受賞者の國分功一郎氏
 

受賞インタビュー

中動態との出会い

――「中動態」という言葉は、あまりなじみのない言葉です。國分さんご自身は大学生のときに初めて「中動態」という言葉に触れて、そのときに考えていたことと、どこか深いところでつながっていくような気持ちがしたそうですね。

 僕の専門は今は哲学ですが、大学生のときは政治学科の学生でした。

 僕が大学生だった90年代中頃は、「日本にはどうして近代的な主体や責任主体といったものがはっきりと存在していないのか」という問題がまだ盛んに論じられていたんですね。それと同時に80年代のポストモダンブームを受けて、「日本はプレモダンなのに、なぜそれがポストモダンと結びついてしまうのか」という議論も盛んでした。そうした状況の中で、僕自身は、近代的な主体や責任主体の次に行かなければいけないと、何となくぼんやり考えていたように思います。

 近代的な主体とは、一言で言うと「立派な大人」です。責任感があって、感情で動いたりしないで、約束ができて、自分が言ったことを守って、人ときちんと話ができて、相手の話も聞くことができて――そういう人間になれればいいのでしょうが、そううまくいくわけはない。

 民主主義というと、みんなが「立派な大人」になって投票に行かねばならないという話ばかりしている。でも、皆がそんなふうになれないとしたら、できないことを求めていることになる。民主主義について考えるとき、人間像を考え直さないとどうしようもないと思ったのをはっきり覚えています。

 また、昔から言葉というものにすごく関心がありました。語学の勉強も好きでしたし、言葉を通じて哲学するというやり方にも強い関心があった。政治に対する関心、言語に対する関心、そしてポストモダンというものに対する関心、それらがまとまってくる一つの点として、「中動態」が僕の前に現れてきた感じがします。

 人間のあり方について、能動的であるか受動的であるかだけではなく、別の考え方があるということを聞いただけで、すごくビビビッときました。「立派な大人」になるというのは、つまり能動的な人間になるということです。受動的である子供時代を抜けて能動的な大人になるというわかりやすいストーリーがあるわけですが、それに対する疑いを具体的にしていくときに、この「中動態」という言葉が重要だと直感した。それが出会いだったんです。

 その後、哲学を学ぶうちに、だんだん自分の中で「中動態」という概念が膨らんできた。いろんなことを勉強していく中で、これも中動態だ、あれも中動態だ、という発見がすごくたくさんあった。今となっては、それをメモしておけばよかったと思いますが(笑)、中動態を使って説明するといろいろなことがわかりやすくなることに気づきました。

 そのなかでも大きかったのは、スピノザとドゥルーズです。スピノザによれば、「ものを考える」という時に起こっているのは、人間が考えるということではなくて、人間の精神の中で観念が次々につながっていくということなんです。これは非常に中動態的なイメージですね。同じようなことをドゥルーズもやはり考えていて、彼は「出来事」という言葉を使いました。これもまた能動とも受動とも言えないものです。いろんな哲学者の中に「中動態」を発見することによって、自分の中で中動態を書くための心構えのようなものが積み重なっていったのだと思います。

――もう一つ本書が成り立つ大きなモチーフとして、依存症の方との出会いがあります。彼らの言葉に向き合ったとき、また新たに「中動態」というテーマが浮上してきたのでしょうか。

 あとがきにも書きましたが、依存症の方のお話を聞きながら、先ほど説明した近代的主体の問題がまさしく生きられていると思ったんですね。「しっかりとした意志をもった責任主体になりなさい」と言われれば言われるほど悪化する問題がそこにあった。僕が中動態を通じて考えたいとぼんやり思っていたことが、自分に突きつけられた感じがしました。

 あと、全くの他人事だったら僕もそんな反応をしなかったと思うんです。お話を伺いながら、それがとても他人事とは思えなかった。能動と受動の狭間で彼ら彼女らは苦しんでいる。自分も何か似たものを感じていると思った。だから、能動と受動の区別が僕の中にすごく切実な問題として立ち上がったんです。

 
 

推理小説のように書き進める

――とはいえ、本書の道筋は平坦ではありません。あらかじめわかっていることを説明する本ではなくて、國分さんご自身も何かを探究しながら書き進めていくというスタイルをとっています。

 僕の本はよく推理小説みたいだと言われます。うれしいのですが、自分では別にそうなることを狙っているわけではないんです。以前、大西巨人さんが「小説というのはどれもおしなべて推理小説的なものを持っている。というのは、小説というのは人生の謎を解くのだから」とおっしゃっていたのを直接聞いたことがあります。

 哲学の本も、哲学の問題を解くのですから同じです。少なくとも僕は、全部答えがわかって、それを整理して出すというやり方では哲学の本は書けない。ドゥルーズが、書くというのは自分の知っていることの先端の部分で行われることだと言っています。わかっていることをただまとめるのではない。食べながら食欲が湧いてくるのと同じで、しゃべりながら考える、書きながら考えるという感じです。書くことによって、知の先端部、つまり自分が知っていること、自分が考えていることが、ちょっとだけ前に進む。

 でもこういう書き方というのは、ある意味では自分がすごく苦労して道筋を決めている痕跡が本の中にそのまま残っているということでしょうね。連載中、次はどうしようかなと毎回悩みましたが、その悩みの痕跡は本に残っていると思います。

 僕はずっと「順序」に関心があるんです。デカルトもスピノザも順序について頭を悩ませていました。順序が違えば、人は文章を読み進めてはくれない。理解できるはずのことも理解できなくなる。推理モノの比喩で言うなら、たとえば、刑事コロンボ的な方法で書くのか、土曜ワイド劇場的なやり方で書くのか。いろいろやり方があると思うのです。

――一方で、本書はまだ完結していないという印象も受けます。たとえば、中動態の言葉を用いれば依存症患者は救えるのだろうかとか、スピノザの自由の概念と、依存症の人たちの自由や意志とはどのようにつながっていくのかといった問題など、必ずしもきれいにまとまっているわけではありません。

 正直、力尽きたところはあります。ご指摘いただいた諸点だけではなくて、サブタイトルが「意志と責任の考古学」となっていますが、実はあまり責任の話をしていない。ただ、今回の本の刊行後に、責任についても考えが進んできたところがあって、次の課題にしたいと思っています。

 言い訳するようですが、この本は、問いを一つ漏らさず論じて答えを出すというより、中動態の概念的イメージが本を読んだ人の心にふわっと浮かび、それがその人の中でいろいろなものと結びつくことを目指して書いていました。『暇と退屈の倫理学』のときは、関連する問いには一つ漏らさず答えるという気持ちで書いていたんですけれども、今回はよく言えばオープンエンドで、悪く言えば問題を積み残したまま終わったところがあると思います。

――受賞の言葉で、「中動態の世界」はとても大切なテーマだという気持ちと、自分は根本的に勘違いをしているのではないかという気持ちとが拮抗していたとあります。

 能動と受動の対立がこの本の標的の一つです。そして、僕はこの対立を意志と責任の観点から論じた。でも、能動と受動の対立をこの見立てで論じ尽くせるのかという疑問がいまも僕の中にあります。

 ただ、それと同時に、誰かが踏ん張って意志と責任の観点から能動と受動の対立を論じないといけない、そうでないと結局誰も何も言わないのではないか、という気持ちもありました。だから、批判されてもいいから、この見立てで一度この問題を論じてみるべきだと思いながら書いていたわけです。

 書いている最中は、あまり支持されないのではないかとも思っていました。でも、支持してくれる人も少しはいるだろうというのを心の支えにしていました。

 能動と受動の対立について、僕と同じような見立てを持っている人は少なくないと思います。ハイデッガーは意志の概念を疑っていますし、「主体を疑う」系の哲学研究者の中では、中動態に対する関心はすごく高い。でもここまで踏み込んだものはなかったと思います。だからこそ、思い切ってやらなければならないという強い気持ちが持てたんです。

 今年になって、海外で中動態について発表する機会が既に三回もあったんですが、どこでも関心がすごく高かった。それは非常にうれしいことでした。僕の講演を聞いてくれた人が、自分の講演で僕の中動態論に言及してくれることもありました。英語話者でも、この本の見立てで中動態の話をするとハッと気付くことがあるようで、それは大きな発見でしたね。たとえば英語の「I want」はギリシャ語だと中動態だと言ったら、オーストラリアのドゥルーズ学者が非常に強い関心を示してくれましたね。

稀有な読み手であり、書き手である

――話は変わりますが、小林秀雄について何か印象はありますか。

 小林秀雄で一番心に残っているのは「近代の超克」の座談会での彼の発言です。あの中でベルクソンについて〈通俗的ではないが平易である〉だったかな、たしかそういう言い回しをしていて、それは自分の目標だと思ったことがあります。みんながわかろうと思えばわかるように書く。しかし読者におもねることはしない。僕は小林秀雄をよく読んでいるほうではありませんが、この言葉はずっと自分の中で大切な指針としてありました。

 ベルクソンと小林秀雄は非常に近いところがあると思います。大事なところを直観でつかみとる手つきですね。僕はそれをとても大切にしていて、学生に指導するときも、「細かく読めるのも大切だけれども、ざくっと要点をつかむ、ぱっとわかるということも大事だ」とよく言っているんです。哲学をやるときに重要なことです。そういう感覚があればこそ、通俗的ではないが平易であるという書き物もできるかと。

――読者からの印象的な反応をお教えください。

 いい意味でたくさん誤解がある感じがするんです。最近、ネット上で「中動態になりたい」という発言を発見したんですよ(笑)。そこにはたくさん誤解がありますが、今までと違う見方が明らかに生まれたということだから、それはそれでいい。とてもうれしいことだと思っています。

――新潮ドキュメント賞を受賞されたブレイディみかこさんとは、共著『保育園を呼ぶ声が聞こえる』も出されていますが、今回の同時受賞について何かお話になりましたか。

 彼女も『中動態の世界』を読んでくださって、やはり推理小説のようでぐいぐい引き込まれたと言ってくれました。ブレイディさんは非常に稀有な読み手であり、書き手ですね。

 彼女はイギリスへ行って、「底辺」と呼ぶべき環境で暮らす人たちと一緒にいて、しかもそこでの体験を日本語で書いている。彼女は日本では海外の何が知られていないのか、理解されていないのか、こちらとあちらで何が違うのかを考えつつ書ける人です。ブレイディさんは雰囲気をつかみ取る能力がすごい。雰囲気をつかみ取って言葉にできる人というのは本当に限られているんです。

 ブレイディさんがいなかったら自分のイギリス政治に対する理解は相当遅れた、的を外したものになっていただろうと思っています。僕も一年間イギリスで暮らしましたが、政治について本当に多くのことをブレイディさんに教わりました。あんな世界を見せてくれる本はないですよね。だから賞を取ったのは、本当に喜ばしいことです。それにブレイディさんは論客になるぞなんて気持ちは全くなくて書いている。彼女のそういう気高いところが僕は好きです。

(受賞者プロフィール)
國分功一郎(こくぶん こういちろう)
一九七四年七月一日、千葉県柏市生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。高崎経済大学准教授。専攻は哲学。主な著書に『暇と退屈の倫理学 増補版』(太田出版)、『ドゥルーズの哲学原理』(岩波現代全書)、『近代政治哲学』(ちくま新書)など。訳書にドゥルーズ『カントの批判哲学』(ちくま学芸文庫)など。

 

 

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選評

授賞理由――私の場合

加藤典洋

 選考はすんなりときまった。全員一致。受賞作は國分功一郎さんの『中動態の世界』である。
 しかし、議論がなかったわけではない。選考の場で私は次のようなことを述べた。
 この本は何を言おうとしているのか。よくわからない。その理由は、入り口が二つあるからである。一つは冒頭語られるアルコール・薬物等依存症の人びとの話。著者が対話したある依存症の経験者がいう。一般の人と話すと、意志と責任をもって回復をめざせと言われているように感じる、痛い。「しゃべってる言葉が違うのよね」。その話の切実さが、違う言葉、考え方の様態があるのではないかと、著者に感じさせる。
 また、もう一つは哲学であって、著者は、大学生のころから、受動でも能動でもないあり方、かつて古代ギリシャ語などに存在した「中動態」の世界を手がかりにすれば、いまの哲学思考のハイデガー、デリダ、フーコー、スピノザなどの問題はかなり別なふうに展開できるのではないか、と思っていた。この本は、この長年の哲学的関心をもとに書かれた、という。
 しかし、人は一つの入り口からしか入れない。本文が進むと後者の哲学、言語学の関心が前景化してくる。文献の考証が続くと、なんだか依存症の世界という入り口が、都合よく「使われている」だけの〝後付け〟だったかという感じがしてくる。そのことがこの本の印象を弱くしている。
 ほかに、私は、ハンナ・アーレントが晩年、意志の必要を強調したことについて、著者は十分に理解を行き届かせていないのではないか、とも述べた。
 依存症の人は、意志とか責任とか言われると痛い、と言う。しかし、アーレントがアイヒマン裁判にショックを受けたのは、アイヒマンもまた、これと同じような言い様、いわばこの本の言う中動態の世界での言い様を、裁判の場でし、自分は特に「意志」したわけでないので「責任」を感じない、と述べたからである。つまり、意志と責任の言葉がマッチョ(尋問的)だといってすむ話ではない。ここには中動態の世界を考えようとするとき避けられないアポリア(難局)が口を開けている。
 しかし、自分でも不思議なことに、こうしたことを述べながら、同時に、私は、これらの異論が自分にとってはむしろこの本を推す理由になっているのを感じた。異論の中身よりも異論をそそのかす力のほうに説得されたのである。よって、選考の場にいる多くの人があっけにとられ、呆れるのをよそに、これらの異論を述べ、しかる後、――中動態的に?――この本を推した。

本気で考えて書いている

養老孟司

 歳をとると面倒なことはしたくない。でもこの本のおかげで久しぶりに難儀をした。
 まったくわからないなら、本を放り出せば済む。でも一部なんとなくわかる。だから逆に始末が悪い。何回か放り出したけれど、仕事なんだから仕方がないと思って、気を取り直して読み直す。じつはそれができたということが、この本の長所である。著者の真摯さが伝わって来て、完全には放り出せない。本気で考えて書いている。そこが通じてしまうから、おろそかにできないのである。それが推薦理由の第一点。
 著者の意に反するかもしれないが、中動態そのものはさして重要ではない。そもそも中動態が消えてしまう理由もよくわからない。犯人はキリスト教だろうと察するが、はっきりそうとは書いてない。
 副題には「意志と責任の考古学」とある。これで背景の主題は理解できる。中動態なんて言っているけれど、きわめて現代的な問題を扱っているんだな。
 以前の著作『暇と退屈の倫理学』に比較すると、主題の違いもあるが、迫力がはるかに増している。著者の年齢を考えると、将来が楽しみ。それが推薦理由の第二点。ただし小林秀雄賞には、べつに若い人を推薦するというきまりがあるわけではない。いわば私の勝手である。
 将来のことをいうなら、この本では日本語が扱われていない。日本語で書いているんだから、それは前提だ。そう了解すれば、それでいい。ただいずれ著者はそこに戻ってくるはずだと思う。
 もう一つ、著者は脳科学に対する態度をもっとはっきりしていいと思う。哲学者が脳科学者と協力して、なんの不思議もない。その間に壁を作る。それが日本の学問である。分けている理由があることは百も承知で言う。著者ほどの人なら脳科学にどんどん入り込んでいい。哲学に諸学の壁はない。

屈曲した長い一本の道

関川夏央

 國分功一郎『中動態の世界』のテーマは、副題にあるように「意志と責任の考古学」だろう。
 ことの発端は「依存症」であった。現代人が苦しむ依存症は、俗にいわれているように、それを克服する「意志」や本人の「責任」の問題と見る限りは、どうしても片付かない。
 ヒントは、能動態と受動態に駆逐されて欧州語からは消え去った「中動態」にあるのでは、という著者の発想を後押ししたのは、医学書の編集者とアルコール依存を持つ女性をサポートする団体の人(自らも依存症経験がある女性)で、ふたりとも敏感な読者(聞き手)であった。そうして著者の中動態「考古学」研究の長い旅が始まった。
 欧州語には、消えた中動態の痕跡が、たとえばフランス語における「再帰動詞」のように残っている。サンスクリット語では、中動態は「反射態」という呼称で書き言葉の現役である。この本を読みたどるうち、そんないくつかの思い当たりが、瞬時の光芒のように道を照らした。
 しかしよくわからないところがあったのは、私の「知」の水準の「責任」だが、この屈曲した華やかな道中の景色に気を取られ過ぎて、ときに著者の旅の出発点と目的地を見失うことがあったためでもある。さらに日本語で中動態に相当するもの、あるいは「意志」と「責任」を問うことを避ける機能について、より詳しく語ってもらえれば、私のようなものにも深く得心がいったはずだ。
 その点、この本は読者に対してそれほど親切ではない。むしろ、ハーマン・メルヴィルの不思議な小説『ビリー・バッド』から説き起こし、最後、再びそこに帰る構成の方が劇的かつ懇切だったのではないか。「意志」はもとより薄弱、「責任」はあらかじめ回避を旨とするのが読者というもののならいだと思っていただきたい。
 巨細に読み取れてすっきり腑に落ちたとは言い切れぬものの、この本が「何か重要なことを語っている」という印象はついに拭われなかった。國分氏の冒険の旅の記録が小林秀雄賞受賞作の列に加わっていただいたことを嬉しく思う。

読者も変状する

堀江敏幸

 國分功一郎さんの『中動態の世界 意志と責任の考古学』は、はじめから終わりまで、論理の細い糸を吐き出してはそのうえを歩いていくような、心地よい緊張感に満ちている。その糸がからまったり切れかかったりする場面もあるのだが、読み終えて振り返ると、じつは結び目もつなぎ目も、必然だったと思えてくる。
 能動態と受動態を対立項にせず、受動態と自動詞が兄弟関係にあることを示しうる視点としての中動態。それを軸にしたとき、世界はどう見えてくるのか。中動態なるものは、つねに関係性のなかにあって、単体では説明できない。事後的にしか顕現しないものを、いかに順序立てて説明するか。つまり、本書を成立させるには、中動態とはなにかを論じると同時に、論述そのものがまぎれもない中動態のなかにあって、書き手自身が「変状」の過程をたどっていることを、身をもって示さなければならないのである。
 中動態なるものを名指すことなく、そこに身を置きつづける作業は、しかし書くことの本質そのものだ。自分がいかなる場合に、いかなる程度変状するのかを見きわめ、理不尽な受動性を脱し、「ありもしない純粋な始まりを信じることを強い」られなくするには、この作業を反復し、持続するしかない。著者はその難事に敢然と立ち向かい、必然としての自由に手を伸ばしたのである。
 自由と強制の関係のあいだにいる自分自身の現在地をどう確かめていくのか。「われわれが集団で生きていくために絶対に必要とする法なるものも、中動態の世界を前提としていない」との指摘は、現在この国が置かれている不自然な「態」の様式を崩すための、有効な指針となるだろう。
 書き手だけでなく、読み手もまた変状する。変状を実践し、またそれを他者に促す本書は、抽象的な思考ではなく、徹底した実践の書なのだ。つねに臨戦態勢にある寛容、もしくは中庸の狂気といった《あいだ》の存在についてぼんやり考えつづけてきた私にとっても、手が届きそうで届かない自由を見つめ直す貴重な機会になった。

「同行二人」を思って

橋本治

 國分功一郎さんの『中動態の世界――意志と責任の考古学』は、私にはかなり難しい本ではありました。なぜかと言えば、「受動態」「能動態」という日本語はありながら、日本語の中に構文としての受動態、能動態というものはないからです。この本の中で取り上げられるギリシア語ラテン語その他の言語が、一目見れば分かる「単語」という区切りを持っているのに対して、「単語」と言われるものが文章の中に溶け込んでいて、品詞分解ということが(古典の場合では特に)必須になってしまう言語で、「動詞の活用」というものがどれほど意味があるのかは分かりません。日本語の「態」や「時制」は、動詞に助動詞がくっつくことから生まれるもので、その点で言えば、どうとでもなりうる中動態が日本語のそもそものあり方ではないかと、勝手に思います。
 そういう言語の中にいる人間が、西洋哲学の中核をなすギリシア語やラテン語の語法を追及するこの本に付いて行くのは、簡単なことではありません。しかし、昔ならいざ知らず、現在の日本人が意志をせっつかれる能動態と、見えにくい命令に動かされる受動態のはざまにいるということも、確かだろうと思います。一方に、そのはざまで苦しむ人がいて、そこに遠い昔の我々とは無縁の言語がある。言語の形ではなく、言語であることから生み出されてしまう力――その無意識的な影響力の根源を尋ねる旅というのは、途方もないことだと思います。
 でも、この本はそれをやってしまった。一方に、自分を説明する言葉を持てない――持ったところで適切に通用させることが出来ない人がいて、あえて言ってしまえば「その人達のために」この本は始まります。うっかりすれば「哲学のための哲学」という自己完結的な欠点を持ちかねないものが、哲学とは無縁の読者を引っ張って行くだけの力を持っているのは、「他人のため」というモチヴェーションが根底にあるからでしょう。たとえ孤独な一人旅であっても「同行二人」を前提とする、巡礼の長い道程を感じました。

 


 

『中動態の世界 ――意志と責任の考古学』國分功一郎

 

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