一八九八(明治三一)年十月、第一回の院展において横山大観の「屈原」が発表された。この作品は、描いた大観にとってだけでなく、近代日本画の分水嶺になった。画法、主題、さらにはそこに描き出された精神においても日本画は、この一作によってかつてとはまったく異なる地平へと進んだのである。
 紀元前四世紀頃、古代中国戦国時代に屈原は生まれた。老荘思想の荘子が同時代人である。楚の懐王に仕えたが、失脚を繰り返した。彼は政治家であると共に、聖なる場所を訪ね歩いた漂泊の人でもあったとされている。『楚辞』の中核的な詩人として伝わるが、詳しい伝記的事実は分からない。最期は、汨羅という河に身を投げ自ら命を絶ったとされている。のちに大観は「屈原」にふれ、こう語っている。

「屈原」ですが、あれは私の解釈が誤っていたかどうか知りませんが、あの頃の岡倉先生が、ちょうど屈原と同じような境遇にあったのではないかと思い、あの画題を選んだのです。(『大観画談』〔以下『画談』〕)

逆風のなか独り進む「屈原」

「屈原」には、強い向かい風のなかに決意を秘めた形相をした男が描かれている。男は風の中を進もうとしているのだが、凝視していると、男がいるから風が巻き起こっているようにも見えてくる。この男こそが屈原で、大観は、日が翳り、砂埃舞う逆風のなか、独り進もうとする姿を、天心の今に重ね合わせた、というのである。
 だが、逆境にあったのは天心だけではない。大観も天心に師事していた彼の仲間たちも状況は同じだった。職を失い、不安に苛まれていたのである。当時、彼らの画を買う者など、ほとんどいない。屈原は天心であると同時にその弟子たちであり、創設間もない日本美術院そのものでもあった。
 この画が描かれた同じ年の三月、天心は、長年にわたって校長をつとめた東京美術学校(現在の東京芸術大学)を追われるように辞めていた。原因は、天心の弟子菱田春草の画「寡婦と孤児」の評価をめぐる意見の相違ということになっているが、それは引き金に過ぎない。天心の強烈な個性と指導力を疎ましいと感じる一群の人々が学校内部にいて、彼を放逐する機会を狙っていたのである。
 学校を去るとき天心は、連座してはならないと周囲の人々に言明したが、結局、紆余曲折がありながら十七人の関係者が同じ道を選んだ。そのなかには橋本雅邦、大観、春草、下村観山などのちの近代日本画の土壌を形成する人々もいた。彼らは、学校で美を探求しながら、同時に天心が掲げる理想を共に実現することに誇りを感じていたのだった。このとき、天心は三十五歳、大観は三十歳だった。二人は文字通りの師弟だが、年齢はさほど離れていない。
 試練はさらに天心に襲いかかっていた。この間に彼は、売却して、院の開設に充てるはずだった住居を火事で失っているのである。近隣の家が燃え、類焼したのだった。それでも彼は諦めることなく、日本だけでなく、海外からも資金を調達し、院の設立にこぎつける。ここにはじめて、日本初の民間の美術研究所が誕生した。同時に、在野の思想家岡倉天心が誕生したのだった。
 東京美術学校を辞めた天心が、新しい機関を「日本美術院」と称したところには、もちろん彼の意志がある。東京を日本に変えたのは、一つの場所に拠点を置く学校ではなく、広く日本全土にむけて活動し、また、深くその歴史に根差すということを意味するのだろう。院の設立後、彼らは実際にそのように活動した。日本の伝統、文化に画題を求め、日本全土で展覧会を開いた。
「院」は、大学のあとに大学院があるように名づけられた、との説明が齋藤隆三の『日本美術院史』にあるのだが充分ではない。この共同体の実態は、あるいは修道院という言葉に見られるように、画法だけでなく精神を陶冶する方向に強く傾いていた。その姿勢は天心の没後、大観らによって日本美術院が復興されたときにより鮮明になる。大観らがまず行ったのは、天心をはじめ病に斃れた同志たちを院内に祀ることだった。儀礼的にではない。彼らは真剣に先だった者たちによる助力と守護を仰いだ。それを彼らは「天心霊社」と呼んだ。
 また、天心がいう「美術」とは、今日でいう学問の領域、分野を指すのではない。彼らにとって「美」とは、人間を魅了してやまないが、ときに戦慄を呼び覚ます得体の知れない、しかし、美しいと嘆息させるものであり、「美術」とは、何ものかをこの世界に顕現させる「術」だった。「術」は、呪術という言葉があるように、もともと、人間を超えたものとの交わりを意味する。また「術」には、「道」で行う業という原意がある。
 彼らにとって「美術」とは、美の道だった。日本美術院とは、志を同じくする者が集った美の修道の現場だった。「屈原」はそうした同志の心中をまざまざと表現していたのである。近藤啓太郎の『大観伝』には、この作品を描くにあたって大観が、「漢学の大家にも新進にも会って薀蓄をきわめ、『楚辞』を咀嚼してから、構図を練り、筆を下した」と述べられている。近藤は、大観がまず、詩の精神を体得するところから画作を始めることに注目している。しかし、近藤の作品からは、大観が誰に教示を仰いだかは分からない。その一人が島村抱月だった。大観が『画談』で、「屈原の辞賦を集めた『離騒』という本がありましょう、あれからとったもので、島村抱月さんのお宅へ『離騒』をもっていき、その講釈をきいて描きました」と語っている。

実現を試みた美の形而上学

「読売新聞」に抱月の「屈原論」の第一回が掲載されたのは、「屈原」が発表される年の五月、大観の画が現れる五ヵ月前である。抱月は屈原を、歴史に眠る過去の人物としてではなく、感情の人であり、いわば生ける詩人として描き出していた。「屈原」の制作を契機に抱月と大観の関係が出来たのではなかった。もともと抱月が天心のもとをしばしば訪れていたのだった。天心は抱月との交わりを好んだ、と大観は語っている。「屈原」をめぐって天心が興味深い発言を残している。ここにも抱月との交わりの影響があるのかもしれない。

「屈原」もですな、是れまで顔色憔悴して沢畔に行吟して居るのとか又は世人皆濁れり我独り清めりと云う様なのは書いた人もありますが、全体屈原と云う人は、一方には国を憂えて非常に憤懣して居ると同時に一方には一種の哲学観を以って之を抑えて居た人である。即ち其の一身の中には確かにコンフリクティングエレメント〔conflicting element〕が存して居ったに違いない。其のコンフリクティングエレメントを描き出そうとしたのが即ち横山君の主眼だったんでしょう。

「コンフリクティングエレメント」とは、相克する要素をいう。かつて屈原は、憔悴した敗北者として描かれてきた。また、脆弱なる純粋の徒として表現されることもあった。だが、天心が見ていた像はまったく異なる。彼はこの詩人に義憤に生き、矛盾を超克しようとする哲人の姿を見ていた。
 先の一節は、「屈原」が描かれたとき、「国民新聞」の取材に応じて天心が語り、翌年の正月に掲載されたものだが、この時代の天心と大観の情況を、また、黎明期における日本美術院の精神を考えるとき、重要な意味を帯びてくる。彼らにとって美術とは、色彩や線、構図の力を通じて行われる哲学的な営みだったのである。誤解を恐れずにいえば、彼らが実現を試みたのは、美の形而上学だったといえる。
 哲学が言語によって語られるというのは近代人の思いこみに過ぎない。「哲学」が真理を求める者がたどる道程であるとすれば、空海の真言密教における曼荼羅に象徴されるように仏教美術の伝統もまた、荘厳なる「哲学」の歴史だといえる。ここでの天心が「哲学観」というのもそうした意味だろう。東京美術学校時代に行われた「日本美術史」の講義で若き天心が同質の発言を残している。平安時代の初期とはすなわち「空海時代」だとすら言う。この認識は彼の生涯を貫いた。後年、東京帝国大学で行われた講義で天心は、芸術と宗教の関係にふれ、次のように語った。


藝術の解釈は、藝術その物に在り、絵画彫刻は無量無遍の説法。愛賞者を虚心坦懐、その言える所を聴き、その言わんと欲する所を察し同化黙契するに在り。この心理的の作用は宗教の三昧を髣髴し、宗教事相の観念は、ある点において殆んど藝術三昧と称するを得べきものなり。藝術神聖の意味、けだしここに存す。

 画は、無音の言葉で宗教的秘儀を語っている、「絵画彫刻は無量無遍の説法」だと天心は観じている。ここに比喩などない。美にふれたものの心は、宗教的な「三昧」の境地にあることを髣髴させる。むしろ、宗教的経験は「殆んど藝術三昧」と称するべきものではないかとすらいうのである。天心にとって芸術は、姿を変えた宗教だった。そこには経典も、教祖も、儀礼もない。しかし、人間と超越との深い交わりがある。さらにいえば、もっとも純粋なかたちの宗教だったとすら言えるのかもしれない。
 後年、こうした天心の発言を裏打ちするように、屈原あるいは空海、曼荼羅に伏在する形而上的な問題をつまびらかに語ったのが、哲学者井筒俊彦だった。これらの主題は、井筒の主著『意識と本質』の重要な問題になってゆく。天心、大観以降、少数の例外―白川静のような―を別にすれば、屈原という人格によって、歴史に投じられた哲学的な問いは、井筒俊彦の登場まで真剣に向き合われることはなかった。天心が指摘していた大観の「屈原」に潜んでいる哲学的問いも、充分に顧みられることなく見過されてきたのではなかったか。
 画によって投じられた問いが、哲学者によって継承されるということはある。もちろん、逆の現象も起こり得る。分野間に架橋しながら問題が深化する、それは「分野」という「型」によって分断された現代世界に生きる者が背負っている宿命でもある。天心は「型」を嫌った。「型」とは「大海上に付された点」であり、事象を認識する上での便宜のために「設けられた偽りの神」(『東洋の理想』筆者訳)だといった。屈原論を書くにあたって井筒が、大観の「屈原」を見たかは分からない。井筒は、先の天心の一節を読んではいないだろう。これは天心の全集にも収められていない。しかし、屈原をめぐる井筒の言葉を読むと、なぜ大観が、この人物を主題に選んだのか、その理由がより鮮明になってくる。
 屈原をめぐって井筒は、「世俗に対して一点の妥協も自らに許さぬ廉潔の士」、「純粋潔白な彼は、不義不正渦巻く俗世間において、自らを悲劇的実在としてのみ意識する」(『意識と本質』)と書いている。この詩人を井筒は、情念が人間の姿をして顕われた人物として理解する。屈原という人格に宿ったのは、義憤によって浮き彫りにされた悲しみの詩学ともいうべき形而上の問題だったというのである。さらに井筒は、屈原の詩的世界を論じながら、巫者―すなわちシャーマン―における多次元、多層的な意識の在り方をめぐって論を展開する。
 屈原の時代、詩人であるとは同時に、巫者として生きることだった。大地からは歴史の声を聞き、人間の魂からは、語られない悲しみを汲み上げる。そして、ついに天からはその意思の伝達者として選ばれるに至る。それが屈原の境涯だった。このときこの詩人はすでに神々の通路となっている。
 このとき、屈原とは一個の人格の呼び名であると共に、詩と哲学が未だ分かれなかった時代に生きた人間を象徴する名称でもある。詩は美を、哲学は真を象徴する。真と美は、一なる大いなるものを呼ぶ、二つの異名である。それは伝統的な叡知の姿でもあったが、天心における「美術」観の根底をなす認識でもあった。
 一九〇二(明治三五)年、大観と春草は渡航費用を集めるために「真美会」という小さな頒布会組織を立ち上げたことがある。この名前も、彼らが画に何を見ていたかをはっきりと示している。
 美術は、人間に真と美をもたらす、それは画家たちの思いこみではなかった。「屈原」は発表された翌年、広島で行われた院主催の展覧会で買われ、今日、厳島神社に奉納されている。『画談』で大観は、そのいきさつにふれ、こう語っている。「『屈原』は、いま宮島(厳島神社)にあります。自分で言ってはおかしいでしょうが、広島の人が買いまして、宝物として宮島に納めてあります」。
 ここに大観の強い自負がないとはいわない。しかし、それに増して、後世の私たちが見なくてはならないのは、彼らが信じていた「美術」の力である。この画は、見る者を巫者である屈原が生きた彼方の世界へと導くというのである。さらに、この発言は、大観にとって天心が、美の道の師であると共にその時代に現れた巫者的存在だったことも物語っている。天心の言葉はときに、託宣のように聞こえた。
 弟子たちに天心が何を語ったのか、それは弟子たちにしか実感できない響きをもっていた。大観は天心の語り口にふれ、こう話している。

なにしろ、学問はあり、思想の遠大な人でしたが、そのお話になることはごく簡単で、霊感的と申しましょうか、常人の十語で言うものは、二語か三語ですませてしまわれるくらいでしたから、聞いている方がよほど頭が良くないと、何を言われたのかわからなかったでしょう。(『画談』)

 この事実を受け止めることは、記録として天心が何を語ったかの考証に勝るとも劣らずに重要なことではないだろうか。天心とその弟子たちの軌跡には、現代でいう実証に基づく方法だけではどうしてもよみがえってこない領域がある。

「いわゆる筆を持たない芸術家」

 古典的世界の知識を習得することに留まらず、そこに流れる叡知を肌身で感じることから創作を始めるのは、大観だけでなく、天心とその弟子たちに共通してみられる態度だったといってよい。文学だけでなく、宗教、哲学、風俗を含む広義の意味での文化のなかにおいて有機的関係をもったときにこそ、美術はその役割を果すことができるというのが、彼らに共通した認識だった。それは天心と文学者たちとの交流にも表れている。
 東京美術学校時代、天心のもとめによって森鷗外は、一八九一(明治二四)年に美術解剖学を講じている。さらに鷗外は一八九六(明治二九)年から三年間にわたって美学・美術史を講義している。夏目漱石と大観の関係も深い。関東大震災があるまで大観は、自らの画室に漱石の書をかけ、仕事をしていた。また、一九〇五(明治三八)年、ロンドンに赴いたとき大観は、三年ほど前に漱石が留学中に下宿していた場所を訪れている。天心の弟で、のちに英語学者になる岡倉由三郎は漱石の友人でもあった。ここに幸田露伴や高山樗牛の存在を加えることもできる。正宗白鳥も、招かれて茨城県五浦で天心と宴席を共にしたときのことを自伝的作品『文壇五十年』で述べている。
 のちに改めてふれることになるだろうが、明治、大正期に活躍した文学者と天心とその弟子たちとの交わりは再考されてよい。それは明治における美術と文学の著しい接近の意味を考えることでもある。同質の出来事は、およそ五十年前のフランスで起こった。
『近代絵画』で小林秀雄は、フランス印象派の画家たちが誕生する土壌に詩人ボードレールの存在があったと指摘する。この詩人が語る「象徴の森」―すなわち眼に映る現象の奥の彼方にあるもう一つの世界―を印象派の画家たちは、それぞれの経験によって描きだしたというのである。その影響は深い。セザンヌに至ってはボードレールの「腐肉」と題する詩を、暗唱することすらできた。「象徴の森」をめぐって小林はこう書いている。

伝統や約束の力を脱し、感情や思想の誘惑に抗し、純粋な意識をもって人生に臨めば、詩人は、彼の所謂人生という「象徴の森」を横切る筈である。それは彼(筆者注:ボードレール)に言わせれば、夜の如く或は光の如く、果しなく拡り、色も香も物の音も互に応え合う。こういう世界は、歴史的な或は社会的な凡ての約束を疑う極度に目覚めた意識の下に現れる。それは彼の言う「裸の心」が裸の対象に出会う点なのである。

 造られた情報、あるいは強いられた概念的思考から脱出し、「裸の心」で世界と向き合う。すると沈黙していた世界が、色、香、音によって語り始める。ボードレールはその出来事を「万物照応」と呼び、その世界を「象徴の森」と呼んだ。ここに天心の『茶の本』にある一節と重ね合わせてみる。単なる近似以上の、著しいまでの精神の共振を感じるだろう。

美の霊手に触れる時、わが心琴の神秘の弦は目ざめ、われわれはこれに呼応して振動し、肉をおどらせ血をわかす。心は心と語る。無言のものに耳を傾け、見えないものを凝視する。名匠はわれわれの知らぬ調べを呼び起こす。長く忘れていた追憶はすべて新しい意味をもってかえって来る。恐怖におさえられていた希望や、認める勇気のなかった憧憬が、栄えばえと現われて来る。わが心は画家の絵の具を塗る画布である。その色素はわれわれの感情である。その濃淡の配合は、喜びの光であり悲しみの影である。われわれは傑作によって存するごとく、傑作はわれわれによって存する。(村岡博訳)

「美の霊手」との一語があるように、ここで語られているのは単なる芸術認識論ではない。美の秘儀である。「無言のものに耳を傾け、見えないものを凝視する」こと、ここに芸術家に託された役割がある。彼らによって呼び起こされた美の調べは、それにふれた者の心中にあって見出されていない人生の意味を告げ知らせるというのである。
 あるとき天心は、空気を描くことはできないか、と語った、と大観は自伝(『大観自伝』)に述べている。さらに、『画談』では、天心が日ごろから語っていた「空気とか、光線とかの表現に、空刷毛を利用して一つの味わいを出すことに成功しました」とも語っている。この技法が、「屈原」においてすでに萌芽がみられる、線を用いず、色彩の濃淡によって描く方法であり、のちに「朦朧体」と呼ばれる。
 この言葉は、大観、春草、観山など天心の近くにいた画家たちを象徴する表現にもなっているが、もともとは評者たちが批判を込めて用いたのだった。この一語が何を意味していたかを考えることによって、それを試みた画家たちの悲願を見出すことは難しい。批判者は、創作者の全貌を見ることはなく、また、眺める自分の眼を疑うことはない。それは、あたかもマルクスという人間の意味を、マルクス主義という、のちに出来上がった基準において判断するような愚かなことになる。
 先の『茶の本』の一節からも充分に感じることができるように、天心が「空気」あるいは「光線」というのは、物理的な、計測可能な対象ではない。それは、「見えないもの」を意味した。不可視なものを描こうとした美の使徒、それが天心とその弟子たちだった。
 思索と模索を繰り返し、「空刷毛を利用して一つの味わいを出すことに成功」したと大観が言ったとき、主語が省かれていたことにも注意したい。大観は彼個人の業績を語ったのではなかった。そこには春草、観山を含む自分たち天心の指導を受けた者たちの共同体が、という言葉が省略されている。
 少なくとも大観はここで春草との協同を強く意識している。大観と天心の関係を考えることは、同時に大観と春草の関係に踏み入ることでもある。大観と春草は作風も異なり、性格も違う。大観は自らを火に、春草を氷になぞらえたことがある。それは相反するものではなく、互いになくてはならない存在であることが示されている。異なるというよりも真逆だった。だが、それゆえに互いにかけがえのない存在だった。日本美術院をめぐる状況が変わったときも、海外に行くときも、「食うや食わずの苦難の時代も、すべてみんな二人は一緒でした。ですから、なんでそんなに仲良くなったと訊ねられても、おたがいが好きなんですから、この点何とも申しあげられません」と大観は『画談』にいう。
 印象派の画家たちを論じながら小林は、印象派の画家たちには当時の音楽の影響が強く流れ込んでいることも指摘している。天心の近くに接した齋藤隆三の『日本美術院史』によると、院では音曲を画に表現する「音曲画題」が試みられていたという。長唄、謡曲を聞き、その世界を画にしようとした。
 大観やその周辺の画家たちにとって、「ボードレール」の存在だったのはもちろん、天心である。大観は天心を「いわゆる筆を持たない芸術家」だったと言い、こう続けた。「つまり、芸術の上に来るもの、芸術および芸術家を指導するお方だったのです。岡倉先生がなかったならば、今日の日本美術院もなかったでしょうし、もちろんわれわれもなかったでしょう」(『画談』)。
「芸術の上に来るもの」とは「美」そのものを指すのだろう。先にもふれたように「美術」あるいは「芸術」と天心がいうとき、「美」も「芸」もまた「術」も、きわめて動的な語感と共に用いられている。一八九〇(明治二三)年、東京美術学校が開校された翌年、二十九歳の天心は「日本美術史」の講義を次のような一節からはじめた。

世人は歴史を目して過去の事蹟を編集したる記録、即ち死物となす。是れ大なる誤謬なり。歴史なるものは吾人の体中に存し、活動しつゝあるものなり。畢竟古人の泣きたる所、古人の笑ひたる所は、即ち今人の泣き、或は笑ふの源をなす。

 人々は、歴史を単なる過去の記録として扱うに過ぎない。彼らにとってそれは一個の「死物」である。だが、それは大きな誤りだと天心はいう。歴史は過ぎ去ったのではない。私たち一人一人のからだの中でまざまざと生きている。私たちが泣き、あるいは笑うことも、それは内なる「古人」の感情に由来する、というのである。創作するとは天心にとって内なる「古人」との協同の上にはじめて成り立つ営みだった。彼にとって「美術」とは人間を「古人」が「生きている」世界へ導く術だともいえる。
 先の講義が行われてから二十年後、一九一〇(明治四三)年、東京帝国大学での、「泰東巧芸史」―東洋美術史のこと―と題する講座のときも天心は次のように語った。原文の筆記は、聴講者のノートで、片仮名と漢字混じりで記されている。ここでは読みやすさを考慮し、平仮名に書き換え、必要に応じて句読点を打つことにする。

芸術は活物なり。その霊域は情をもって入るべく、智をもって近くべからず。もしそれこれを死物視し、分析解剖して科学的の解釈を試むる者は、徒らにその門牆を窺うに過ぎず。断じてその堂奥に上るを得ざるなり。一幅の名画に対すれば無意識の間に興趣自ずから来り騒心雲の如く巻舒し、情味花の如く開展す。

 芸術は活きている、と語る天心は、その世界を「霊域」と呼ぶ。知の力だけではその場所に近づくことはできない。科学的理性で、分析しようとする者は、その門前をうろついているに過ぎず、けっして秘められた領域に進むことはできない。一つの名画に向き合うとき、感動は雲のようにわき起こり、花が開くように自然に、「無意識」すなわち魂において充溢する、というのである。
 天心の考えに従えば、活きているものを活きたまま、見る者の眼前にもたらすこと、それが芸術家の仕事になる。「美」とは天心にとって万物を生かす働きそのものだった。「美術」とはそれを世界に刻むことにほかならなかった。樹木を描くということは、樹木を在らしめている働きを写しとることだった。風と光もその一例である。彼にとって美術、あるいは芸術とは、生ける者が、不可視な、しかし、生けるものをわが身に宿す営みだった。「屈原」はそれが高次に実現された作品だったのである。



主な参考文献

岡倉一雄『父 岡倉天心』(岩波現代文庫)
清見陸郎『天心岡倉覚三』(中央公論美術出版)
近藤啓太郎『大観伝』(講談社文芸文庫)
木下長宏『岡倉天心』(ミネルヴァ書房)
齋藤隆三『日本美術院史』(中央公論美術出版)
佐藤志乃『「朦朧」の時代 大観、春草らと近代日本画の成立』(人文書院)
植田彩芳子「横山大観筆《屈原》(厳島神社)についての考察」『美術史論叢』(東京大学大学院人文社会系研究科・文学部美術史研究室)21号・2005年、
『日本美術院百年史』(財団法人日本美術院)