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石内都と、写真の旅へ

2017年11月14日 石内都と、写真の旅へ

横浜篇――建物、人間の忘れ物 その2

著者: 与那原恵

『連夜の街』は、二〇〇一年、あらたにプリントした作品などをおさめた『Endless Night 2001連夜の街』としても刊行されている。横浜美術館の展覧会準備のために、二冊の写真集におさめた作品に再び向き合った石内が、約四十年ぶりに横浜を歩くことにしたのは、その地をもう一度見つめ直したかったからなのかもしれない。また石内は自身の出生地である桐生と横浜のつながりも考えていた。

「横浜の遊郭街の発展は、幕末の横浜開港がその発端でしょう。幕末から明治にかけて、もっとも重要な輸出品は生糸だった。それで生糸や絹製品の一大生産地の桐生など、群馬各地と横浜は、いち早く鉄道網が整備され、近代日本のシルクロードとして結ばれた。桐生にいまも横浜銀行の支店があるのは、その名残りだっていうし。桐生生まれの私が横浜を撮ったのは、何か縁も感じるのよ」

石内都「連夜の街#90」©Ishiuchi Miyako

 こうして私たちは黄金町駅から、まず永楽町、真金町へと向かった。

 隣接するこのふたつの町は「永真遊郭街」とも呼ばれ、その形成は、明治半ばだ。そもそもは、一八五八年(安政五)、日米修好通商条約の締結によって横浜が開港され、幕府が横浜に遊郭の設置を決めたことにさかのぼる。オランダ、アメリカの公使や領事からの遊郭設置要求もあり、一八五九年(安政六)港崎みよざき町遊郭(現在の横浜公園の地)が建設された。しかし、火災により焼失し、一八七七年(明治十)に真金町と永楽町に移転した。いわゆる「公娼制度」は一九〇〇年(明治三十三)に公布され、その後のGHQ政策、売春防止法制定により、赤線が完全に廃止されるのは一九五八年(昭和三十三)である。

 石内が永楽町や真金町を歩いた一九七〇年代末は、すでに遊郭街の面影は失われつつあったが、それでも独特の建物がいくつも残っていた。町の真ん中を貫く通りを挟み、モザイクタイルを貼り詰めたダンスホールや、印象的な窓のある洋風建物、凝った和風建築の料亭もあったのだった。

 けれども現在、石内がかつて撮った建物の大半はすでにない。その敷地に建つのは新築の単身者用アパートや、家族向けの広々としたマンションである。それでも石内は歩くうちに撮影時の記憶がよみがえっていき、この角にダンスホールがあったはず、この突き当りに店があった、と言い、そのとおりに歩いて行くと、わずかに数軒残っていた。また石内が撮っていた和風の建物が現存していて、その外壁を装飾する鏝絵(漆喰を使ったレリーフ)が当時のままだった。飲食店としての営業はしておらず、ここもアパートに転用されているようだった。またダンスホールやキャバレーも姿を消していて、その近くで営業する理髪店とすし店の主人に尋ねたところ、「あの店がなくなったのはいつだったかな…」と遠い目をするのだった。

 石内は永楽町のとある地番をメモして持ってきていて、その場所に行きたいと言う。すぐに見つかったそこは、社会主義者の労働運動家、多くの著作もある荒畑寒村の出生地だった。荒畑は一八八七年(明治二十)に永楽町の仕出し屋の家に生まれた。一九八一年(昭和五十六)に他界したが、石内は彼の最晩年に会っていたのだ。

「親しい目黒区議の女性が紹介してくれて、彼女と一緒に荒畑さんの住まいを訪ねたのよ。何年も投獄されても屈しなかった伝説的な人に会ってみたかった。私、ミーハーなところがあるからね。亡くなる一、二年前だったと思う。そのころはすでに床に伏していて、お話しもできない状態だった。きれいな顔立ちだったけれど、それでも反骨の人という雰囲気はあったかな」と石内は話す。

 荒畑は横須賀の海軍工廠で働いていた十代のときに労働運動に参加。二十歳で『谷中村滅亡史』(一九〇七年)を刊行している。このルポルタージュは、栃木・群馬両県を流れる渡良瀬川周辺の「足尾銅山鉱毒事件」により大きな被害を受け、田中正造を中心に、村民たちが銅山開発反対をつよく訴えたものの、ほどなく強制廃村となった谷中村(栃木県)の抵抗運動を追っている。

「荒畑さんにお目にかかる以前から、彼が私の育った横須賀で働いていたことや、私にもなじみのある渡良瀬川周辺で起きた鉱毒事件を書いたのを知っていたので、面識はないのに、個展『絶唱、横須賀ストーリー』の案内を送っていたのよ。荒畑さんはお見えにならなかったけれどね。最近になって荒畑さんのことが妙に気になり、彼の自伝を読んだの。それで『連夜の街』で歩いていた永楽町の生まれだと知った。大逆事件(一九一〇年)で死刑を執行された管野スガとの結婚など劇的な人生を送った人だけれど、遊郭街で幼少期を過ごしたことが、矛盾に満ちた社会や虐げられた人々を見つめる目を育んだのかもしれないと感じている。荒畑さんが生まれてから約九十年後、私もカメラを持って同じ道を歩いたから、あらためてこの目でその場所を確かめたかった」と石内は言う。

 荒畑の生家の敷地には現在二階建ての無骨な建物があり、倉庫として使われているようだった。あたりは住宅や小さな事業所が並ぶ。永真遊郭街がもっとも華やかだった時期に、幼い荒畑がこの一角でどんな風景を見て、どんな音を聞いたのか、私には想像もできなかった。

 かつて人波でにぎわっただろう大通りには人影もなく、いま明るい陽射しに覆われている。石内は語る。

「これほどまでに遊郭街の面影が消えてしまっているとは思わなかった。かつて悪所とも呼ばれた遊郭だけど、そこには性の文化と言えるものもあり、凝った建物もその一つだったのかもしれない。でも社会は悪所の存在を認めなくなり、遊郭は取り壊されていった。悪い記憶を拭い去るように清潔感のある街に生まれ変わって、土地に積み重なっていた歴史も忘れられていくのね。それをまざまざと感じたわ」

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

与那原恵

ノンフィクション作家。1958年東京都生まれ。『まれびとたちの沖縄』『美麗島まで 沖縄、台湾 家族をめぐる物語』など著書多数。『首里城への坂道 鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』で河合隼雄学芸賞、石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞(文化貢献部門)受賞。

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