渚……なぎさ感覚って呼んでいるんだけど、そういうのが好きです。いまもちょっと渚感覚に近い。海でぼくが好きなのは遠浅の珊瑚の海。そこで上半身は砂浜に寝そべって、腰から下は海の中に浸かっている状態。そういうさざ波感覚がいちばん好き。陸と海の境目が心地いいことに気がついたんです。渚は激しくないからいい。ぼくはアクティブな海のスポーツとか、ほとんどしたことがない。
 バブルが崩壊した頃からしばらく、ちょっと社会から距離をおいてアンビエント(環境音楽)の世界に浸っていたわけですが、次第に昔の仲間たちから誘われるようになってきた。具体的なきっかけは、コシミハルと一緒に『swing slow』というアルバムをつくることになったこと。そのころ、モンドミュージック、ラウンジミュージックともいいますが、一九五〇年代以降の変てこりんな音楽の愛好家がぼくの周りに増えてきて、それに興味が出たから徐々に社会に戻ってきた。魚に足が生えて陸にあがってきたような、生命の進化みたいな話ですね。
 そのころは、自然の音にも敏感になって、島に行っても音楽より自然に耳を傾けていた。いちばんびっくりしたのは、バリ島のジャングルの中、日暮れ時に広場に座っていたときのこと。日が陰るにつれて、ジャングルの蝉のようなものが鳴き始めた。それが一点から始まって、どんどん広がって全方位、サラウンドになっていった。それを聴いていたら、音楽はかなわないなと思いました。
 その時の感覚を自分の中で音楽に表したいんだけれど、どうしてもできなかった。効果音として使うサウンドエフェクトにはできても、それには意味がない。音楽的表現にしたいと思ったけれど、それが難しかった。ただ、その感覚はずっと自分の中にしまってある。
 沖縄の島で、こんな体験をしたこともあります。夕方になると観光客は帰ってしまっていなくなるような小さな島。だから夜は誰もいない。そんなところで、渚で海に浸かって座っている。誰もいないから水着も脱いだりして……。すると、満ちているのか引いているのかわからないけれど、潮の音がする。波のない遠浅の海なのに、海が鳴り始める。ふだんはなんにも音がしない海なのに、日が暮れて人がいない時間になると、ゴボゴボっていうような音がし始める。それもサラウンドで。すごいな、ああ、海が生きてるなと思った。ここに浸かっていれば病気があっても治っちゃうんじゃないかと思った。
 ネイティブアメリカンの知恵から学んだことで、ぼくの考えが変わったところは多いけれど、特に心に残ったのは、メディシンホイールという考え方。まじないの輪、というかサークル。この世はサークルである。自然はグルグル回っている。動物、植物、地球、空気、ぜんぶその中で回っている。ところが人間だけがそのサークルに参加できていない。だからそのサークルに参加するには、自ら意思をもって参加していかなければならないという教えなんです。なるほど、と当時は思った。でも、いまはちょっとよくわからなくなっちゃった(笑)。

 最近はピノキオになぞらえて、「遊びほうけて暮らしているとロバになる。自分はいまロバだ」とライブで話して笑いをとるんですけど、まあ自然にまかせてできる範囲のことをやって暮らしています。
 遊んでいるときに「遊んでる」と意識したことはない。「仕事」以外はぜんぶ遊びですね。ソロアルバムやソロライブは、仕事ではなくて遊びに近い。「何時にある場所に来てください」と人に頼まれるのがぼくにとっての「仕事」であって、これはストレスが強い。
 いちばん楽しいのは、アルバム作りにとりかかる前。どんな曲を作ろうかなと考えているとき。曲をひねくり回しながら、自分の中から何が出るのか、試行するのがおもしろい。曲作りは、人から依頼されたものでも、作っている間は仕事ではなくて遊びになる。遊んでいるうちに曲が形になって、「再現」して「記録」するところから、「作業」になっていく。でもそのうちに、自分のギターにいろんな音を重ねたりスタジオでデジタル処理していると、また遊びに戻っていく。ただ、創作は楽しいけれど、命の素を削っているような気がする。終わるとしばらく何もしなくなります。
 ソロアルバムも作っている間は遊びなんだけど、アルバムができあがると遊びではなくなる。責任が発生するから。よく恋愛にたとえるんだけど、音楽を作るのは人と人が出会って恋愛をするようなもの。そのあとは、家庭を持って子供を育てて、といった毎日の生活が始まっていく。アルバムができたあとの〝辛い現実〟(笑)。
 とはいえ、毎日の生活は嫌なことではないので、責任を果たすことと遊びと両方があってちょうどいい。遊びは本当に大切なんです。野生動物も遊びますからね。