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分け入っても分け入っても日本語

2016年5月3日 分け入っても分け入っても日本語

「オシャカになる」「シャカリキになる」

著者: 飯間浩明

連載にあたって

 これから毎週、語源、つまりことばの由来を考えていきます。
 語源について「解説する」のでなく、「考える」というのが肝心なところです。
 世間では、さまざまなことばについて、もっともらしい語源解説が加えられています。中には「本当だろうか」と疑わしい解説も多いのですが、受け取る側は、あまり真偽のほどは重要視していないフシがあります。語源は、せいぜい話のネタであり、面白ければいいんだ、という程度に考えている人も多いのではないでしょうか。
 でも、私たちが毎日使っている日本語のことです。どこから来たのか、できるだけ事実に近づきたいではありませんか。「こういう説もあります」と並べて解説するだけではなく、実証的、合理的に考えて、「ここまでは確かに言える」「少なくともこの語源説は違う」と、頭を働かせて考えてみることは大事なことです。
 といって、あまり難しい話をするのは、私も嫌です。気楽に読めて、しかも、「なるほど、そういうことはあり得るだろう」と、納得できる話をするつもりです。ご一緒に、語源の森に分け入っていきませんか。
(※連載の1回分の分量は、週によって長短があります。気まぐれですみませんが、どうぞご容赦ください)

オシャカになる

「エンジンがオシャカになる」「大風で傘がオシャカだ」のように、製品がだめになったり、ものが使えなくなったりすることを「オシャカになる」と言います。なぜここにお釈迦しゃかさまが出てくるのか、昔から不思議に思う人が多かったらしく、語源に関してはいくつもの説があります。
 その最も代表的なのが「火が強かった説」です。よく検討してみれば、これは否定するしかないものです。
「火が強かった説」というのはこうです。
 鋳物工場で溶接を行うとき、火力が強すぎてはんだが流れ、接着に失敗した。「火が強かった」から失敗したというわけで、これをしゃれのうまい人が「シ(ヒ)ガツヨカッタ=4月8日」に引っかけた。この日は灌仏会かんぶつえ、つまりお釈迦さまの誕生日だ。そこで、でき損ないの不良品のことを「オシャカ」と呼ぶようになった…。
 話としては面白いですね。あまりにも面白いので、多くの語源の本にも引用されているし、テレビのクイズ番組でも「正解」として紹介されることがあります。でも、俗語の成立過程としては回りくどすぎるようにも思われます。
 この説を唱えたのは楳垣実うめがきみのる。外来語の研究などに多大な業績を残した言語学者です。ただ、大学者の説だから常に正しい、ということはありません。楳垣よりひと回り若い言語学者の金田一春彦は、他の説とあわせて〈どうもこれも話がうますぎるようだ〉と、楳垣説をばっさり切り捨てています。
 もっと理屈の通る考え方はできないでしょうか。ここで、「オシャカ」ということばは、「不良品」以外にどういう意味で使われた例があるか、検討してみます。
 日本文学者の宮地崇邦みやちたかくにが雑誌『言語生活』の1960年12月号で「仏教から生活に入ったことば」について書いています。その中に〈釈迦の名から「オシャカになる」(死ぬことをいう)〉という説明があります。ここでは「オシャカになる」は「死ぬ」の意味と捉えられています。
「オシャカになる」を「死ぬ」と関連づけている辞書もいくつかあります。古いほうでは、たとえば1932年の『最新百科社会語辞典』にこんな説明があります。
〈「お釈伽〔原文ママ〕になる」「仏になる」即ち「死ぬ」の意より転じて、「ダアーとなる」〔降参する〕と同じ様な意味に使用されてゐる。即ち「まゐつた」とか「すつかりあてられた」等の意〉
 ここで説明している「オシャカになる」は、今の一般的な意味とは違いますが、その元の意味を「死ぬ」だと捉えていることは注目されます。
「死ぬのは『お陀仏だぶつになる』ではないの?」という疑問が湧くかもしれません。「お陀仏」は阿弥陀あみだ仏のことです。人は死ぬと「仏」になるとは言われますが、厳密には「阿弥陀仏」になるわけではありません。「お釈迦」、すなわち「釈迦牟尼しゃかむに仏」になるというのも、正確さの点では「お陀仏」と似たり寄ったりです。「お陀仏」が死ぬことなら、「お釈迦」も死ぬことの意味で使われたとしても不思議はありません。
 語源説の自然さという点から見ると、「火が強かった」からいくつものプロセスを経て「オシャカになる」が成立したというのは、いかにも迂遠うえんです。それよりも、「製品としてだめになる=死ぬ」ことから「オシャカになる」が成立したと考えるほうが自然だし、「お陀仏になる」という類義表現もあることから、より説得的です。
「オシャカになる」は江戸時代の文献には見えないので、近代の工場で生まれたということには信憑しんぴょう性があります。でも、「『オシャカ』と掛けて『製品がだめになること』と解く、その心は『火が強かった』」、と言うのでは、すごく説明の必要なしゃれになってしまいます。これで工場の仲間たちが「おっ、うまいことを言うなあ」と納得するかどうか、はなはだ疑問です。
 実際には、さしずめ、次のような会話から新表現が生まれたのでしょう。
「あっ、失敗した、この製品はだめになった」「仏になったんだな」「ああ、お釈迦になった…」
 何なら、「本当は『お陀仏になる』と言うべきところを、『お釈迦になる』と言い誤ったのだ」と捉えてもかまいません。でも、「お釈迦になる」に「死ぬ」の意味があるなら、どちらでも大差ないことです。
 かくして、語源の話になるとしばしば出てくる「オシャカになる」は、自然さという点から考えれば、「製品として死んで仏になる」という意味から出たと考えるほうが、より妥当ということになります。
 面白さの点では、「火が強かった説」にはとうてい及ばない結論です。でも、語源とは、雑談のネタにするために探究するものではありません。合理的に考えてみれば、事実はごく単純、ということはよくあります。「その語源が面白いかどうか」ではなく、「合理的に納得できるかどうか」を重視して、語源探究を続けていきましょう。
 ―「火が強かった説」以外の従来説にはどんなのがあるか、とうとう述べませんでした。いずれも根拠は確かめられず、ここで取り上げる価値はないものです。

シャカリキになる

 若い人がどのくらい使っているか分からないのですが、「シャカリキになって働く」「シャカリキにがんばる」などという言い方があります。「シャカリキになる」は、「(仕事などに)一生懸命になる」という意味です。
 なんでこんな言い方をするのか、実はよく分かりません。
「釈迦力」ではないのか、という説があります。インターネットでも「仏教用語です」「お釈迦さまの力ということです」と断定的に書いている人がいます。でも、これは考えにくいことです。
 仏教には「観音力」(観音さまの優れた力)ということばがあります。また、仏教用語とまでは言えないけれど、「普賢ふげん力」(普賢菩薩ぼさつの力)、「金剛力」(金剛力士の強い力)などのことばもあります。とすれば、「釈迦力」もありそうな気がしますが、古典には例がありません。
 もし、「釈迦力」から来ているならば、「観音力を念じる」「観音力が現前する」と同じように、「釈迦力を…」「釈迦力が…」などの言い方もあるはずです。でも、「シャカリキ」はもっぱら「シャカリキに(で)」の形でしか使われません。
「シャカリキ」は、実はかなり新しいことばです。終戦前に使われていたという証言もありますが、確かな例は戦後のものばかり。戦後に広まった俗語なんですね。ますます仏教用語とは縁遠い感じです。
 語形から意味の捉えにくいことばは、擬音(オノマトペ)ではないかと疑ってみる余地があります。かりに「シャカリキ」が擬音だとすると、その成り立ちは、「シャカ+リキ」か「シャカリ+キ」かのどちらかです。
「ぴっかり」に「こ」がついて「ぴっかりこ」と言うような例を思い浮かべると、「シャカリ」という擬音に「キ」がついた、「シャカリ+キ」もありそうです。泥酔状態を指す「へべれけ」も、「へべれ」の部分が「べろべろ」「べろんべろん」などの擬音と関係があると考えれば、「へべれ+け」かもしれません。
 ここから、「擬音にはコとかキとかケとか、カ行音が加わることがあるのだ」と結論づける道もあります。ただ、類似の例がほとんどないのは痛い。私としては、仕事や勉強を「シャカシャカ、シャカリ」と一生懸命やるイメージがあり、それに「キ」がついたと考えたいところですが、まあ「個人の感想」のレベルです。
 今のところ、「シャカリキ」の語源は不明と言わざるを得ません。ただ、少なくとも「釈迦力」ではない、ということは言えるでしょう。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

飯間浩明
飯間浩明

国語辞典編纂者。1967(昭和42)年、香川県生れ。早稲田大学第一文学部卒。同大学院博士課程単位取得。『三省堂国語辞典』編集委員。新聞・雑誌・書籍・インターネット・街の中など、あらゆる所から現代語の用例を採集する日々を送る。著書に『辞書を編む』『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか? ワードハンティングの現場から』『不採用語辞典』『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』『三省堂国語辞典のひみつ―辞書を編む現場から―』など。

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