で、自分の愛した花の満開の姿を見るのはとても辛く苦しく、堪えられない事だったでしょう。毎年庭の桜の満開の姿に接し、自慢にしていたものが散りはじめた様は、父の心には穏やかに、そしてこれまでのどの花によりも感動を覚えた事でしょう。そして同時に、主治医にどうしてあんなに感謝したかもはっきりと分りました。父は主治医に恩を感じたのです。後に事情があって病院を移る事になった時の別れの挨拶は、常と異なり、くどく、悲痛で、当時は唐突に感じましたが、今は納得のいくものであり、その時の父の心情を想えば、あの光景は生涯忘れられるものではありません。

 翌昭和五十八年一月二十六日、再び入院する。二月二十日を過ぎた頃、先生とは昵懇の間柄で、先生から山の上の家を譲り受けた画商の吉井長三さんが、山の上の家の庭の普賢象の枝を持って見舞いにきた。普賢象とは八重咲きの桜で、花の中心から葉のようになった緑色の雄蕊が二本出ているが、その先端が外に曲り、それが釈迦如来の右脇にいる普賢菩薩の白象の鼻のように見えるところからこの名があるという。先生は、この普賢象を、桜に執心するようになってしばらくして人から贈られ、これを山桜とともに庭に植えて毎年淡紅色の花を楽しんでいた。七年前の転居に際しては、移植も考えたほどだったが、大木とあってそれは叶わず、心ならずも山の上に置いてきていた。吉井さんが伐ってきた枝は、先生の枕許に飾られた。しかし、見頃は四月も末の花である、その日、蕾はまだ小さく、固かった。ところが、二月二十八日、暖かくしてある病室とはいえ、突如として普賢象が花びらをのぞかせた。その夜であった、三月一日午前一時四十分、先生は八十年の生涯を閉じられた。

 この普賢象の出来事を、東慶寺での密葬が終って初めて先生のお宅を訪ねた日、私は喜代美夫人から聞かされた。先生は、永年契りを結んだ普賢象の花を、必ずや目にして逝かれたにちがいない、私はそれを強く思い、先生が手塩にかけられた最後の桜、純白の枝垂れに目をやった。七年前、先生が手ずから植えられた枝垂れは、寒々と庭に立っていた。
 ところが、この枝垂桜も、その年の春は、不思議な振舞いを見せた。このときのことも、明子さんが書いている(「父小林秀雄」、同)。
 ―父が亡くなった年、庭の桜は何故か花芽が少なく、さびしい花でした。気候の関係だったのでしょうが、私は桜も喪に服してくれてるんだと勝手に思ってました。その次の年は、前年の分も一緒に見事な花をつけました。満開の桜の枝に、父が仙人みたいにちょこんと座っているのを見たような気がしました。
 庭に植えられたあの純白の枝垂桜が、満足に花をつけなかったという春は、先生が亡くなる年まで一度もなかった。

 先生遺愛の純白の枝垂桜は、今は吉井長三さんが小林先生に励まされてひらいた山梨県北杜市の清春芸術村に移されている。ここを、小林先生はじめ梅原龍三郎、ジョルジュ・ルオーといった、吉井さんが親交を結んだ文士や画家を偲ぶ聖地にもしたいと思った吉井さんの配慮である。
 その配慮を多とし、吉井さんに感謝しながらも、読者にはあえて言い添えておきたい。いま清春で見られる「小林秀雄の桜」は、かつてのふっくら感、たっぷり感がかなり失せている。それも、やむを得ない、清春は八ヶ岳の麓、標高七百メートルを超える高地である、鎌倉とは気候風土が違うのである。だから、読者にお願いしたい、清春芸術村で「小林秀雄の桜」をご覧になるときは、たとえば岐阜県根尾谷の「淡墨桜」、秋田県角館の枝垂桜など、読者がすでにご覧になったことのある名木をも思い起しながら、八重と見紛うばかりのふくよかさで咲きにおっていた「小林秀雄の桜」を思い出して下さるように、と…。

 六十歳の春から七十九歳の春まで、五百キロ、六百キロの道も遠しとせず、桜と契りを結び続けた先生であった。が、見たいと思いながら、行けずじまいとなった桜がある。先生がこの世に残した最後の思いも、明子さんに語っていただく。
 ―小田原市入生田(いりうだ)の長興山の枝垂桜は、近くだったせいか何回も行ってました。朝早く出て、帰りに小田原の寿司屋でお昼、のコースは楽しかったようです。でもひとつだけ、見たいと言いながら、果せなかった桜がありました。身延山の久遠寺の枝垂桜です。亡くなった翌々年でしたか、母と一緒に父の写真を持って行ってきました。…(同)

(第十四回 了)

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

池田雅延

いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。

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