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随筆 小林秀雄

 小林先生は、鍛錬ということもよく言われた。天才には必要ないだろうが、僕のような凡人には鍛錬が要る、何事も鍛錬しなければだめなのだと言って、音楽、絵画、骨董と、耳を鍛え眼を鍛え、直観力を鍛えることを常に心がけられた。もちろん本を読むにも鍛錬が要ると言われていたが、ある日、その、本を読む鍛錬を、「小林秀雄に学ぶ塾」の何人かで始めることになった。それがいまも続いている素読そどく会である。

 きっかけは、こうだった。塾の後の懇親会の時間、当時は大学生だったS君が私に意見を求めてきた。小林先生の言われることをより深く学ぶために、××大学の××先生に来てもらってベルグソンの勉強会を始めたいと思います、どうでしょうか…とS君は言った。私は言下に「よせ」と言った。
 小林先生は、本も絵も音楽も、解説から入ってはいけない、人なら人、物なら物、知りたいと思う相手には素手で体当りせよ、第三者の解説から入ると必ず誤る、と言われていた。解説者の話を聞いて、君は君が知りたいと思うことがわかったと思うだろうが、これでは何ひとつわかってはいない、なぜなら君は、解説者の言うことを聞いただけで、君が知りたいと思っている当人、当の物にはまったく触っていない、苦労をしていない、それどころか君の目には解説者のフィルターがかかり、君が君自身で見ようとしてもそのフィルターによって肝心の像が歪んで見えさえする、何事も当の人、当の物、これと直に向きあうこと、この一点を外してはならない、そう言われていた。
 私はそれをS君に言い、君たちが本気でベルグソンの勉強をしたいなら素読会はどうだ、小林先生が、フロイトの「夢判断」とともに十九世紀を代表する名著と言っているベルグソンの「物質と記憶」を、学者や評論家といった人たちは一人も入れずに素読する、つまり、僕たち初学者一人ひとりがベルグソンに体当りするのだ、どうだ―、こうして素読会が始まった。

 素読というのは、そもそもは漢文学習の初歩とされた漢籍の読み方で、一語一語の意味を教えてもらったり文意を説明してもらったりはいっさいせず、先生と生徒がひたすら声に出して読んでいく。たとえば「論語」を読むとする、先生が「いわく」と読む、生徒はそのまま「いわく」と読む、続けて先生が「学びて時にこれを習う」と読む、生徒は同じように「学びて時にこれを習う」と読む、先生が「またよろこばしからずや」と読む、生徒も「またよろこばしからずや」と読む、これを、これだけを、最後まで何度も続けるのである。
 江戸時代まで、素読は子弟教育の中心であった。ところが明治、大正と時がたつうち教育現場から消えていった。小林先生は、岡潔さんとの対談「人間の建設」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第25集所収)で、人間には何でも一度で覚えてしまう子供の時期がある、昔はその時期をねらって素読が行われた、この素読によって誰もが苦もなく古典を覚えてしまったと言い、続けて次のように言っている。
 ―どの子も「論語」を簡単に暗記してしまう。暗記するだけで意味がわからなければ無意味だと言うが、それでは「論語」の意味とはなんでしょう。それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかも知れない。それなら意味を教えることは、実に曖昧な教育だとわかるでしょう。丸暗記させる教育だけが、はっきりした教育です。私はここに今の教育法がいちばん忘れている真実があると思っているのです。
 今の教育は、とにもかくにも本に書いてあることの意味、つまり文意を読み取らせることに躍起である。だが小林先生は、そんな教育こそ無意味だと言うのである。一生かかってもわからない意味さえ含んでいるかも知れない本、それが古典である、そうであるなら講釈はいっさい挟まずに丸暗記させておく、そうしておけばそのうち意義おのずから通ずという時もくる、そういう時が来ないなら来ないでよい、古典とはそういうものである。
 だが、かく言う私自身、素読教育を受けた経験はない。映画やテレビで時代劇が盛んだった頃、寺子屋が出てきて、そこで「いわく」「いわく」をよく見たが、学生時代に小林先生のこの言葉を読んで、いつか「論語」の素読を経験してみたいと思っていた。それともう一方で、ベルグソンの「物質と記憶」をしっかり読み直したいと思っていた。かつて一度、読むには読んだが皆目わからなかった。後で知ったが、小林先生も初めて読んだときはまるでわからず、どうにかわかりかけてきたのは七割方まで行ってからだったという。さらに先生は、いちおうわかったと確信が持てるまでには十年の月日が必要だったという。

 S君の相談を受けて、私が「物質と記憶」の素読を提案したのはそういう経緯が私にあったからだが、「小林秀雄に学ぶ塾」の素読会であるならテキストも小林先生が読んだ岩波文庫版としたいところだった。しかしそれはもう絶版になっていたから、白水社の全集版にした。こうして「物質と記憶」を読み始めてまもなく、いささか誇らしい気持ちで部外の某君に話した、すると彼は、ベルグソンの原文はフランス語だ、原文の素読でなければ意味ないだろうと言った。私もそこは気にしていた、だがすぐに、それは違うと思い直した。
 「論語」も元は中国語であるが、書かれている文字は漢字である。しかも素読は訓み下し文で行われた。ということは、「論語」の言葉は日本語と地続きなのである。だが、フランス語の「物質と記憶」はそうではない。私たちふつうの日本人にとって、それは目で見ても耳で聞いてもまったく見当がつかない言葉である。となると、一語一語の意味を調べたりセンテンスごとの文意を説明してもらったりしながらでなければ読んだ気になれない。しかし、そうしてしまったのでは素読でなくなる。したがって、「物質と記憶」も翻訳文の素読でよいのである。「論語」の訓み下し文も、翻訳文と言うなら翻訳文なのである。
 スタートしたのは平成二十六年の秋であった。毎月一回集まり、二十人ほどのメンバーが代るがわる先生役を務め、まる二年かけて「物質と記憶」を読み上げた。その「物質と記憶」が順調に運びだした頃、誰言うとなく「古事記」も素読したいとなり、半年遅れで「古事記」を始め、いまは「古事記」も読み上げて「源氏物語」にかかっている。そして、「物質と記憶」は二度目に入っている。

 小林先生は、素読の効能について、先の発言に続けて次のようにも言っていた。
 ―「論語」はまずなにをいても、「萬葉」の歌と同じように意味を孕んだ「すがた」なのです。古典はみんな動かせない「すがた」です。その「すがた」に親しませるという大事なことを素読教育が果たした。「すがた」には親しませるということが出来るだけで、「すがた」を理解させることは出来ない。古典の現代語訳というものの便利有効は否定しないが、その裏にはいつも逆の素読的方法が存するということを忘れてはいけない。
 先生は、この「すがた」ということもよく言い、とにかく、意味を取ろう、意味をわからせようとばかりしていると、「すがた」が見えなくなる、「すがた」を見ないのでは「わかった」ことにならないのが古典だとも言って、「美を求める心」(同第21集所収)では、山部赤人の歌、「田子の浦ゆ 打出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪はふりける」を引いてこう言っている。
 ―ある言葉が、かくかくの意味であると「わかる」には、Aという言葉をBという言葉に置き代えてみる、置き代えてみれば合点がゆくという事でしょう。しかし赤人の歌を、他の言葉に直して置き代えてみる事が出来ますか。それは駄目です。ですから、そういう意味では、歌は、まさに「わからぬ」ものなのです。歌は、意味のわかる言葉ではない。感じられる言葉の姿、形なのです。言葉には、意味もあるが、姿、形というものもある、ということをよく心に留めて下さい。言葉の姿と言っても、眼に見える活字の恰好ではない、諸君の心に直かに映ずる姿です。
 この、言葉の姿ということは、先生に言われてわかっているつもりでいたが、「古事記」を素読し、「源氏物語」を素読してみていっそうよくわかった気がする。黙読では感じることのできなかった「古事記」の姿、「源氏物語」の姿がありありと感じられるのである。たとえば、「古事記」はそもそもが話し言葉だが、「源氏物語」も古参の女房が人に話すように書かれている、そうした話し言葉、語り言葉の間合というか呼吸というか、そういうものが無意識のうちにも感じられるのである。
 小林先生は、「物質と記憶」を十年以上かけて、岩波文庫がぼろぼろになるまで読みこんだという。この先生の読み方は、先生が独りで行った素読だったと言えるかもしれない。先生は、ベルグソンを、哲学ではなく文学を読むように読んでいると言っていた。先生は、「物質と記憶」の文章にもまず姿を感じようとし、ベルグソンの語り口の姿をそのつど心に映していたにちがいない。
 始めた当座はほとんど予期しないことであったが、私自身、これだけの体当りをしてみて早くも得たものがある。「物質と記憶」を皆で最初に読んだときは、素読の精神で読んだから意味を取ろうとはまったくしなかった。二度目に入ってからも意味を取ろうとはせずに読んでいるのだが、そうか、ここはこういうことかと、部分部分ではあるものの自得できるくだりにけっこう行き会うのである。意義おのずから通ずということが起っているのである。これこそは意味から入らず、姿に親しむことから入ったおかげだろうと思えるのである。私たちが読んでいるベルグソンは、たしかに翻訳によってであるが、意味をとろうとはせずに読むことによって、ベルグソンが何をどう問題としているか、その問題の姿をおぼろげにではあれ感じることができ始めているのではないだろうか。

 最近、この素読会に、フランス語に堪能な女性Iさんが加わってくれた。そこで思い立って、こういうかたちの素読をしてみた。まずIさんにベルグソンの原文を声に出して読んでもらう、その原文に相当する翻訳文をS君が読む、S君に続いて全員が読む…。言ってみれば、「同時通訳素読」である。ほんのすこしの試みだったが、これが盛り上がった。原文と翻訳文とは必ずしもぴたりと照応しているわけではないから、こういうかたちで最後まで素読できるかどうかをいまIさんが研究してくれている。幸いにしてできるとなったら、これはかつての漢文学習法としての素読と同様に、外国語の姿を学ぶうえでの新手法としてもお勧めできるのではないか、いやもう方々ですでに行われているかも知れない、そんな話題でも盛り上がりながら、私たちは嬉々として素読という鍛錬を続けている。

(第四十四回 了)

★小林秀雄の編集担当者・池田雅延氏による、
   小林秀雄をよりよく知る講座

小林秀雄と人生を読む夕べ【その8】
文学を読むIV:「悪霊」について

7/19(木)18:50~20:30
la kagu 2F レクチャースペースsoko

 平成26年(2014)10月に始まったこの集いは、第1シリーズ<天才たちの劇>に<文学を読むⅠ><美を求めて><文学を読むⅡ><歴史と文学><文学を読むⅢ><美を求める心>の各6回シリーズが続き、今回、平成30年4月から始まった第8シリーズは<文学を読むIV>です。

*日程と取上げる作品 ( )内は新潮社刊「小林秀雄全作品」の所収巻

第1回 4月19日 西行(14)     発表年月:昭和17年11月 40歳
第2回 5月17日 実朝(14)             同18年1月 40歳
第3回 6月21日 徒然草(14)             同17年8月 40歳
第4回 7月19日 「悪霊」について(9)        同12年6月 35歳
第5回 8月9日   「カラマアゾフの兄弟」(14) 同16年10月 39歳
第6回 9月20日 トルストイ(17)       同24年10月 47歳

☆8月(第2木曜日)を除き、いずれも第3木曜日、時間は午後6時50分~8時30分を予定していますが、やむを得ぬ事情で変更する可能性があることをご了承ください。

 ◇「小林秀雄と人生を読む夕べ」は、上記の第8シリーズ終了後も、小林秀雄作品を6篇ずつ、半年単位で取り上げていきます。

小林秀雄の辞書
8/2(木)18:30~20:30
新潮講座神楽坂教室

  小林秀雄氏は、日々、身の周りに現れる言葉や事柄に鋭く反応し、そこから生きることの意味や味わいをいくつも汲み上げました。1月から始まったこの講座では、私たちの身近な言葉を順次取上げ、小林氏はそれらを私たちとはどんなにちがった意味合で使っているか、ということは、国語辞典に書いてある語義とはどんなにちがった意味合で使っているかを見ていきます。
 講座は各回、池田講師が2語ずつ取上げ、それらの言葉について、小林氏はどう言い、どう使っているかをまずお話しします。次いでその2語が出ている小林氏の文章を抜粋し、出席者全員で声に出して読みます。そうすることで、ふだん私たちはどんなに言葉を軽々しく扱っているか、ごくごく普通と思われる言葉にも、どんなに奥深い人生の真理が宿っているか、そこを教えられて背筋が伸びます。
 私たちが生きていくうえで大切な言葉たちです、ぜひおいでになって下さい。

8月2日(木)謎/魂
9月6日(木)独創/模倣
※各回、18:30~20:30

参考図書として、新潮新書『人生の鍛錬~小林秀雄の言葉』、新潮文庫『学生との対話を各自ご用意下さい。

 今後も、知恵、知識、解る、熟する、歴史、哲学、無私、不安、告白、反省、言葉、言霊、思想、伝統、古典、自由、宗教、信仰、詩、歌…と取上げていきますので、お楽しみに。御期待下さい。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

池田雅延

いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。

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